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黄金魂  作者: 天野東湖
エピローグ
65/65

卒業

 ――二年後。

 二月二十一日。十五時三十七分。


 岸沢東方高校では、青天の卒業式を終えた卒業生たちが、思い思いの放課後をすごしていた。その様子を、本多国雄は所在なげに本館の屋上から見下ろしている。


 卒業への感動が薄く、とても彼らの世界観に馴染めずにいた。同じ価値観を共有できる相手がいないことが原因だ。知らず知らず、変形している金網の箇所を握り込む。かつて実際に変形させた張本人は、しかし狐憑きのテロ事件がきっかけで、すでに死亡していた。葬儀は神崎家とアステリアによって、しめやかに営まれた。


 以後二年間、本多国雄は親友不在の学校生活を送らねばならなかった。言いたいことは山ほどあるが、将来の進学のためには私情を押し殺し、とにかく知識を詰め込まねばならない。おかげで四月からは米国のハーバード大学医学部への留学が決定したが、これからさらに頭を悩ませる日々に自分を追いこむことになる。おそらく、永遠にそうなるだろう。


 そうした未来への緊張感を持つ者と、持たない者との温度差が、金網越しでのなんとも言えない隔たりを生んでいるのかもしれない。しかしそれも、あの大胆不敵な親友との出会いがなければ、決して持たざる感傷だったに違いない。


 その時、携帯電話が鳴った。親友の真似で買い替えたiPhoneだが、今一つ操作に慣れない。悪戦苦闘してメールを開き、その内容を吟味する。


 しばらくして、屋上に新田新一が戻ってきた。浮かない顔だが、どこかすっきりした面持ちがある。自分の気持ちにけじめをつけるため、彼もまた最後の戦いに挑んだ結果の、表情だった。


「よ、おかえりさん」

「……ども、ただいま戻りました」


 国雄の隣に落ち着くと、新一はばつが悪そうに頭を掻いた。そして何に対してでもなく苦笑する。


「見事にふられちゃいました。まあ、最初から叶うなんて思ってなかったですけど」

「後腐れなくて良かったじゃねえか。この先ずっとうじうじするよりは、百倍マシだ」


 新田新一は高校卒業後、某県の神棲町へと越すことになる。両親は離婚したが、進学のための必要経費については父親が面倒を見てくれるので、後は新田自身が転居等の準備を進めるだけでよかった。法学部に合格したらしく、将来は弁護士になるのが目標だという。


「しっかし、お前が神崎に好意を持ってたなんてなあ。雛鳥もいいところだぜ」

「僕は、とにかく決着をつけたかったんです。そうしないと、新しい土地に行っても、僕自身が強く変われそうになかったから」

「で、整理はつけられたかよ」

「ええ、もう大丈夫です。神崎さん、向こうに着いたらメールしてくれるって言ってました」


 神崎茜は、インペリアル・カレッジ・ロンドンへの留学が決定している。言うまでもなく、遠く離れた恋人を追いかけるための口実で、である。


「そうか。俺はついさっき、彰からメールを受け取ったところだ」

「仙道さんから? なんて書いてあるんです?」

「ただの近況報告さ。あっちもこっちも問題なし。んでもって、落ち着いたらまた三人で会おうぜってな具合だな」


 半分本当で、半分は嘘だった。近況報告には違いないが、メールの内容には本多国雄の特異な『能力』に対する考察も記載されている。


 親友によれば、疑問点は最初からあったらしい。神風の背丈と、史実にある本多忠勝の背丈が、どうしても合致しない点だ。


 本多忠勝は、その輝かしい武勇伝にあって、じつは身長が低い武将として知られていたようだ。だから何がどうだと言うわけではないが、もしも神風の正体が、本多家の祖霊である忠勝ならば、少なくとも国雄と同じ背丈というのはありえないことになる。


 これに対する解答の可能性は二つだ。一つは史実が間違っているか、もう一つは神風の正体が祖霊ではない、との要点である。


 おそらく史実は正しい、と親友は言った。精確な現代の測定法で、実際に着用していた武具から弾き出した計算なら、よほどの誤解がなければ狂いが生じることはないからだ。


 親友は、本多の血に秘密がある、と言った。即ち神風の正体とは、血に関連する『遺伝子』または『潜在能力』のどちらかに絞れるのではないか、とのことだ。


 遺伝情報に秘密があるのなら、本来なら高い精度で行われるはずの複製の過程でなんらかの原因が生じ、突然変異が起きた可能性。よって神風とは通常であれば遺伝情報を読み取って祖霊を具現化するはずが、突然変異により忠勝と酷似した国雄の遺伝情報が生まれ、両者の情報が融合した曖昧な何者かを具現化するきっかけに繋がった。


 また、潜在能力に秘密があるのなら、理想的に成長した資質が偶然祖霊と伯仲していたので、その威容を借りて資質が具現化した可能性。忠勝と国雄の超人的身体能力の可能性が遺伝子レベルで酷似していたために、やはり両者の情報が融合した資質の曖昧な擬人化を果たすきっかけに繋がった。


 どちらにしても国雄にも不明ながら、祖霊と本人の関連性において『血筋』を取り除くことが不可能である以上、神風そのものの具現化についても、本人が自覚しえない情報が働きかけているのは否定できない。そして神風の仮面が勝手に割れたなら、変化しようのない遺伝情報よりも、開花していく潜在能力のほうが影響しているのかもしれない、というのが親友の見解らしかった。


「……自分だけの情報なのだから、普段から他人の眼に見えず、破壊もできない。唯一、俺だけが神風を破壊できる。俺でなければ、俺の未来は変えられないから、か」

「本多さん?」

「ま、お互い頑張れってことさ。んでもって、お互いに落ち着いたら、昔話に花を咲かせようぜ」


 国雄はその場を離れ、屋上の扉に手をかけた。それを引く前に背後から新田新一が呼びかける。


「僕たちの力は、なぜ、あるのでしょうか」

「そんなもん知るか。大体なんで『能力』を基軸に考えるんだよ。俺たちは力に振り回されて生きていくわけじゃねえ。それが、使いこなすってことだろ」

「僕たちは、この力を使いこなせるでしょうか」

「あいつの言葉を借りるなら、その力が必要だと思った時に使えばいいんだ。その結果、自分の行為が最善だったかどうかについては、神のみぞ知る」


 扉を閉め、本館から出ると、正門前に妹の有希子が待っていた。小学校を卒業し、次は中学になる彼女だが、夢は教師になることだという。


「悪ィな、待ったか?」

「ううん、大丈夫。さっき茜お姉ちゃんにも挨拶してたから」

「そうか。神崎はもう行ったのか?」

「うん。荷物は向こうに送ってあるから、後は空港に行くだけなんだって」

「イギリスとの時差は確か九時間だよな。今から行けば、着くのは早朝か」

「直行便でも半日かかるみたいだよ。だから今の時刻ぐらいに着くんじゃないかな」


 彼女の能力を使えば一瞬で着くのではと考えたが、口にするのはやめた。二年越しの再会なのだから、少しは気持ちを落ち着ける時間も必要なのだろう。


 二年前に起きた狐憑きのテロ事件は、大きな爪痕を残していた。


 本多総合病院崩壊後、彼の父親である正雄は一週間で現場に復帰した。無理を押しての職場復帰だが、その超人的な体力はマスコミに大々的に報じられ、結果的に住民の信頼を得る形となる。母の七海は全治三週間の怪我だったので、今では後遺症もなく元気な姿を見せていた。


 市内全域の病院は、あの後、例外なく徹底した検査が行われた。総合病院に一番多くの危険物が発見され、産婦人科専門クリニック、小児科診療所なども狙われていたことが後日になって発覚している。無論、ただちに危険物の撤去および殺菌消毒が行われ、現在は無害化に成功し、無事に開院へと至っていた。自衛隊の全面協力も得られたことが早期の解決に繋がったと言えるだろう。


 また、最終決戦地となった『地図にない私邸』で全滅した自衛隊の特殊部隊員は、市の復旧にともなって慰霊碑が立てられた。児童六名の救出は、自衛隊の献身的な活動によりレディ・ポイズンと相討ちになりながらも見事に全うしたのだと、市長と防衛大臣の会見で正式に発表されたためだ。この活躍は大々的に報じられ、当時の特殊部隊員たちは国民的英雄として今もなお、世界に広く語り継がれている。


 もっとも仙道彰に関しては、当時の戦いに巻き込まれて死亡が確認されたと正式発表があった。その葬儀に市長や警察関係者らも多く詰めかけていたことについては、参列していた国雄もひどく驚いたものだが。


「……ほんと、これからが大変だな。お互いによ」

「お兄ちゃん、何か言った?」

「いや、なんでもねえ。さて、さっさと帰るとするか。病院の手伝いもしないとな」

「はーい」


 時間があれば、父の病院でアルバイトをするようになった。これも将来のための経験だと思えば、苦にはならない。むしろ表面的でしか見れなかった医療の実態について、少しずつではあるものの課題と問題点が浮き彫りになってくるので、とても勉強になるのだ。


 だがこれを解決するためには、狐憑きよりも狡猾な欲望と、社会の堅牢な法律を幾度もクリアしなければならない。一人では戦えない世界はまさに孤立無援で、今更ながら父の言葉を思い出す。


 ――何を言っても聞き入れてもらえず、理解にも応じてくれないと悟るしかない時、私は全てを敵に回すことを決めた。だがそれでも一縷の希望が残っている。


 ――受け継ぐ者だ。全ては何を救うかで覚悟が決まる。


 もう過去は振り返らない。今はただ前だけを見据えて歩くべきだ。自分がまだスタートラインにすら立っていないことを、国雄は充分すぎるほどに理解しているのだから。






 首都ロンドンより西、ヒリンドン特別区にあるヒースロー空港のターミナルは、やはり大勢の人の往来でごった返していた。英国最大規模の国際玄関口は、世界一の利用者数もあって、なかなか思うように人を捌くことができずにいる。


 首都に一番近い空港はロンドンシティだが、あいにく遠距離国際線はヒースローにしかない。そしてヒースローは、敷地のあまりの広さと迷路のように入り組んだ通路があって、あまり好意的な印象を持ちにくい悪名がある。


 とはいえ、初めて単身で国外に飛び出した少女にとっては、そうした感想よりも到着の感動で拭い去られてしまうもので。


「やっと、やっと、やっと、着いたゾーッ!」


 そこかしこで英語が飛び交う異国の地に立って、神崎茜はそわそわしていた。見る物の全てが新鮮で、まるで洋画の表舞台に登場した気分になる。


「神崎さん、こちらです」


 声の方角へ振り返ると、ネイビー・スーツを着用した英国紳士のアシュレイが手招きをしていた。二年前と変わらずの童顔で、あの綺麗な緑色の瞳がこちらを捉えて離さない。


「アシュレイくん、久しぶり!」

「お久しぶりです、神崎さん。お元気そうで、安心しました」


 握手を交わし、彼女はアシュレイが誘導するままに追従する。第三ターミナルから駐車場に向かい、遠隔操作で解除音が鳴る、グレーの光沢が美しいクーペ・タイプを目撃した。


「この車、もしかしてアシュレイくんの?」

「アストンマーチン、V8ヴァンテージだよ。二〇〇五年モデルで、新車なら彼の年収の三年分に匹敵する。もっとも、彼はこれを直属の上司に安く譲ってもらったみたいだけどね」

「彼?」

「これは僕の車じゃないよ。千八百万もの大金は、とても用意できない。でも君を迎える代わりに一度運転させてほしいと言ったら、快く受け入れてくれてね。……正直にいうと少し嫉妬している」

「じゃあ、これから向かう先って」

「案内するよ。僕たちの職場へね」


 二人が搭乗する車は、それから一時間を費やして、ベーカー街のそばを通り、世界初を記念する動物園の南を通過した。そして一方通行の細い脇道グリープランド・ミューズに逸れ、タワー42専用の駐車場へと入っていく。


 シティ・オブ・ロンドンで最も高いビルディング。警備員のセキュリティ・チェックに加え、虹彩スキャンも必須のようだ。


「厳重なんだね」

「警備員のチェックは当然だけど、普通は虹彩スキャンまでしない。僕たちは特別なんだ。もちろん最上階のバーの眺めもね」


 エンジン音のしない徐行運転で停車した後、アシュレイは片隅にひっそりと設えてある防火扉を開けて、まっすぐ伸びる廊下を進んだ。突き当たりに一基のエレベーターがあり、もう一度IDチェックと虹彩スキャン、そして指紋と声紋の照合が行われる。


 その四つをクリアして、初めて使用できる特殊エレベーターのようだ。行先は地下へと続くらしく、搭乗している間にも全身スキャナーが稼働しているとアシュレイは言う。


「花屋は危険、携帯電話は筒抜け、焦りは禁物。この三点だけ憶えておくといい。きっと後で役に立つ」


 よくわからない言葉を反芻しているうちにエレベーターの扉が開いた。やはり一直線に通路が伸び、やがて蛇腹状をしたパーティションに仕切られているオープン・スペースに躍り出る。


 そこでアシュレイは、複数人の職員と挨拶を交わしながら、四基あるエレベーターのうちの一つへと神崎茜を招いた。地下五階、廊下に面したオフィスが連なる一室の扉を叩く。そのドア脇に掲げられたプレートに『Akira・Koga』の文字。


 扉を開けてすぐ先の待合室に、一人の女性職員が事務机に座っていた。一目見て、茜は彼女が、自分たちの『敵』であることを見抜く。――そのように感じた自分自身の直感に驚きながら。


 アシュレイが片手を上げて、その彼女に近づいた。


「ミス・ジュリアン、彼はまだかな」

「ごめんなさいね。アキラなら今、要人と打ち合わせ中。その間に、噂の彼女を紹介していただけると嬉しいわ」

「もちろん。神崎さん、彼女が彰のパーソナル・アシスタントで、アルマ・ジュリアンという。そしてこちらが、彰のパートナーで、アカネ・カンザキだ」

「初めまして、アルマさん」

「こちらこそ、初めまして」


 お互いに握手を交わしながら、眼と眼で語り合う宣戦布告。アステリアとはまた違った類の英国美人。あちらが躾の行き届いた豹なら、こちらは神出鬼没の鷹を思わせる高潔さが見え隠れしている。色香を振りまきながら、誰も手の届かない高みにあって他者を寄せ付けない野性的な美の結晶。


 片側にまとめた三つ編みは仕事用なのか。肌は白く、髪をかきあげる際に露出する耳はキュートなハート型の片割れをしている。シャツの胸元から覗ける谷間は蠱惑的で、やや言いがたい敵対心を抱かずにはいられない。


「あなたの彼は出世頭ね。十代で自分のオフィスを持っているなんて、ありえないわ」

「彼は、ここで何をしているんですか?」

「表向きは、国内外の廃棄物処理と再生事業の政府機関ね。でもその実態は、より悪質で危険極まりない生ゴミの大掃除だけれど」その時、彼女のデスクの通話中ランプが消えて、接続ボタンを押す。「日本からのお客様がお見えです」


 ドアの上にある赤色ランプが灯り、アシュレイに続いて神崎茜も入室する。ささやかな靴音すら許さないカーペットが八畳に敷き詰められ、清潔感のある灰色の壁材と、光沢のある黒のデスクを強調した。右手の壁はマジック・ミラーなのか、通路を歩いているのが誰なのかをはっきりと見渡せる。


 そして、室内たった一つのデスクに厳然と腰かける、ダーク・スーツの青年。本来なら無上の輝きを放つ黄金の眼も、今では専用の眼鏡を装着して黒の瞳に偽装している。


 古賀彰――かつては仙道彰と呼ばれた青年の、現在の姓名だった。


「神崎茜を連れてきました。道中問題ありません」


 よそよそしい口調に戸惑ったが、アシュレイは小声で、彼のほうが地位は上なんだよ、悔しいけれどね、と言った。


「ありがとう、手間をかけさせた」

「では僕はこれで」アシュレイが神崎茜に眼を向ける。「邪魔者は退散しないとね」


 ネイビー・スーツの背中が待合室に消えていく。それから改めて、茜は恋人のほうへと眼を凝らす。


 仙道彰は公的に死亡している。これは全国放送時の満身創痍と、新しい能力を得た後の無傷では矛盾が生じるためであり、いかに当時で九死に一生を得たといえども、後遺症もなく生還することはありえないからだ。それに『黄金魂(エヴリシング)』の恩恵は、本人さえも制御できない無敵の不老不死。いつまでも若々しく、死なない人間の存在など、最初からあるべきではない。


 そのため、仙道彰なる人物はまず社会的に殺す必要があった。アステリアの協力により、あの『地図にない私邸』から無事に生還した者は八名だと公式に記録させる。その中には当然、神崎茜も含まれた。彼女もまたレディ・ポイズンの隠された人質だったと言えば、疑う者はまずいない。


 テロ事件後、仙道彰はすぐさま英国に亡命した。これは英国全権大使の好意によるもので、かつて意志をぶつけあった元諜報員アルフレッド・リーヴェンゼルクの推薦もあったからだという。


 推薦――そう、たとえばMI6から独立し、より非合法の世界で、より強大なる悪意を察知して、未知なる脅威を事前に排除する新しい諜報組織の一員に加えることができるのなら。


「よく来てくれた」仙道彰が――古賀彰が口火を切った。「ずっと待っていた」

「夢のためだもんね。将来は独立して、二人で会社を立ち上げるんでしょ?」

「英国は世界一の情報機関を持っている。ここでの経験は、必ず後学に繋がるだろう」


 うんうん、と茜は頷いた。日本を飛び立つ前から、彰とは綿密な話し合いを幾度となく行って、その人生設計を組み立ててきたのだ。日本に残り、古武道を中心とした武術関連の基礎技術を学んできたのもその一環である。


 もう戦えない彰の代わりとして、最前線で戦うために。


「さて、茜に来てもらったのは他でもない。先に話したはずだが、もう一度確認しておく話がいくつかある」

「ほいほい、なんでございましょ」

「まず同棲についてだが、俺の名義で、茜の通う大学に近いチェルシーにある集合住宅(フラット)を用意した。後で案内しよう。合鍵もその時に渡す」

「えっと、こっちから送った荷物はもう届いてるんだよね?」

「業者から連絡があった。心配は無用だ」

「あいあいさー」

「次に、茜はまず留学用のファウンデーション過程に入るのだが、約半年もの猶予がある。その合間を利用して、先にこちらの仕事を憶えてもらう」


 彼から手渡されたのは、既存のiPhoneに酷似した携帯電話だった。タッチ画面をでたらめに操作しても、違和感はない。そして複数枚の書類も受け取る。


「彰、これは?」

「携帯の正体は、百数ものオペレーション・アプリを内蔵した特殊端末だ。外見はうまく偽装してあるが、それ一台で家が建つ。なくすなよ」

「ひえー、スパイの世界はおそろしや……」

「半年も仕事をすれば、ファウンデーション過程など造作もない経験を積んでいるだろう。目標大学への推薦はこちらで進めておく。渡した書類は、全て最高の条件で用意した保険等の重要なものだ。必ず眼を通して、署名欄にサインをしておいてくれ」

「りょーかいでありまする」

「二重生活は厳しいだろうが、頼りにしている。なに、大学生活の片手間に、ちょっと世界を救うだけの簡単なお仕事だ。胸を誇れる自信が身に付くぞ」

「誇れない胸で悪ぅございやしたね! これも『限界突破(ラブ・パワー)』でなんとかならないかなあ」

「……その呼び名、他人の前では絶対に話すなよ」

「恥ずかしがる必要ないじゃない。――ところでこの世界って、そんなに脅威が沢山あるわけ?」

「そうだな。この二年間で三十七の案件を処理したが、うち二件が世界大戦勃発の危機を招いた程度だ。なんの問題もない」

「よし、どこから突っ込もうかな」

「今夜のランチは、最上階のバーを予約している。お手柔らかに頼むよ」


 そこまでのやりとりを終えて、静かな雰囲気が二人を包んだ。そろそろと茜が歩み寄り、彰の膝の上に座る。お互いに視線を交わし、唇を近づけた時だった。


「では彰様、わたくしたちはこれで」


 机上にあるオフィス専用の電話機から、馴染み深いアステリアの声がした。そういえば入室前に要人と電話中だとアルマが話していたが、あるいは彼女がその要人なのだろうか。確か外務省に勤めているのだったか。


「ちっ、お邪魔虫め」

「あら、どこのどなたか存じませんが、来客中でいらっしゃったのですね。しかしその下品なお声は、どこかで耳にしたことがあるのですが……」

「二人とも、そこまでだ。アステリア、体を大事に。何かあればすぐに連絡を」

「ご心配には及びません。この子はきっと、父親に似て、良い子に育つはずですから」

「だが、きっと嘘つきになる」こちらは茜も知らない女の声だった。だがその名前だけは知っている。「代わりに別の命をもらったが、必要以上に父親に似ないように注意しないとな」

「そちらも、体を大事に」

「嘘つき」


 その言葉を最後に通話が途切れる。二人の懐妊は茜も知っていた。そして父親が誰なのかも知っている。話し合いの末に下した、譲渡の決断だった。


「彰のそばにいると、ほんと、退屈しないよね」

「俺の家族は、茜だ。生涯、神崎茜だけを愛することをここに誓う」


 古賀彰と神崎茜は、もう一度お互いを見つめ合った。足許に一匹の猫がいて、茜と眼が合うと途端に一鳴きする。彼女は微笑み、彰に振り返ると、そっと眼を閉じた。


 古賀彰は、恋人の頬を撫でて、ゆっくりとキスをした。


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