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黄金魂  作者: 天野東湖
第08話 死に至る病
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 ひどく、がらんとした地域集会所だった。百人は座れるはずの椅子も、埋まっているのは最前列までだ。ぽつりぽつりと腰かけている弔問客はいるものの、その表情はあまりに沈鬱で、場違いな息苦しさすら感じ取れる。


 十月二十三日の夜だった。

 生温かい風が吹いていた。


 本多国雄は、仙道彰とともに、そうした空席の最後尾で大人しく、読経を見守っていた。二人とも白シャツで、黒のネクタイとジャケットを身につけた制服姿だった。最前列の遺族らしい女性は泣いているが、彼は少しの悲哀も感じられない。遺族に恨みはないが、故人には抵抗があるのだ。やるせない思いばかりが膨れ上がる。


 岸沢警察署内発砲事件から四日後の通夜だった。白昼堂々の惨劇は、五名の死者と一名の重傷者を生み出して、理不尽ながら世間一般ではすでに終息している。


 渋沢遊と、その祖母。

 三嶋彩乃と清水菜月。


 この四名が、前触れのない凶弾によって即死した被害者たちだった。そして発砲事件の主犯者とおぼしき男性刑事は、彼女らを殺害した直後に銃口をこめかみに向けて自殺した。唯一、仙道彰の母親だけが本多総合病院で治療を受けているが、頭部の損傷が激しい意識不明の重体であることには変わりがない。


 そういえば、同じく意識不明の重体で入院中の暗殺者がいることも思い出したが、今の国雄にとっては関連性のない話題だ。粛々と通夜の進行を見守っていた親友が焼香のために立ち上がったので、彼もまた慌てて席を立つ。


 祭壇の遺影に、爽やかな笑顔を浮かべる青年が映っている。とても凶悪な殺人を考える人間とは思えない微笑み。


 しかし現に、発砲事件は起きている。そしてこの事件が、この男性刑事の単独犯であることは確実のようだった。どの刑事がどの拳銃を所持していて、撃ち出された弾丸がどの拳銃から発砲されたかはすぐにわかるらしい。そもそも発砲音を聞いて駆けつけた多くの刑事が、主犯者である男性刑事の自殺を目撃している。疑う余地は微塵もなかった。


 ――狐憑きの存在さえ、知らなければ。


 焼香を終えて、再び最後尾の席に戻ろうとした時だった。酔っ払い特有の千鳥足で入口にもたれかかった男が、いきなり容赦のない罵声を飛ばした。


「やい、人殺しども! 早く地獄へ行っちまえ! お前ら全員、人殺しの仲間だ!」


 その男はすぐさま関係者の手によって遠ざけられたが、集会所内には肩身の狭い空気が漂っていた。場違いな息苦しさの正体は、これなのだ。本来なら死者を弔うはずの儀式で、誰もが絶望的な悲しみと、矛先のない怒りを胸に抱いている。遺族らしい女性は、わっと泣き伏した。


 違う、違うんです、あの子は本当に優しい子で、だから憧れの刑事になって張り切っていたのに、どうしてこんなことに――。


 ごく近くから振動音が聞こえた。国雄の携帯電話は無反応なので、どうやら親友の携帯電話が反応しているようだった。彼は声涙あわせくだる集会所から、受付のあるテントの前まで移動すると、iPhoneの画面を操作して、何かを熱心に眼で追いかけている。そしてなんらかの操作を始めた。


 国雄はとりあえず、親友が顔を上げるまで待つことにした。十数秒ほどで用事を終えたようだが、その表情は芳しくない。国雄はただならぬ異変を察知した。


「何かあったのか?」

「アステリアからの暗号通信(シグナル)だ。狐憑きが接触した二人目の暗殺者の正体が判明した」

「本当か!」

「ああ。だが相手は、考えうる限り最悪の人物だった。今のままではおそらく勝てない。別の策を講じる必要がある」


 親友が集会所を去ろうとするので、国雄としては後に続くしかなかった。耳にはまだ遺族女性の深い悲しみの嗚咽が残っている。関わった事件の顛末を最後まで見届けるという親友の強靭な精神力には、決して真似のできない信念が見て取れる。


 その彼と横に並んで歩くのは、国雄にとっても良い刺激だった。ただし歴然とした温度差のような違和感も肌に伝わってくる。親友の横顔に、かつての父の言葉を思い出す。


「……親父が言ってたぜ。お前のほうが、彰のほうが息子なら良かったってな具合にな」


 彰は一度だけ振り返り、そして前へと向き直ってから、そうか、とだけ応えた。やはり足は止まらない。


「なんか、悔しいんだよな。それ以上に腹も立ってくる。けど何より、自分の不甲斐なさに呆れちまうのが虚しくてよ。つい勢いで医者になるって言っちまったが、それが良いのかどうかもわからねえ。別に憧れているわけでもねえのに、もしかしたら実際は、親父のような人間になりたくなくて、ただ反発してただけなのかもしれねえ。親父のような大人になりたくなくて、やたらめったらその反対側に立とうとしてただけなのかもしれねえ」

「間違ってはいない。誰でもそういう時期がやってくる」

「最近、ふと思っちまうんだ。オレァ、なんのために生きてんのかってね」

「生きる意味がなくては、生きていていけないのか?」

「そういうわけじゃねえが、なんかこう、心底スカッとしないんだよな。うまく呑み込めないっつうか、納得できないっつうかさ」


 しばらくは無言が続いた。その空気と足音だけが一つになる。


「じつは俺も、父さんに言われたことがある。茜みたいな子供が欲しかったとね」

「へえ、そりゃ意外だな」

「周囲から天才少女だと褒めちぎられ、愛想も良かった。そんな相手とずっと比べられる話題には、とてもじゃないが耐えられなかった。だから家の外に居場所を求めて、もっと公平に評価してくれる何かが欲しかったんだ。俺の場合はそれが『能力』だと浮かれたが、実際はそんな簡単なものじゃなかった。あの狐憑きが、俺の拠り所を全て破壊した」

「……もしかして、お前の執念はそこからきてるのか?」

「本当に戦うべき相手を見つけたんだ。戦うべき相手さえ間違えなければ、本当に深刻な問題を見誤ることもない。正体不明の不安に怖れることもない」

「不安、か」

「今の国雄は、将来を意識し始めているんだ。進むべき未来への方向性に視野が定まらず、野心を持てあましている。積極的に何かをしたいわけじゃないが、漠然とした何かでありたいと考えるあまり、もし失敗してしまったらと思うと結局は身動きがとれずに地団太を踏んでいる。自立に対する不安の表れだ。他人より少し早く、精神的な成長の岐路に差しかかっているにすぎない。それを見て見ぬふりをするか、あるいは何かを見つけるために過去を振り返るかは、国雄次第だ」

「オレには、そんな上等な過去なんてねえけどな」

「そう思うなら、一度、新田に協力してもらって『神経衰弱(ボーダーライン)』を体験すればいい。あれは当人の心の原点を異界化させる能力だ。自分が何を見失っているのかを、すぐに思い出すことができる」

「よせやい。いくらなんでも、自分でも忘れてるトラウマを再体験したいとは思わねえぜ」

「過去の清算はとても大事な決断に繋がる。国雄にとって、医者になるのは手段か目的か。そのどちらでもなければ、医療のことは全て忘れたほうがいい。そのほうが患者のためだ」


 二人は、東方町と西方町とを繋ぐ大通りに入り、西に曲がっていく。だが国雄はどこに行くのか知らないので、寡黙な親友の歩調に合わせるしかない。


 仙道彰が足を向けたのは、本多総合病院だった。それは西方駅よりやや東にある目抜き通り沿いにある。母親の見舞いにでも行くのだろうか。しかし意識不明の重体で、現在も面会謝絶状態にあるはずではなかったか。


 院内のエントランスは広大で、三階まで吹き抜けになっている。親友はすぐに奥のエレベーターに足を向け、四階にある集中治療室区域で廊下に出た。仙道麗子が眠る部屋には眼もくれず、二名の黒服が監視にあたっている突き当たりの部屋へ――超一流の暗殺者、アウラ・ミラ・ファウストラップが眠る治療室の前で足を止める。


「お、おい、彰、ここは」

「仙道彰だ。彼女に用事がある。通してくれ」


 黒服の男たちは頷き、自ら扉を開けて彼を招き入れた。ところが国雄が入ろうとすると掌を返すように入室を断られ、親友の一声で簡単に許可がおりる按配(あんばい)。訳もわからぬまま病室に入り、国雄は、多機能電動ベッドのそばに立ち尽くす仙道彰のそばへと歩み寄る。


 孤高の暗殺者は、そこで眠っていた。細く長く伸びる美しい銀髪。芸術的な人間彫刻のように丸みとくびれを帯びた肢体。そこに健康的な褐色が加わって、世の男どもを丸ごと情熱的にさせるような美を体現している。国雄をして改めて息を呑むほどの南米美人で、こうしてみると、とても血と死にまみれた硝煙の死神とは思えないほど静謐だ。


「さっきの連中、一体なんなんだ?」

「陸幕二部別班の人間だ。他にも公安課、内閣調査室に所属する一流たちが、この病室をぐるりと囲んで監視している。その気になればサミット・レベルの警戒網を張り巡らせることも可能な連中だ。しかしそれでも、彼女の脱出を食い止められるかどうか」


 もはや言葉も出なかった。内閣という、国内の頂点に君臨する権力の名が、さも当然のように会話に出てくるのだ。とうとう彼は、別世界の人間になってしまったようだった。


「さて、時間が惜しいから手短に話す。アウラ・ミラ・ファウストラップ、お前の意識がすでに回復しているのは知っている。まずはこれを見てくれ」


 一瞬、彼が何を言ったのか国雄には理解できなかった。しかし親友は、おもむろに取り出したiPhoneの画面を操作して、寝入っている暗殺者に見せつける。


 銀髪の女が、ゆっくりと瞼を開けるのを、本多国雄は確かに認めた。値踏みするように仙道彰を見て、国雄を見て、再び親友のほうへと眼を向ける。


「二か月前の衛生写真だ。英国のグリュナード島を撮影している。そこに映っている人物の紹介は、おそらく不要だろう。そしてなぜ、その人物がグリュナード島にいるのかも、あなたなら瞬時にわかるはずだ」


 アウラはまばたきを一度だけした。肯定を示した返事なのだろう。そして親友は国雄の疑問など蚊帳の外といった様子で、またしても画面を操作する。


「次に、一週間前に撮影した衛星写真だ。ここ岸沢市の西方駅におりた人物を拡大させて映している。目的は言わずもがなだ。この人物は、あなたと同じ依頼者から暗殺の仕事を請け負い、それを実行するために岸沢市にやってきた。しかし、誰を殺すつもりなのかは依然として掴めていない。最悪を想定すれば、皆殺しになる」


 思わず耳を、そして神経を疑う告白が、親友の口から飛び出した。国雄の背中がぞっと冷え込むように冷たくなる。ベッドに横たわったままのアウラは、微塵も反応していない。


「おい彰、どういうことだ! 皆殺しって、一体どういうことだよ!」

「狐憑きが雇った二人目の暗殺者は、名をレディ・ポイズンという。たった一人で世界の均衡を崩しかねない、毒殺の専門家だ。歩く核兵器だと言えば、少しはわかるか」


 親友の眼は、冗談など欠片もない冷徹な光を帯びている。それだけで国雄は、尋常ではない非現実的な火急を呑み込まざるを得なかった。


 核兵器にも匹敵する、毒殺の専門家。


「そんな、バカな」

「一口に毒といっても、その種類はさまざまだ。細菌、ウイルス、毒物――さらには空気、水、動物、植物、ガス、その他ありとあらゆる感染経路までを対抗策に練り込まなければならない。簡単な話、都市部の鳥類や蚊に空気感染するウイルスを仕込むだけで、未曽有の爆発的感染(パンデミック)を引き起こせる。予防困難な死の流行の始まりだ」

「予防は、難しいのか」

「仕込まれた毒物が放出されれば、予防は困難だろう。だから毒物が放出される前に対処しなければならないが、今回レディ・ポイズンが岸沢市に持ち運んできた毒物は炭疽菌だ。英国のグリュナード島はかつて、連合軍による炭疽菌爆弾の投下が行われた現場だからな」

「連合軍って、そんな……。それに爆弾って、そんなことが」

「その島は、今でこそ無毒化されているはずだ。しかしレディ・ポイズンは、なんらかの確信があって炭疽菌を入手したと考えられる。自然界にもサハラ砂漠などを中心に炭疽菌は存在するが、強力な兵器化した炭疽菌を手に入れるには、グリュナード島を利用するのが最も手っ取り早いと判断したのだろう」


 口の中がからからに乾く。窒息しそうな喉元の圧迫感を、本多国雄は嫌というほど意識した。


「……もし、そのレディなんとかって奴が、炭疽菌を手に入れたと考えて。それで具体的に、どういう行動に出ると思うんだ?」

「おそらく奴は、空中散布に不可欠な最高機密技術のエアロゾル化を、すでに終えているだろう。当然そのための保護シールド剤も使っているはずだ。すでに二か月も経過している今、細菌の増殖は最悪を想定したほうがいい。一旦放出されてしまえば、岸沢市民は肺炭疽症状を引き起こす可能性が非常に高いと考えられる」

「肺、炭疽、症状?」

「潜伏期間は、吸入して九時間後から一週間まで。初期症状こそインフルエンザに酷似しているが、その致死率は九割を超える。ただし人から人へは感染しないし、ホルマリンによる消毒も、圧倒的火力による焼却も可能だ。それに有効な治療薬も現存している。英国の細菌学者、アレクサンダー・フレミングによって発見された世界初の抗生物質――ペニシリンだ」


 ちなみにペニシリンは、梅毒にも優れた応用効果があると彼は言った。しかし国雄は、それが何を意味するのかはわからない。


「……グリュナード島といい、ペニシリンといい、イギリスはほんとに皮肉が好きだな」

「だが安心はできない。少なくとも国内にはワクチンが存在しないし、諸外国も一社しかワクチンを製造していない。それにジプロフロキサシン、ペニシリンG、あるいはドキシサイクリンといった治療薬の個数も、岸沢市民百万人分を短期間で用意することは難しい。しかもこれを公表したとて、市民に信じてもらえるかどうかも怪しい情報だ。ただし一度被害が広がれば、彼らの大規模な混乱と暴動が発生して、事態はさらに悪化の一途を辿るだろう。パンドラの箱の正体だ。人間は生き残れる希望があればこそ死に物狂いになれる。最悪のバイオ・テロ・パニックの幕開けだ」

「……だからって、このまま何もせずに見逃すつもりじゃねえよな」

「もちろんだ。古代の王には、その名を治療者と呼ぶ人物がいる。その彼の法典に従って、対抗策を打つつもりだ」

「治療者の、法典?」

「眼には眼を。毒には毒を。暗殺者には暗殺者を」


 歴史に名高いハンムラビ法典の一節だ。紀元前の王が生み出した、同害復讐法。


「アウラ・ミラ・ファウストラップ。あなたにレディ・ポイズンの無差別攻撃を阻止してもらいたい」


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