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「言い訳はしない。信じられないと言っても無理はない。けれど絶対に嘘ではない。俺は九年前から、命と心を救われたあの日から、神崎茜を幸せにするために生きていこうと、そう心に決めたんだ」
二人の距離は、手を伸ばせばすぐに触れ合えるほど近い。その中で、振り上げた右拳が震えて止まっている少女の姿は、ひどい葛藤に苛まれているように見えた。
「ただし当時の俺は、茜に強い劣等感を抱いていた。だからせめて、お前と肩を並べてもいいように、自分自身を強くする必要があった。その手っ取り早い方法が、探偵への将来像だ。父さんと同じくらい強くなれば、誰も俺と茜を比較しないだろう。だから一日でも早くそういう自分になれるよう努力して、それから俺自身の気持ちを打ち明けるつもりでいた。――狐憑きさえ現れなければ」
狐憑き再来の事実を仙道が知ったのは、やはり七月の、アステリアとともに屋上を後にした直後のことだった。しかし九年前の殺人鬼が、あるいは復活する可能性があることについては、彼はとうに予期していた。
恭一郎が遺した日記では、狐憑きは一度、父の手で確実に殺されている。その成果があればこそ、父は当時五歳だった彰のもとへと戻る決心をし、一年間の共同生活をすごすことにしたのだ。そしてあの悪夢の日を迎える。
この因果関係は、すでに彰の与り知らぬところで、狐憑きがすでに一度、復活を遂げている可能性を仄めかした。無論、本人が復活するという話ではない。たとえば世襲制度のように人から人へと継承される、悪意の当主の名を一貫して『狐憑き』と呼ぶのかもしれないと、そういう推論を頭の片隅に留めておいた程度のことだ。しかしこれは、彼自身のもう一人の母親であるナビの告白により、一蹴されている。
狐憑きの正体は、神の魂だった。そして誰にでも憑依し、その体を完全に支配下に置くことができる。だが唯一、神崎茜だけは憑依されないと踏んでいた。あの『限界突破』があれば、本人への有害な影響は全て、本人自身が超越する形で遮断される。
懸念すべきは、彼女の近親者が憑依されてしまうことだった。もしも神崎夫妻が人質になれば、神崎茜は為す術なく狐憑きの言いなりになるかもしれない。これを防ぐためには、仙道彰ができる限り彼女と距離を置くことだ。しかし、二人の距離はいつでも、あまりに近すぎた。
「俺は、究極的には、お前と離れるつもりでいた。もしも狐憑きが何もしなければ、とにかく茜と距離をとり、間違ってもお前とその家族が不幸の対象にならないよう、気を配るつもりでいた。しかしこの半年間、怒涛のようにいろいろなことが起きすぎて、結局何も対策がとれなかった。それどころか、茜に憑依されてしまう予想外の結果さえ生んだ。許してくれとは言わない。ただ、狐憑きに操られたまま終わっていいはずではないことは、茜も理解できるはずだ。俺はもうどこにも行けないから。ずっと茜のそばにいられるから、だから――」
仙道彰は、神崎茜を見つめた。狐憑きに憑依され、父を殺し、自衛隊の特殊部隊をも皆殺しにした、幼馴染を。
「だから茜、お前の父さんと母さんに合わせる顔まで、もう失わせないでくれ。それともお前は、お前の今の姿を、俺の口からあの二人に報告しろとでもいうのか? 今まで散々お世話になったあの二人に、俺自身の手で、神崎茜を失わせるつもりか?」
彼女は後じさり、発狂めいた叫び声を上げた。頭を抱えて悶え苦しみ、仙道彰の接近を感付くと、近づくな、と罵倒する。
だが彼は歩みを止めない。おまけに狐憑きの表面化をも阻害しているらしく、内と外の耐えがたい葛藤に寄る辺なく、神崎茜は彼を見つめた。その物哀しい眼――。
「黒木凛は、お前と出会って信念を変えた。渋沢遊は、三嶋彩乃は、清水菜月は、お前と出会って運命を変えた。だがそのどれもは、決して不幸ばかりを生み出したものではないはずだ。なのに、お前まで不幸になってどうする。今のお前の姿を見たら、彼女たちは、一体なんて思うんだ。お前が狐憑きの口車に乗ってしまったら、俺は一体どんな顔をして、あの四人の墓参りに行けばいい?」
「あたしは、あたしはでも、もうこの手は――」
彼女の震える両手を、仙道彰は確かに掴んだ。細く、真綿のように滑らかな肌。
「一人じゃない。お前のそばには必ず俺がいる。茜は、渋沢さんにこう言ったはずだな。たとえ俺が人を殺しても、二人で罪を償って生きていくと。あれを聞いた時、俺にはもうこの女しかいないと思った。茜でなければもう満足できないんだ。お前のせいだ。お前が俺のことばっかり気にするから、俺も、お前のことが気になって仕方がなくなったんじゃないか」
茜の瞳から、涙がこぼれた。みるみるうちに表情も崩れ、下唇を噛みしめ、もはや引く後すらなくなって背中を扉にくっつけて、眼の前の幼馴染をただ見つめる。
「あ、きらぁ……」
「こんな俺で良ければ、ずっと一緒にいてくれないか。必ず幸せにする。俺は、お前がそばにいてくれるだけで幸せだ。今までも、これからも」
神崎茜は、堰を切ったように泣き出した。彰が抱きしめ、彼女も彼を抱きしめた。涙はとめどなく溢れ、今までの不安と恐怖をも全て吐き出してしまうかのように止まらない。
その涙を一粒拭い、仙道彰はキスをした。神崎茜は一瞬びくりと身構えたが、すぐに眼を閉じて身を任せる。そのまましばらく時が流れた。言葉など必要ない世界だった。
やがて仙道彰のほうから唇が離れた。神崎茜の潤んだ瞳が彼を見上げる。
「彰……」
「だが、今はすまない。少しの間、我慢してくれ」
彼女の返事を待たず、彰は足払いで相手の体を浮かせた後、お姫様抱っこの要領で抱きかかえると、正面にある扉を蹴破って神崎茜を室内に放り込んだ。何が起きたのかもわからず、口をぽっかりと開けたままの彼女が白い光の部屋へと消えていく。
見届けた仙道彰もまた、その室内へと入っていった。事前に打ち合わせたとおりの彼の切り札、新田新一による『能力』がそこに展開しているのだ。狐憑きを殺す、唯一無二の最終手段である。
その日、神崎茜はたった一人で留守番をしていた。仙道彰の父親である恭一郎が日本に戻るというので、空港まで両親が迎えに行くのだという。
ただし、正確には一人ではない。これまで家族のように接してきた同居人の仙道彰も自宅にいるのだが、彼は父親との初対面がよほど恥ずかしいのか、今日はまだ一度も自分の部屋から出てきてくれなかった。何度も呼びかけたが、部屋から出ないとの一点張りで、どうにも埒が明かずに退散する羽目になる。
彼女は一階のリビングで、お気に入りのハート型クッションを抱きながらテレビを見ていた。庭はあるが、建蔽率が高い家だ。日曜日の昼下がりでは、興味を引かれる番組などほとんどない。睡魔に誘われて、やがてうつらうつらと猫背になろうとしていた時だった。
玄関の呼び鈴が鳴った。ただし液晶付きドアホンまでは手が届かないので、彼女は直接、玄関の扉を開けるのが条件反射となっていた。その日まで、人は誰しもが優しくて温かい人格者ばかりなのだと信じていた。
扉を開けた。途端、すぐに誰かが屋内に入り込んできた。帽子を被っている大きな男だ。見下すような値踏みするような眼と合うと、ほんの少し口の端を吊り上げて、舌で舐めた。
おかしいなと思った瞬間、彼女はたちまち押し倒された。叫び声を上げる暇もなく、口元が脂っこい掌で覆われる。右手の包丁が鈍く輝いている。
男は言った。騒げば殺す。逃げても殺す。だからじっとしていろと。それに付け加えてこうも言った。もしも誰かに喋ったら、お前とお前の家族に一生つきまとってやる――。
彼女は、泣きながら涙声を抑えるしかなかった。何が起きているのか全くわからない。そもそも彼は何者で、どうしてこんなことをするのか。優しくて快活な両親以外の大人をよく知らない五歳の少女にとって、眼の前の男はまるで、冗談とドッキリでできた意地の悪い迫真の演技をしているとしか思えない。
包丁の切っ先が服をめくり、下腹部から胸部までを露わにした。神崎茜はたまらず手で顔を覆った。野獣の呼吸めいた興奮の息遣いが聞こえてくる。そして頭上から飛び降りてくる、第三者の咆哮。
「うわあああああ――ッ!」
仙道彰が、階段を駆け下りた勢いをつけて跳躍し、最上段から両手で振り下ろした竹刀を男に叩きつける。脳天直撃の奇襲だった。まともに食らった相手は後じさり、その隙に手を引いて、神崎茜を救出する。
その勇気は、彼女を泣かせた邪悪の全てを振り払う光のように、心と魂の奥底へと射し込んだ。しかし邪悪は、まだ人の形を為して玄関を塞いでいる。クソガキ、と呟き続ける呪いの言葉。
「こ、こわいよぉ」
「うるせえな! おれだってこわいよ!」
「ど、どうしよう」
「……おまえはにげろ。おれがなんとかする」
彼が竹刀を構えた。その竹刀は母親からもらったものだ。そして腰こそ引けているが、刑事を勤める仙道麗子に習ったとおりの正眼の構えを見せている。腕は震えている。
「だめだよ、きけんだよぉ」
「おまえがけーさつをよべばたすかるんだ! だからしにものぐるいでにげろ!」
「ガキィッ!」
豪快に蹴り飛ばされ、彼は階段に激突した。だが彼は闘志を剥き出しに立ち上がり、即座に反撃を試みる。
それでも劣勢は変わらなかった。そもそも大人と子供では、体力も体格も圧倒的に違う。先の奇襲ですら、相手を怒らせる程度の威力しか発揮できなかったのだ。勝利の見込みがない一方的な戦いを、神崎茜は背を向けることもできずに見守っていた。ここで彼を置き去りにすることが、ひどく後ろめたくて逃げられない。
仙道彰がうつ伏せに倒れた。しかし男の右足を掴み、幼馴染への接近を許さない。顔を踏みつけられ、さらに幾度となく蹴られても、彼は一度も相手の足を離さなかった。
「あきら!」
「はやく、いけ……!」
「で、でも」
「はやくいけ! おれをころすきか!」
その言葉で、神崎茜は雷に打たれたように体を震わせた。そして鬼の形相で近づこうとする男を見やり、その足許にしがみつく幼馴染を見やる。また泣き出しそうな顔がついに涙を流しながら、彼女は逃げるようにその場を後にした。リビングに入り、ガラス戸を開け、物置と竿竹しかない小庭に出て正門を飛び出し、しばらく走った先にある近所の仲良しお婆さんの家に転がり込む。
しかし心配するお婆さんの質問に、彼女はただ泣くだけで何も応えられなかった。ただ安心して泣きじゃくり、それでも家に残した幼馴染の安否の不安に駆られて、どうすれば彼を助けられるかだけが頭の中でぐるぐる回って、言葉にできない。
ようやく事情を察したお婆さんが警察に通報し、神崎茜も急いで自宅へと戻ったのは、それから十五分後のことだった。そこにはもう見知らぬ男の姿はなく、沓脱に倒れている血塗れの仙道彰しか発見できなかった。とうに意識を失っている彼は、しかし男が穿いていたジーンズを、警察官ですら外せないほどの力でしっかりと咬み握りしめている。
彼はすぐに近くの病院へと救急搬送された。一命はとりとめたが、あまりに強い衝撃を頭部に受け続けたせいか、過去五年間の全ての記憶を失っているという。
だからだろう。病室で再会した時の彼の眼差しを、彼女は生涯忘れない。記憶喪失とはいえ、彼の眼は異物を見るように冷たかったし、言外に遅すぎた通報を責めるような光で見返してくるのだ。そして覚悟していた、知らない、という赤の他人宣告。それに返す言葉などあるはずもないことは、神崎茜が誰よりも知っていた。知っていたのに、その視線から逃げ出してしまった自分自身の衝動に、何よりも悔しい思いをしたのである。
自宅に侵入した男は、仙道恭一郎とその妻である麗子の迅速な捜査により、一両日中に逮捕された。動機は幸せな家庭の崩壊らしかったが、もはや彼女にとって、男の存在など眼中にすら存在しない。
あるのは、今後の仙道彰に対して、どのように接すればいいかという一点のみだった。彼は自分のせいで全ての記憶を失ったが、彼はその事実すら覚えていないでいる。記憶を失った経緯を教えられても、まるで他人事のように聞き流している素振りすら見られた。そんな幼馴染を取り巻く冷たい環境に対し、一体どうすれば笑顔を取り戻すことができるだろう。そういえば仙道彰の心からの笑顔など、一度も見たことがない気がする――。
思いついたのは、できる限り彼のそばにいて、自分から笑顔を絶やさずに支えてあげるというものだった。だから病室にも足繁く通い、退院後もずっと仙道家に顔を出すようにした。家事もよく手伝うようになったし、料理だって母親から積極的に学んでは、うまくできた自信作を仙道家に持ち寄ったこともある。
両親に無理を言って、私室を三階の、仙道彰の部屋と隣同士にしたのは特に名案だったと自負していた。置き土産の竹刀は今でも大切に保存しているし、時には抱き枕代わりに添い寝してもらうこともしばしばだ。一種の御守りにも似た信仰――。
それからすぐのことだ。ただ無心に、仙道彰の代わりを目指すようになった時期を境にして、周囲から天才少女と呼ばれるようになったのは。その『なぜ』が解明されるのは、仙道彰が『能力』に目覚めてからさらに数年を要し、不法侵入の男と再会した時になるのだが、これはまた別の話である。
ともあれ、そうして神崎茜の毎日は、ほぼ仙道彰の幸せな笑顔を見るために費やされていくことになる。仙道恭一郎から、あくまで冗談めいた軽口ではあったが、自分みたいな子供が欲しかったと言われた日には、心の底から有頂天になっていたものだ。いつだって全力投球の努力が報われつつある、最高の瞬間だったと言ってもいい。
いや、案外その日は遠くないかもしれない。子供にはなれずとも、いつか彼と結婚すれば、同じ家族になることには違いないのだ。すばらしい未来。ささやかな野望。仙道彰を生涯支え、彼の笑顔をいつか必ず取り戻す――いつしか彼女の幸せは、そんな明るい家族計画を想像して夢を見るようになっていた。本当に夢に見るほど、それは願ってやまない未来予想図で。
――そして、一年後の悪夢を迎える。
狐憑きは、あの日のように、口元まで裂け上がった仮面を着用する男の出で立ちで立ち尽くしていた。すでに仙道恭一郎が自爆した後の、破壊の爪痕が生々しく残る息子の自室で、である。
夕暮れが射し込むその室内には、他にけたたましいサイレンの音が響いていた。自分を追ってきたパトカーの接近を知らせる音だ。恭一郎が呼んだのか、片割れの和魂が麗子に知らせたのかはわからないが、問題は外の世界にはない。
「……そうか。そういえば、記憶喪失なんて過去もあったのか。五年間の記憶。失われた記録の温度差。五秒間の無敵能力。……もしかすると俺の能力の原点は、ここにあったのかもしれない」
部屋の中央に、仙道彰がいた。何かを懐かしむように顔に手を当て、陰影を作る。
「バカな、これは――」
「ここは茜の心の世界だ。そして、俺たちが初めて会った場所でもある」
黄金の眼が、仮面越しに彼を射貫く。何もかもを見透かさんとする光の輝き。
「仙道、彰……ッ!」
「決着だ、狐憑き。お前はもう、どこにも逃げられない」
右手を掲げ、人差し指の髑髏が光る。
途端、前方に黒い穴が生じ、その奥から『死神』が這い出るように現れ始めた。眼窩に揺らめく、炎の灯。




