58
最後の檻が爆発した。六人の子供たちを閉じ込めていた罠は、その土台に地雷の細工が施されていたようだ。原形を留めぬほど木端微塵に吹き飛ばす破壊力が、おそらく刻限を迎えて作動したのだろう。
しかし仙道彰は生きていた。子供たちも六人全員無事だ。手榴弾を使い切り、鋼鉄扉に突破口を開くことができたおかげで、最後の檻から脱出している。子供たちには多少なりとも怪我を負わせてしまったが、誰もが軽傷で済んでいるのが不幸中の幸いだ。身を寄せ合い、お互いに庇い合っていたことで、なんとか爆発の影響から耐えきったのだろう。
だが、子供たちへの被害を最小限にするために、常に扉の近くから手榴弾を爆発させていた仙道彰のダメージは甚大である。むしろ生きているほうが不思議なくらいだ。すでに満身創痍の身は、檻から脱出した後も、その罠箱に仕掛けられた爆弾から子供たちを守るために『鋼鉄意志』を行使している。
「人間は、壊れた姿こそ美しい。その本質、その実態は、見る者を惹きつける力がある」
空虚な拍手が近づいてくる。生命維持の限界――床面を這うどころか顔を上げることも難しい彰の体は、艶めかしい足取りで接近するレディ・ポイズンに反応できない。倒れたままの彼の髪を鷲掴みにし、思いきり首を反らせるように持ち上げる。
この女はもはや毒殺の専門家ではない。生粋の悪意によってのみ存在する厄災の神、狐憑きなのだ。
「全ては再利用だ、仙道彰。古いもの、捨てられるもの、朽ちるもの、衰えるもの、その全ては再利用されることで新たに息を吹き返す」
「お前は、ただの盗賊だ。盗人猛々しい、恥知らずだ」
「信念のために情報を盗むのは一体誰だ? 自然の真理、食物連鎖を思い出せ。世の中、結局は利用できる者の勝ちなのだ。恭一郎も麗子も、所詮は私の踏み台にすぎない」
狐憑きは、彼の顔面を無造作に床へと叩きつける。しかし後頭部を踏みにじる足首を、仙道彰はがっしりと掴んだ。
「お前は、お前だけは必ず殺す。俺がこの手で殺してやる!」
「いいぞ、もっとだ。もっと私だけを憎み続けろ。その間に私の悲願は叶えられる。因果関係だ。永遠に相容れないが、お互いなしでは生きてはいけない心を持て」
「断る。お前の思いどおりには、絶対にさせない。列車は俺の仲間が、必ず止めてくれる」
「すばらしい頭脳だ。おそらく岸沢市の被害は最小限に留まるだろう。しかしながらよく思い出してほしい。私の切り札が子供や炭疽菌だと、一体誰が言ったのだ?」
顔面を蹴られ、仰向けになる。大の字になった彰の鳩尾を、その人体の急所を狐憑きが踏み固める。大量の血を失い、極限まで体力を使い果たした仙道彰は、もう抵抗する術を持たない。
「……何?」
「不幸だな。私がなんのために九年間も――いや、もう十年か。お前たちを放っておいたと思う?」
「お前、たち?」
「信頼とは、希望の裏返しだ。相手にそうであってほしい、相手にそうしてほしいと見当違いの幻想を抱かせる。仙道彰、お前を最も信頼している人物は一体誰だ? 今、お前と彼女とを繋ぐ、運命の絆の正体が試される」
その時、エントランスに満ちる大気に戦慄が走った。大地が逃げるように震動する。
「狐憑き。アンタだけは絶対に許さない」
神崎茜が、紫色の眼を輝かせて言い放つ。その対決を、さも待ち侘びていたかのように狐憑きが哄笑した。
「バカな、茜、なぜこっちに来た!」
しかし狐憑きが彼の口に足を突っ込み、仙道彰の言葉を封じ込める。そして鼻で笑って見せた。
「ようこそ、友達くん。……あれ、まだ友達だったかな? それとも、あれから十年も経てば、さすがに少しは進展しているのか?」
「うるさい! 命乞いなら地獄でやれ!」
問答無用の鉄拳だった。茜は眼にも留まらぬ速度で互いの距離を詰め、一切の躊躇なく狐憑きの――レディ・ポイズンの心臓ごと胸部を貫通させている。さらに額を傷つけずに、左の掌を頭部の中へと埋め込んだ。
「今、この女の脳から直接記憶を読み取って、バイオハザードの特異点を無数のあたしが破壊してる。肉体的にも精神的にも殺せないと安心しきってた、アンタの負けだ」
だが目の覚めるような銃声。発砲したのは本多有希子だった。そして弾丸で胸部を撃たれた、仙道彰の呆気にとられた表情が、一呼吸の吐血をして白目を剥く。
「えっ――」
「盲目とは困ったものだ。だからお前は、いつまで経っても友達止まりなのだ」
絶句した神崎茜が青い顔する。彼女の前にいるのは本多有希子であって、違うものだということを悟っていた。幼い体には似つかわしくない、黒い拳銃。
「狐、憑き……」
「おっと、手を離してはいけない。まだ破壊作業のために記憶を読み取らないといけないだろう? だが早くしたほうがいい。仙道彰が死んでしまう」
「狐憑きィーッ!」
「手を離せば世界中にウイルスが蔓延し、仙道彰はお前に愛想を尽かすだろう。その彼が命懸けで守った本多国雄の妹を殺すのなら、仙道彰はお前に幻滅するだろう。そして時の流れが彼を殺し、お前の想いは永遠に届かなくなるだろう。さ、どれでも好きな道を選べ。そして仙道彰に見向きもされなかった、可哀想な人生の幕を下ろすのだ」
つんざく悲鳴が駆け巡った。神崎茜はそのように慟哭する。息を乱し、濃密な絶望色をした翳りが紫の瞳を覆った。
「彰が……彰が……」
「そうだ。たとえ彼が無事に生還しても、無考えの行動をとった友達くんは捨てられる。仙道彰の好みの女性のタイプを知っているかい? 要領のいい女だ。しかし、どう見ても友達くんはそんなタイプじゃない。どちらかといえば、どこぞの王室の編入生のほうが、最もふさわしいとは思わないか?」
「あたしは、あたしは……」
「友達くん、いい加減に自覚したまえ。君は仙道彰にふさわしくない女だ。どんなに強い能力を持っていようと、それを操るのは人間だ。では、その人間たちである君たち二人の幼馴染の関係はどうだ? 一方は、相手のためなら人生を捧げてもいいと思っているのに、もう一方は、禁欲的なまでに透徹した自制の間柄であろうとする。つまり、仙道彰は君を見ていないのだ。君を女性として見たことなど、ただの一度もない」
彼女は息苦しそうに俯いた。込み上げてくる吐き気をこらえるのに精一杯といった様子で、大粒の涙を浮かべるその眼を泳がせる。
「彰は……でも、あたしは……」
「君は何者だ? 仙道彰にとって、君はどんな存在だ? そもそも一体いつから、自分がヒロインだと勘違いしていた? 君は本当に魅力的なのか? 女として、ただの一度も意中の男を発情させられない人間が、どうして運命の絆で結ばれていると言えるのか?」
「……違う。あたしは、あたしは――」
「本当はとっくに気づいているんだろう? 紳士の近くにいられるからといって、誰もが紳士に手を出す資格があるわけではない。勝手にのぼせているのは君だけだ。冷静な眼で鏡を見つめ直してみろ。君を後ろから抱き寄せてくれる、意中の男の愛しい笑顔をすぐに想像することができるのか?」
「あたしは、あたしはただ――」
「好意を持つのは自由だ。しかし同じ好意を相手に強要するのは間違っている。それでは重苦しいだろう。とても息苦しいし、苦々しくもある。何より一方通行の君が報われない。見ていて非常に心苦しいよ。このまま友達くんで終わってしまっていいのか? 十年も懸命に尽くしてきたのに、横から割って入った女に寝取られたまま、一人ぼっちの淋しい人生を終わらせてしまって本当にいいのか?」
涙がこぼれた。神崎茜の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちる。
「思い出せ。女の子なら誰だって、お姫様になる権利がある。幸せになる権利があるんだ。その権利を赤の他人に譲ってしまっていいわけがない。自分自身が幸せにならねば意味がないのだ。そうとも。きっとあの女は――アステリアは、失格した君を見てほくそ笑んでいるぞ。彼に選ばれた自分だけの幸せを心の底から噛みしめて、残念な友達くんの健闘を讃えながら、ああ良かったと一安心しているはずだ。なぜなら、君の知らない彼の特徴を隅々まで知り尽くしているのは、世界にただ一人だけなのだから」
叫び声がとどろいた。金属を逆刃でひっかくような、悲痛な叫び。
「あたしは、あたしは……」
「幸せを掴むべきだ。君だけの幸せを手に入れるべきだ。では君にとっての幸せとは何か。もしも彼を、仙道彰の熱い眼差しを独り占めにできるとしたら、どうだろう」
「彰を……?」
「そうだ。君だけを見つめる仙道彰にすればいい。だが普通の方法ではいけない。幸せは恨まれるものではないのだ。君は仙道彰に愛されなければならない。しかし仙道彰を振り向かせるのは容易ではない。そこで私の出番となる」
茜が怪訝に眉をしかめる。本多有希子は――否、狐憑きはにやりと微笑んだ。
「私が君に憑依する。その後で彼を助けてあげる。一命を取り留めた仙道彰は君のことを考えて同情し、私だけを憎み、どんな破壊活動に手を染めても恨まれずに済む」
「そんな、そんなこと……」
「憂さ晴らしができる。仙道彰を独占し、君だけを追いかける存在にできる。全ては私が悪いからだ。そして君は被害者になる。ならば仙道彰は、君を助けるために全力を尽くすだろう。君は仙道彰を殺せないし、仙道彰も君を殺せない。切っても切り離せない永遠の完成だ。その姿を、情熱的に君を追い求める彼の姿を、生涯ずっと見ていたくはないか?」
彼女がごくりと唾を飲む。そういう喉許の動きがあった。迷っているのは明らかだった。
「彰が、あたしだけを見てくれる……」
「彼は、友達を救えなかった自責に悩み、苦しむ。そしてこうも思うはずだ。自分だけが幸せにはなれない。だからアステリアも捨て、君を一人で捜し続けるだろう。興奮と刺激のある旅の始まりだ。少しずつ遊び、少しずつ想い、少しずつ接近する。やがて疲れ果てた彼の心を癒す時、君の本音が仙道彰を救済する。もう誰にも二人の仲を引き裂くことはできない」
「もう、誰にも……」
「さあ、この手を取りたまえ。眼の前にある幸せを怖がることはない。それは手に入れるべき悲願の成就、叶えられるべき運命の結実なのだから」
レディ・ポイズンの骸を放り捨て、ふらふらと神崎茜が歩み寄る。狐憑きが伸ばす掌を見つめ、自分の右手を差し出していく。
あっ、と誰かが呻く声がした。続いて、かっ、と誰かが呻く声がする。ねっ、と誰かが手を差し伸べている。死に物狂いで呻いた最後の言葉は、彼女にはわからなかった。
「彰、ごめん……」
「茜さん!」
光化移動でエントランスに現れた宿敵、アステリアが叫ぶ。だがその直前、茜はすでに狐憑きの手を握り返していた。あまりに遅い一足だった。




