05
傷と泥だらけの体のまま招待された本多家は、商店街を北に進んだ先にある、駅前高層マンションの二十八階に居を構えているらしかった。一階には中庭を一望できるテラスがあり、住人専用のチップキーがなければ階を移動できないエレベーターも十基ある。
すでに一階の雰囲気だけでも、一流ホテルの高級感に匹敵する清潔さを漂わせていた。そうした驚きの余韻に浸っているうちに、彰は二十八階の角部屋に案内され、部屋の玄関に上がり込む。廊下を少し進んだ先にリビングがあり、白で統一された内装の一つ一つが、あたかも破格の香りを匂わせるかのように丁寧に磨き抜かれている。駅前の風景を見渡せるワイドビューの窓は、まさにこの部屋の敷居の高さを物語っていた。
そして彰たちを出迎えるのは、これもまた室内の雰囲気に見事に調和した、女優のような美女。
「あらあら。国雄がお友達を連れてくるなんて、珍しいわね」
「お袋、まずはこいつを風呂に入れてやってくれ。あとでオレも入る」
「はいはい。もう湯は沸かしてありますから、そのまま入ってくださいな」
「すみません。ありがとう、ございます」
どう見ても三十前後としか見えない女性に誘導され、今度はテレビ画面のある浴室へとお邪魔した。ずたずたにも濡れた制服は女性の指示どおり、脱衣所で指定の籠に入れておく。代わりの衣服はどうやら、国雄の私服を貸してもらえるようだった。
まずはぴりぴり熱い温度に設定したシャワーをこれでもかと浴びていく。びっしょりと濡れた泥まみれの髪も体も手で洗い、やはり頭からシャワーに打たれる。そうして気持ちよくすっきりしたところで湯船に浸かり、きっちり五分ほど体を休めてから浴室を出た。半身浴どころか、最後の一分間は頭まで湯船に沈ませるのが仙道彰の習慣なのだった。
痛みの激しい胸部と悪戦苦闘しつつ、彼が脱衣所でバスタオルを使っていると、かたん、と扉が開く音がした。
「あ、あの、きがえを持って――」
立っていたのは例の少女だった。両手で持っていた衣服を落とし、みるみるうちに頬を赤く染めていく。小動物のように邪気のない眼が一層丸くなる。
「今、出たところで」
全裸の彰が止める間もなく、彼女は悲鳴を上げながら脱兎の如くに逃走した。それから入れ替わるように国雄が現れ、走り去っていく少女を見つめた後、彰を見やる。なんでもないように肩をすくめた。
「やっちまったな」
「迂闊だった。子供には刺激が強すぎる。トラウマにならないといいが」
「妹の有希子だ。まあ、後悔先に立たずってやつだな。出たら真っ先に謝っておけばいい。さて、今度はオレが風呂を使わせてもらうぞ」
虎のプリントが入ったシャツに、ビンテージ加工のデニム。身長差もあって丈はかなりゆとりがあるが、生地は素晴らしく肌によく馴染む。いい素材を使っているのだろうが、その反面やはり値段のほうが気になるのは、身が引き締まるような高級感にあまり馴れていないせいだろう。
国雄と入れ替わって脱衣所を出た彰は、先ほどの美女に促されてリビングに招かれた。ソファを勧められ、お茶と聞いて緑茶を思い浮かべた彼に対し、彼女は当然のように紅茶を差し出してにこやかな笑みを浮かべる。
名前は本多七海――やはり本多兄妹の母親のようだった。
「そう、仙道彰さんと仰るの。立派な顔立ちといい、素敵なお名前ですわね」
「父が名付けてくれたそうです。物事を明らかにするという意味で」
「きっと好奇心が抑えきれないお父様ですのね。知識欲が旺盛なのですわ」
「因果な商売上の癖でしょう。父は私立探偵でしたから」
「あら、それは一風変わったお仕事で。それじゃあ今もご活躍されているのかしら」
「いえ、俺が子供の頃に、眠りました」
途端、彼女は本当に己の身に起きた出来事のように哀しい眼の色をして、息を呑んだ。
「……心中、お察し致します」
「お構いなく」
七海は消毒液を染み込ませたガーゼで彼の顔の傷を拭っていく。その傍らにぴったりと少女――有希子が付き添っているが、彰と眼が合うと途端に母親の影に隠れてしまう。
「あらあら。お兄ちゃん以外の大きな男の子が一緒で、照れているのかしら」
「いえ、じつは彼女に謝らないといけないことがありまして」
脱衣所での事故を思い出す。彰はなるべく刺激させないように微笑んだ。
「有希子ちゃん、さっきはごめんね。その、変なもの見せてしまって」
「変なもの?」七海が首をかしげた。
「ああいえ、違うんです。変なものじゃないんですけど、その、ちょっとした事故がありまして。えっと、なんて言えばいいのか……」
「そいつが脱衣所にいる時に、ばったりと入っちまったんだよ、有希子は」
助け船を出したのは国雄だった。すでに家着に袖を通し、コーヒーを手に持っている。そしてソファの空席、彰の隣にどっしりと腰を落とした。
手を寄せて少し考えた風の七海が、小さく笑う。
「そう。それでこの子ったら、顔を真っ赤にしているのね」
「んなことより有希子。オメェ、こいつに言わなきゃいけねえことがあるんじゃねえか?」
兄の言葉で、少女は心細そうに俯いた。彰を見て、兄を見て、そしてまた俯いてしまう。
コーヒーを一口飲み、国雄は一つ息を吐いた。
「有希子。間違えるのは恥ずかしいことじゃねえ。だが何も言わねえまま間違えるのは、お前らしくねえぞ。……それとも、こいつのこと嫌いか?」
少女はすぐさま首を横に振った。
「だったら素直になれ。こいつは悪い奴じゃねえ。オレが保証する」
有希子は弾かれたように顔を上げた。兄は口の端を吊り上げて笑っている。
彼女はしばらく迷っている風に両手をもじもじさせていたが、やがて意を決したようにおずおずと前に進み出た。ソファの前、薬箱を抱えて下がった母親に代わり、緊張した面持ちで彰の前に立ち尽くす。
「あ、あの、えっと、その……」
「うん?」
「……助けてくれて、ありがとう、ございました」
「いいえ、どう致しまして」
「それから……さっきは、その、ごめんなさい」
「いや、あの時は俺も悪かったから。もっと気を配るべきだった。今度からは気をつけるよ。だから、ぜひ君と仲直りがしたい」
彰は手を差し出した。最初は戸惑う彼女だったが、やがて相好を崩して握手に応じてくれた。本当に愛らしい小動物のように小さな手だった。国雄が守りたいと思う気持ちが、温かいほど理解できる。
手が離れると、彼女はすぐに兄のもとに近づいた。
「えへへ。お兄ちゃん、ユキ、ちゃんと『ごめんなさい』が言えたよ」
「よーぅし、偉いぞ有希子」くしゃくしゃと妹の頭を撫で回す。「明日は好きなケーキを奢ってやろう」
「わーい、やったー」
ぴょんぴょんとソファの周りを飛び跳ねると、有希子は向かいの腰かけに座った。はにかむような笑顔がたまらなく無邪気である。
コーヒーカップをテーブルに置き、国雄が彰のほうを見やった。
「オレも謝らなきゃならねえな。一方的に誤解しちまって、悪かった」
「いや、妹を守るためなら、仕方がない」
「有希子、かわいいだろ。だが間違っても手を出すんじゃねえぞ」
「もちろんだ。美人なのは認めるが好みじゃない。俺の好みは、要領のいい女性だ。ああ、将来に期待してもいいなら話は別だが」
「この野郎ッ」
国雄がその筋肉質の腕を回す。がっちりと首元を押さえるが、彰がタップするとすぐに放した。そしてまたコーヒーに手を伸ばす。
「そういやァさっき、脱衣所でお前の体を見たが」
瞬時に、彰の顔が凍りついた。すぐ隣にいる国雄に首を巡らせ、身を引く。
「……んだよ、その反応は」
「断っておくが、俺にそっちの気はないぞ」
「オレにもねえよ! つか、変に曲解しすぎだろ。真面目な話をしようって矢先によォ」
「急に真顔になってそんなことを言うから、余計に怖かったんだが」
「うるせえ! それ以上言うとぶっ飛ばすぞゴルァ!」
あからさまに怒り出すのも怪しい気はしたが、それを考え出すと尚更、身の危険を感じて話が進まなくなりそうなので妥協した彰であった。
「わかった。謝るよ。――それで、俺の裸を見てどうしたって?」
「だからそうじゃねえよ! ――ったく。普段から、体を鍛えてやがるなって話をしようとしたんだよ」
話題の意外な方向性に、彰は面食らって何も答えられなかった。
しかし国雄は構わず話を続ける。
「おかしいと思ったんだ。最初の『神風』の攻撃、いくら手加減してたとはいえ、すぐに立ち上がれるダメージじゃねえ。なのに第二撃はしっかり踏ん張りやがったし、直後にはアスレチックを利用して反撃まで披露しやがる。能力を使って耐えたとしても、連打まで防ぎきったとは思えねえ。それに最後のパンチ、あれは速いうえに体重も乗ってやがった。とても一日や二日でどうにかなる動きじゃねえ。普段からそういった運動を前提に鍛えてねえとできねえ身のこなしだったぜ」
「なんだ、そんなことか」
ここで初めて、彰は紅茶を口にした。優しい甘味が口の中に広がっていく。
「確かに、俺は普段から体を鍛えてる。それはもちろん、体が資本だから、という意味もあるが、いざという時に動けない体じゃ一番困るからだ。いつどこで誰が、どんな事故や事件に巻き込まれるかわからない。そんな時、何かにつけてぜえぜえと息を切らしてたら、とてもじゃないが間に合わないだろ」
「なんだそりゃ。正義の味方にでもなるつもりか?」
「自分自身を裏切りたくないだけだ。俺はもう二度と、後悔したくない」
「その様子だと、なんか訳ありっぽいな」
「そっちこそ。噂によると、波乱万丈だったみたいだが?」
「まあな。――いろいろあったぜ。最初は悪霊が出たと大騒ぎしたぐらいだしな」
彰が忍び笑いを漏らす。それに釣られてか、国雄も微笑した。
「ガキの頃の話さ。目の前にいきなり鎧武者みたいな不審者が現れたら、そりゃ誰だって驚くだろ。けど親には見えねえし、周りの人間だって堅実的な常識派の連中ばかりなもんだから、すぐに失笑される。幽霊なんてものは光の加減による目の錯覚で、そうでなきゃ白昼夢でも見たんだろうって具合にな。だが実際にはそうじゃねえし、悪霊は襲ってくる気配こそないが、触れることだってできるんだ。なのに他人には見えない。だから真剣な悩みだと信じてもらえず、しきりに幽霊の話を持ち出す不気味な子供として、偏見の目を向けてくる奴らが後を絶たなくなった。……それからさ。次第にオレの周りから、自分の子供を遠ざけようとする大人が増えていったのは」
そう話す彼の眼は、どこか物寂しい何かを見ている風だった。
「けどな、ここからが笑えるんだぜ。大人が遠ざけようとすればするほど、面白半分に近づいてくる連中が増えるんだ。呪いだの祟りだのと持ち出して石を投げてきやがってよ、ムカついて殴ってやろうかと思ったら、代わりに悪霊が殴ってくれたんだぜ。それで奴ら、訳がわからねえって顔がみるみる青ざめてよ、やっぱり本物だとか喚いて逃げていくんだ。あん時は正直に言ってスカッとしたね。悪霊もやるじゃんと、結構見直したもんさ」
「へえ」
「神風をコントロールするのに、さして時間はかからなかったな。なにせ、近寄ってくる連中のほとんどは、興味本位でケンカを売ってくるアホどもだ。そうやって火の粉を振り払ってると、自然と身についちまうからもう止まらない。自称ケンカ自慢の不良どもまでわんさか近づいてくるようになってよ、そのうちの一人が暴走族とつるんでたもんだから、やるかたなしで族ごと潰しちまったんだな。――まあ、妹にまでちょっかいを出そうとしやがった連中だ。これも因果応報ってやつさ」
「そんなに喧嘩して、よく問題にならなかったな」
「不能犯だよ。神風は監視カメラにも映らねえし、ましてや他人の目にも映らねえから、暴行の証拠になりゃしない。せいぜい厳重注意に留まるだけだ。ま、そうやってどんどん孤立して、問題児のレッテルを貼られちまったのは認めるがよ」
「そうか。――『神風』という名前は、自分で付けたのか?」
「いい名前だろ? ご先祖様が本多忠勝っていうのも自慢になるし、伝説って意味でも見劣りしねえからな。そういえばお前の能力は、確か『鋼鉄意志』だったか?」
「子供の頃に付けた名前だよ。知り合いにはダサいと笑われた」
「渋いじゃねえか。五秒間の無敵能力で相手に立ち向かうってか、まさに『鉄の心』だ」
そう言うと、国雄は思い出したように笑った。彰が怪訝な顔をして彼を見返す。
「どうかしたか?」
「いや、なんかスッキリするなと思ってさ」
「うん?」
「だってそうだろ。普通は『能力』の実在なんて誰も信じない。それこそ超常現象だとか超能力よろしく、胡散くさい偽物のように笑われるのがオチだ。なのに今のオレたちは、非常識な『能力』があることを前提になんでもない話をしてる。それが妙におかしくってよ」
「ああ、その気持ちはわかる。自分だけの力は、自分だけにしか知る由がないから、誰にも相談できないんだ。そして他人に話せないということは、理解者を作る余地がほとんどないということ。そこに、能力者たちが抱える共通の不幸がある」
「だろうな。だから今のオレは、こうやって安心できるのかもしれねえ。他にも同じような力を持ってる仲間がいる。そう考えられる日が、やっと実感できる日がきたんだってな」
彰は少し笑った。
「気負う必要はないんだ。自分なりに折り合いをつけて、うまく能力を使いこなせばいい。大事なのは『自分が特別だと思わない』こと。難しいが、最も基本的な心構えでもある」
「それ、誰かの受け売りか?」
「親父が、師匠から承った言葉だそうだ。とにかく『能力』そのものの特殊性については未知の部分が多いから、真偽を測る方法がなく、だからこそ理解者を得られない能力者の多くが敵を作り、自ら道を踏み外していくのだ――ってね」
「へえ。お前の親父さん、何をしてるんだ?」
「私立探偵。けどもうこの世にはいない。俺の目の前で、狐憑きという殺人鬼を道連れに自爆した」
「……そうか。そいつァ、悪いこと思い出させちまったな」
「気にするな。俺も気にしてない」
二度目の紅茶を堪能してカップをテーブルに置くと、途端に咳払いをして、国雄が手を差し出してきた。無骨な右手が開かれている。
「本多国雄だ。改めて名乗る必要はねえかもしれねえが、ここで会ったのも何かの縁だ。……だから、その、もしよかったら、オレのダチになってくれねえか」
気恥ずかしそうな彼の横顔を、彰はまじまじと見つめた。
「別に、他意はねえぞ。ただ、なんとなくこのまま別れるのも、癪だなと思ってよ。ほら、あれだ。同じ高校なんだから、たまには顔を合わせるぐらい、いいだろ? な?」
「……たまに顔を合わせるもなにも、俺たちはクラスメイトだが?」
「――、は?」
「入学式の時、俺の斜め前の空席に座っただろう。それですぐにわかった。こいつは俺のクラスメイトだと」
「そ、そうか。クラスメイト、だったのか」
「だから、これからは嫌でも毎日のように顔を合わせることになる」
そうして、彰は国雄の手を握り返した。
「仙道彰。彰でいい。よろしくな」
「国雄だ。相棒ができて嬉しいぜ」
「むー。お兄ちゃんたち、ユキを置いてけぼりにしてるー」
互いに笑いながら、三人で何気ない会話をしている時だった。インターフォンの応対に出ていた七海が戻り、彰を呼び出す。
どうやら来訪者のほうから、彰の名前を口にしているらしかった。しかしここにくる際、彼は誰にも連絡しなかったので、来訪者が知り合いであることはありえない。
とりあえず七海に否定の返事をして、なんとなく外の景色を見ようと窓に目を向ける。
地上二十八階、宵に暮れゆく都会を濡らす雨模様。
それは本来なら、普段とは一味違った風景となって、ぼうっとできるはずだった。
窓ガラスの外側。
まるで爬虫類のようにぴたりとへばりつき、白い両手と顔だけをこちらに覗かせる女の姿さえ見なければ。
全戸南側の高層マンション、間違っても逆さまに吊り下がれるような起伏は存在しない。
にもかかわらず、彼女はじつに恨めしそうな目を彰に向けるのだ。
そして再び七海が戻ってくると、即座に体を引っ込める――。
「彰さん。本当に、お帰りしてもらってもいいのでしょうか?」
「……いえ、俺が呼びました。ぜひ、招いてやっていただけると助かります」
そうですか、と彼女は納得顔で去っていく。
国雄が不審そうに彰を見た。
「大丈夫か? 顔が真っ青だぞ」
「できれば、ずっと念仏を唱えていたい気分だ」
雨、携帯メール、放課後の正門。
それだけ思い出せば、自分の名前を口にする訪問者が誰なのか、彼だけは見当がつく。
足任せに歩いただけでたやすく位置を探り当て、適当に押した番号がたまたま本多家に繋がったとしても全く不思議でないほどの、能力者。
玄関の扉が開くと同時に、彰の体がびくりと反応する。
「――初めまして。岸沢東方高校の一年、神崎茜と申します」
地上二十八階の室内に、逃げ場はない。
無意識に耳を澄ませる仙道彰は、廊下を歩いて近づいてくる幼馴染の足音を確かに聞きとった。




