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糸が切れた人形のように、本多有希子が膝から崩れ落ちた。その幼い掌から拳銃までもが滑り落ちようとして、危うく暴発する直前にどちらもアステリアが支える。
サタデー・ナイト・スペシャルと呼ばれる小型拳銃だ。他国ではペットよりも安価で入手できるので、護身用にも使われる反面、治安悪化の一役をも担っている。アステリアはそれを、光を凝縮させて破壊した。こんなものはたとえ、他人の悪意によるものであっても、子供の手に握らせていいものではない。
その有希子は、呼びかけても応答がなかった。ただし命に関わる重体ではなく、あくまでも一時的な意識障害だと目算をつける。軽度の擦過傷や挫傷だけで済んだのは、やはり仙道彰の尽力によるものだろう。できれば早急に医師の診察を受けるべきだが、隣で横たわっている想い人の絶望的な負傷を一瞥した瞬間、彼女の心は急速にかき乱されていく。
仙道彰は、即死ではなかった。しかし、いつ死んでもおかしくない瀕死の重体であるのは間違いない。銃創が腹部にではなく、胸部にあるのが奇蹟の一因となっているようだが、すでに意識は喪失している。そも目覚めているとして、自力で四肢を動かすことも難しいはずだ。あまりの惨状に、怒りとも哀しみともつかぬ激情が湧き起こる。
「さて、幸福とは何か。苦しい思いをしてまで生き永らえることが幸せか? それとも、あらゆる束縛から解放される死の抱擁こそ幸せか? 命と心、先にどちらを救うべきか?」
そこまで言って、神崎茜は高らかに笑う。
異様な興奮状態であった。不敵な笑みを浮かべ、さも愉快げに声を漏らしている。その傍らで倒れているレディ・ポイズンは明らかに帰天していた。胸の風穴、潰れた心の臓。そして赤く血塗られた、神崎茜の細い右腕――。
「……茜さん、あなたは」
「神崎茜は眠った。この世で最も信頼していた男に背を向けてね。君も気をつけたまえよ。いつ仙道彰に捨てられるか、わかったものじゃない」
「……狐憑き、最初から茜さんだけに狙いを絞っていたのですね」
「仙道彰を追い詰める、最も効果的な方法を考えた。彼の精神力はすでに、私の冗談をも遥かに上回っていたからね。正直に言って、苦労したよ。仙道彰を追い詰めるためには、まず神崎茜という強力な護衛者を倒さなければならない。しかし、そこにヒントがあった。自業自得の末路さ。あの冷静な仙道彰の絶望っぷりときたら、きっと全国の笑い者として永遠に名を刻むことだろう」
光の剣による一閃。
だがそれは茜の――否、狐憑きの素手でたやすく止められる。
「くっ」
「往生際が悪いな。君も経験済みのとおり、限界突破は古今最強の能力だ。この全能感、この無法感こそ、まさに魔王と呼ぶにふさわしい」
「……狐憑き、あなたの目的は一体なんですか」
「真に理想的な女性に巡り合うこと。そのためには、私が用意した試練を克服してもらう必要がある」
「試練?」
「そうだ。私はこの世に生まれ落ちて以来、私自身を強く魅了してくれる完璧なる女性を捜し続けてきた。あの岩倉葉子に出会ったおかげだ。彼女がいなければ私は、私が生きていくための目的をも見出すことができなかっただろう。今から思えば、私は彼女に対して、淡い恋心を抱いていたのかもしれない」
「聞きしに勝る歪みですね。あなたの理想を、別の女性に押しつけないでいただきたい」
「君のお婆さんは失格者だった。最初から全てを捨てた女には、望むものなど何もない」
アステリアは即座に狐憑きの顔面を左手で覆い、ためらうことなく零距離からの光球を直撃させた。人体では何もかもが蒸発して影しか残らぬ、約六千度の熱の塊。
だが狐憑きは、神崎茜の能力の保護を受けて無傷のまま立ち尽くしていた。アステリアは一旦距離をとり、相手を睨む。敵の足許には本多有希子と仙道彰が倒れたままだ。
「諦めたまえ。進退窮まるとは、このことだ」
「さあ、それはどうでしょうか」
手をかざす。狐憑きの頭上に無数の光の矢が現れ、それが一斉に降り注いだ。狐憑きが目映いほどの光に包まれ、その間に光化移動を終えたアステリアが、倒れた負傷の二人を運び出そうとする。
その直前、なんの前触れもなく金色の髪が引っ張られた。反った首許に細い左腕が回され、身動きがとれなくなる。
「熱量、光度、速度、電磁波、それらが君の手札だ。唯一、熱量だけが無限値を弾き出すことが可能だが、今の私の前では無限も一つの限界にすぎない。そして『全ての限界』は、神崎茜の『限界突破』によって最初から超越される運命にある」
「……ふざけたことを」
「全くだ。かつてウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフがこよなく愛した非暴力主義者、レフ・トルストイは言った。人生のあらゆる矛盾を解くものは『愛』であると。これこそ神崎茜の特徴を一言で表した、痛快な皮肉だとは思わないか? 愛では人を救えぬのだ」
「人間に寄生しなければ生きられないあなたが、言うことか!」
「私が望むのは救済ではない。人の心が砕け散る瞬間の絶望だ」
髪ごと持ち上げるように、狐憑きが腕を振るう。直前に光化して魔の手から逃れたが、あらゆる攻撃も移動も通じない以上、アステリアの万策はすでに尽きている。
「絶望こそ、その者の本性が凝縮される。思考実験をしている暇はないぞ、アステリア。お前の迷いが、仙道彰を殺すのだ」
狐憑きが、横たわる仙道彰の銃創を踏みつける。その瞬間、彼は盛大に吐血した。口が開いたまま塞がらない。もう退路はない。
「狐憑きッ!」
光化移動で相手の背後に回り込み、光の剣で一閃する。しかし狐憑きの体には、たった一つの傷痕もつけられない。
直後、胸を貫いた無慈悲な右腕が背中を貫通した。無論それは、狐憑きの片腕だ。
「戦略上でも戦闘上でも、敵の弱点を握った者が勝利する。文字どおり、私はお前の心臓を握ったぞ」
ぶじゅ、と何かが背後で潰された音がした。胃液が逆流するように血反吐が出る。もう助からないと悟らせる出来事だった。アステリアは確かにそれを実感し、倒れる。
「正直に告白すると、君は強敵だった。情報戦の申し子と言ってもいい」
「狐、憑き……」
「だが、いかにオンラインの無敵でも、そのオフラインは完璧ではなかった。さようなら、英国の栄光よ。光だけの世界はあまりに目映くて、人間は生きられないのだ」
彼女の瞳から急速に光が失われていく。ぴくりとも指先が動かなくなる。
仙道彰はそれを、横目で見ることしかできなかった。その眼の光もまた、人形のように空虚な色合いを帯びていく。彼はそのように多くの死を見つめ、やがて息を引き取った。いかなる蘇生術も間に合わない、完全なる死。
ひとしきり哄笑した後、狐憑きは、その亡骸をつまらなさそうに見下ろした。仙道彰の頭部を足先で弄び、しかし何も反応がないので飽きが回ったのか、一つ息を吐いて背中を向ける。まるで新しい玩具が早々に壊れてしまって、今一つ満足いかない余韻に心残りがあるような、その喪失感。
その時、円筒形の物体が複数個、狐憑きの足許に転がってきた。怪訝に眉をしかめると、それは発光と爆音、さらには発煙まで焚きつけて場を支配する。
一つは閃光発音筒と呼ばれる手榴弾だ。非致死性だが、直撃すれば対して視覚と聴覚に多大なダメージを与え、敵戦力の戦意喪失を狙う。そしてもう一つは発煙手榴弾。これもやはり視覚と嗅覚を狙った非致死性で、煙を吸引した者は激しい催涙症状を引き起こす。
狐憑きは呆然としている間にたちまち後頭部を掴まれ、そのまま押し倒された。煙幕に包まれたうつ伏せの状態で足に一人、背中に一人、正面に一人が彼を押さえ、取り囲んでいる。
そうしている間にも、煙幕の彼方から続々と何者かが侵入してくる気配があった。眼を凝らすと、エントランスの正面玄関から雪崩れ込むように、迷彩装備の男たちが屋敷内に侵入してくるのがわかる。さらに裏手、元踊り場があった破壊の爪痕からも男たちが押し寄せ、軽機関銃Mk46を構えながら周囲を警戒した。どこからか窓ガラスを叩き割る音がして、二階廊下を多数の迷彩服が埋め尽くしていく。
いずれも目出し帽をかぶり、鉄帽とゴーグルを装着して、その容貌の特定を困難なものにしていた。屈強な体格から、かろうじて全員が男なのだとわかるものの、迅速な行動は極めて機械的で、一切の無駄がなく、わずかな隙もありえない。
怒声が日本語で交わされていることから、彼らが自衛隊所属の特殊な隊員であることは明白だった。しかし国内の特殊部隊といえば、じつは一つしかない。自衛隊最強との呼び声高いレインジャー、その有資格者で構成した第一空挺団などからさらに選抜された、約三百名からなる精鋭中の精鋭部隊。
人数を目算して、中隊規模の人員が派遣されているのかもしれない。彼らは倒れている本多有希子、仙道彰、アステリアを確認すると、その体を抱えてすぐさま屋敷外へと運び出そうとする。
すでに内部の事情をある程度把握している者の動きだ。だとすると、アステリアの生体反応が途絶えた時をこそ合図に突入する手筈だったのか――。
「これはこれは――負け戦の保険まで抜かりないとは、死してなお飽きさせない女だ」
狐憑きはまず踵を使い、足の自由を奪う男の頭部を吹き飛ばした。そして片腕を背後に回し、相手の首を、オレンジを絞るようにねじ切ってみせる。正面の隊員は即座に銃口を向けたが、それより早く千切った首を投げつけて、お互いの頭部をぺしゃんこにさせた。花開くような血飛沫が宙を舞う。
異変に気づいた近くの隊員が数名、Mk46を構えた。
「諸君、地獄へようこそ。おもてなしはできないが、歓迎するよ。君たち一人一人の屍がまた、仙道彰の罪と罰を生み出すのだ」
特殊部隊の精鋭たちが声を発するよりも早く、狐憑きが動き出す。銃口を掴み、他愛もなく手首だけで相手の体を持ち上げると、そのまま銃身を押し込んで隊員の腹部を貫いた。驚愕からくる一瞬の沈黙後、左右から同時に弾丸が飛んでくる。
狐憑きはその凶弾を浴びながら、仙道彰の遺体を運び出そうとする隊員まで近づいた。隊員が敵の姿を認めた時、すでに膝から下は千切れ飛び、あたかも王の前に跪く姿勢へと強いられる形となる。
魔王、狐憑き――。
「彼は置いていってもらうよ。真実を見抜く眼を持つ者は、より多くの悪意、より多くの邪悪と対決し、人間の本質を見極めてもらわなければならない。人間の真の敵が、じつは人間であることを自覚して、彼は初めて、私が望む『永遠の魔人』になる」
狐憑きが手を伸ばす。しかし足を失った隊員に触れる直前で、背後から誰かが覆いかぶさって首筋にナイフを突きつけた。また、別の隊員は真正面から狐憑きの懐に踏み込み、散弾銃の銃口を胸部に向ける。
その二人が同時に必殺を仕掛けた。鋭利な刃先を引き、あるいはトリガーを引いて、敵対象の再起不能を試みる。しかし刀身は砕け、放たれた電撃弾も無力に終わった。二人は驚きに眼を見張りながら、狐憑きが腕を振るうだけで死んでいく。
「流れる血は多ければ多いほどいい。仙道彰のせいで、岸沢市が危険に晒され、君たちが皆殺しに遭う。誰も私の存在など信じないからね。ここはその伝言を世に広めるための、悪夢の地になる。そして人類の手で、あの仙道彰が抹殺されるのだ」
「――しかしあなたは『バカな』と二度言う」
声が聞こえた。心臓を握り潰したはずの、女の声。
振り返ると、あのアステリア・A・ランクルージュが立っていた。その両手には一対の光の剣がある。
「バカな、一体どうやって」
「言ったはずだぞ。変えられない運命を変える、それが僕の能力だと」
またもや背後から声がした。しかし男の声だ。ひどく馴染みのある、懐かしくも寒気をもたらす宿敵の声。
首を巡らす。背中を羽交い絞めにする仙道恭一郎と眼が合った。目許が息子によく似ている、しかし野放図な雰囲気のある長身痩躯の体つきが、特殊部隊の装備をまとっている。
「まさか、そんなバカな!」
「理解できない――それは人間の本能的な恐怖を呼び起こすものだが、狐憑き、どうやら君にも同じ衝動があるみたいだな」
一秒にも満たない混乱と、慄然。
それが光化移動で肉薄したアステリアの、二振りの光の剣を無防備に受け止める油断を生んだ。しかも光の剣はあろうことか、狐憑きの胸から仙道恭一郎の背中まで貫いている。
「ぐっ」
「思い込みさ、狐憑き。僕が背中にいるから彼女は剣を使えないと計算した、君が素直に愚かだっただけのこと」
狐憑きが猛り狂い、吼える。この男は、この仙道恭一郎なる不確定因子の存在は、いついかなる時も、一番の興奮を覚える絶頂の頃に邪魔をしてくるのだから。




