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浮遊する死神が、大鎌を振り上げて狐憑きに迫る。狐憑きは背後の入口から逃げようと踵を返すが、不可視の壁に阻まれて脱出できない。
頭上から肉薄する死の刃を、狐憑きはかろうじて横に滑り込むことで避けることができた。しかし死神の反応も早く、矢継ぎ早に後を追い、追撃の手をゆるめない。
「どうやら、相手も同じ神格だと、憑依も難しいようだな」
「この――ッ!」
攻撃を躱した狐憑きが背後に回り、死神の胴体部に拳をぶつける。だが手応えがない。狐憑きの拳は、霊体の死神を傷つけることなくすり抜けている。その死神が振り返るので、狐憑きは素早く拳を抜いて後退するしかない。
「バカな、なぜ『限界突破』が使えない!」
「当然だ。俺たちは茜の精神世界にいる。その中でお前は、狐憑きとして独立しているんだ。憑依の最大の弱点だな。他人に寄生しなければ戦えない己の無力さを思い知りながら死ぬがいい」
狐憑きは逃げ惑う。ただ立っているだけの仙道彰を壁にしても、彼は新しく手に入れた能力で全ての干渉を無力化するのだ。そして何事もなかったように、ただ戦いの行く末を見守り続ける。
それは一方的な処刑場に等しい様相を呈していた。狐憑きは所狭しと室内を逃げ回るが、死神はどこまでも追跡して、魂を刈り取る大鎌を振るう。反撃する術を持たない狐憑きはただ逃げることしかできないが、呼吸を覚え始めた死神は着実に相手の逃走経路を狭めていく。
「は、ハハ――ッ! 仙道彰、所詮はお前も同類だ。他者が落ちぶれていくのを見物して愉悦に浸る下種、最低の悪党だ!」
「利己と功利を間違えてもらっては困る。お前の存在は百害あって一利なし。害悪でしかないお前を倒すことは、最大多数の最大幸福に繋がる。安心しろ、狐憑き。お前の消滅は、俺がしっかりと見届けてやる」
「ほう、よくぞ言った。ならばこれはどうだ!」
いよいよ追い詰められた狐憑きは、仙道彰の背後に回り込み、彼の体をがっしりと抱き込んだ。正面から死神が猛追する。
「捕まえるだけなら、お前の能力は発動しない。このまま道連れにしてやるぞ!」
「悪食だな。そんなに人肌が恋しかったのか?」
「かつて、お前の父親が私に対してやったことだ。黄金魂――確かにおそるべき能力だが、私が消滅するまでは何もできまい。その悠久の時、このまま死の暗黒空間ですごしてもらうぞ!」
死神が突如として渦状に回転し、黒フードの原色が一つの球状に凝縮されていく。黒い穴が出現して、さながら引力の塊のように周囲のあらゆる物体を吸引し始める。
狐憑きは悟っている。あれは究極的な死の具現化、虚無の入口だ。あれに呑み込まれたものは、あらゆる死の最果てを体験させられて消滅する。それも仙道彰には無効だろうが、それでもこの手で捕まえている間は生きて地上に戻れるはずがない。
狐憑きの体がくるりと向きを変えた。背中からすさまじい速度で黒い穴に吸い寄せられ、しがみつかれている仙道彰は足許から引きずられて虚無の入口へと近づいていく。
彼は、抵抗らしい抵抗を何一つしなかった。黒い穴へ呑み込まれんとする自分の結末を、昔から約束された運命のように受け止めていた。己の死、父の死、そして新しい能力の発現と、狐憑きとの決着。これら最初から予知する術など持たない変化の数々も、今の彼にとっては理解を裏切るものではない。そして生身で虚無の監獄へと入り、そこで狐憑きが消滅するまで生き続けることを強要されるのも、いずれ経験するであろう可能性の一つとして甘受する。
狐憑きが、背中から黒い穴に呑み込まれた。足許が宙に浮き、胴体部が消失して、その妖狐の仮面と腕だけを露出させている。なおも仙道彰を絡めとり、決して放さない。
「さあ、仙道彰。一緒に奈落へと堕ちようじゃないか。悪徳はいいものだ。不老不死なら、その恩恵はさらなる飛躍を遂げて地上を支配することができる」
「狐憑き、どうやらお前は疲れているようだ。火遊びのしすぎだな。仲間を欲するなら、素直に虚無へと帰るがいい。お前には永遠の休息が必要だ」
「ああ、もちろん帰るとも。ただし仙道彰、お前も一緒に連れていく。お前がいなければ、人類はまだまだ堕ちる余地がある。さて、そこで質問だ。君は『七祖』を知ってるか?」
「……なんだって?」
「またの名を『七人の魔人』ともいう。君や神崎茜のように、それ単体で世界の外側へと独立することを許された、人外の能力者たちのことだ。やはり知らなかったな? しかし当然でもある。彼らはみな、基本的には世捨て人だからね。人外なのに『人』と呼ぶのは理屈に合わないが、意味合いだけなら間違いじゃない」
「……なぜそれを、今になって話す?」
「君がどんな顔をするのか見てみたくてね。私の情報によれば七祖の一人『受胎告知』が動き出したようだぞ。しかも、彼女の目的は君だ、仙道彰」
「……なぜ?」
「さあね。ひょっとすると君の存在自体が、彼女にとって気に食わないからじゃないかな。君はほとほと運がない。彼女は厄介だぞ。ある意味、神崎茜よりもたちが悪い」
「そうか。お前がタチが悪いというからには、よほどの聖女なのだろう。どんな人物か、今から楽しみだ」
「それでこそ仙道彰だ。しかし今は、私に付き合ってもらうぞ」
ついに仙道彰の背中が、黒い穴へと接触した。これもまた死に至る別次元へと移動するための入口でしかないので、彼の能力が発動しないのだろう。狐憑きが消滅し、再び現実世界へと戻る時、はたして地上はどのような未来を迎えているのだろうか。
仙道彰は、向こう側にある神崎茜の室内に眼をやった。あちらでは六歳の仙道彰がおもむろに立ち上がり、こちらを見て『父さん』と叫んでいる。父親が自爆した直後の光景だ。しかしそれを見て、もう哀しくなれないことが、妙に複雑だった。
過去の自分から離れていく。
首筋に、泥土のような感触。
この世への別れ、決別の時。
父も、あるいは同じ気持ちで、自爆覚悟の直前から振り返ったのだろうか。死の間際に交わした視線と言葉は、お互いに伝えきれないほどの思いを、相手に伝えたと思う。だが父の決意は変わらなかった。やはり今の仙道彰も、決意を変えることはないだろう。
耳の裏に黒の原色が触れる。
眼の片端から覆ってくる黒。
しかし完全に埋没する直前、彼はありえないものを目撃した。神崎茜の部屋の入口から飛び出してくる、九年後の幼馴染の似姿を。
「だめーッ!」
ぐい、と黒穴から引きずり出される。
仙道彰を抱き寄せる、神崎茜の抱擁。
「なっ」
彼が驚くのも無理はない。
ただ失念していただけだ。
この精神世界に狐憑きがいるのなら、神崎茜もまた存在しえて然るべきであることを。
「莫迦! 早く離れろ! お前まで呑み込まれるぞ!」
しかし幼馴染は首を振る。
「イヤ! 彰がいない世界なんて、一秒だって生きてたくない!」
「何を言ってるんだ! お前まで一緒に巻き込まれるつもりか!」
「いいもん! 彰の行く場所なら、どこだってついていくから!」
それで仙道彰は何も言えなくなった。彼女は九年前のあの日から、ずっと何も変わらずに仙道彰のそばにいて、ずっと支えていてくれたのだ。最初から今まで透徹し続けてきたその信念。人生の全てをかけて一心不乱に愛してくれる無償の好意は、それこそが何にも変えられない宝物の全てではないのか。
――ああ、だからこそ伝えたい言葉がある。
本当に、君に出逢えて本当によかった――。
「じゃあ、二人は尚更、別れちゃダメ」
いつの間にか、二人の足許に子猫がいた。ミーという名のマンチカンだ。それが二人を見上げて、人語を解している。
だが仙道彰は、その声に聞き覚えがあった。忘れるはずもない、もう一人の母の声。
「まさか、ナビ、なのか?」
「最後の切り札登場、かな」
ナビは、あの白衣の女性へとその姿を露わにした。子猫は眠るように横になる。そしてナビが撫でると、さも気持ちよさそうに一鳴きした。幸せそうな鳴き声だった。
「今までありがとうね。一杯、無理させちゃったね。でもこれからは自由だよ。御苦労様でした」
そして向き直る。彼女は仙道彰を見て、神崎茜を見て、それから最後に、狐憑きを見た。おもむろに自分の腰に手を当てる。
「こら、やっと見つけたぞ。全く、人様の邪魔ばっかりしてないで、さっさと一緒に廃棄処分されちゃおうね」
「バカな。アウラに撃たせた一弾は、あの『全世界』が創った沼の弾丸だぞ。なのになぜ、お前が生きている?」
「そんなの決まってるじゃない。私は、私だからよ。別の私に生まれ変わっても、私は私。だって私は、最初から今まで同じ目的のために生きているもの。ミー・ミー・ミー。ほら、私はどんな私になっても、私のまま私でいられるわ。私はいつでも君のことを知ってる。私たちは二人で一人。どう頑張っても切り離すことのできない表裏一体の間柄。だからね、何が言いたいかというと、かくれんぼはもうお終いってこと」
ナビが狐憑きを抱きしめる。狐憑きの手は仙道彰から離れ、固めたように動かない。
「嫌だ! 私はまだ、何も見つけていない! それなのに、こんなところで――」
「あのねえ。他人から散々、奪うだけ奪っておいて、最後の最後で自分が『何か』を手に入れようなんて、ちょっと調子に乗りすぎてるとは思わない?」
「くそ、ふざけるな! 私はまだ生きるぞ! 生きて、必ず復活してみせる!」
「はいはい、駄々をこねないの。君はこれから私とずっと生きてくんだから、ちょっとは嬉しい顔をしなさいな。元の一つにはもう戻れないけど、これから永遠に二人きりというのも、まあ悪くはないわよね」
足掻く狐憑きをよそに、ナビは虚無の入口へと押し戻す。そして彼女もまた足を進めた。完全に呑み込まれようとする直前、母さん、と呼ぶ仙道彰の声に立ち止まる。
振り返るまで、数秒もの間があった。
「バカ」その瞳は、少し潤んでいた。「麗子と私は、君を産めて、本当に幸せだったよ。あの子は君と同じですごく不器用だから、そんなことは口が裂けても言えなかったけどね」
ナビの背中が、消えていく。
その様子を、仙道彰と神崎茜は、二人で寄り添いながら、確かに見届けた。




