47
日付が変わろうとしている。
魔法が解ける約束の時刻だ。
悪夢を見そうで眠れなかったので、外の散歩に出かけることにした。丁寧に使っている青色のウィンドブレーカーに袖を通し、祖母を起こさぬよう、私は静かに長屋を後にする。
その散策に主だった目的があるわけではなかった。夜風に当たりながら、黒い空の星をなんとなく数えていく。途中で北極星を見つけたが、それ以外では星座もろくに見つけることができなかった。どの星がどう繋がってどのような形を為すのか、今更ながらパズルピースのようだと感慨に耽る。
無心の足先に目的地はない。
気紛れの歩みに身を委ねる。
無目的な散策の正体を、すぐに悟ることができた。私は不安なのだ。これから起こる出来事に対し、最後まで信念を貫き通すことができるかどうかで、まだ自分自身の覚悟を信じられずにいる。
もしかしたら、私は誰かに止めてもらいたいのかもしれない。だが、一度転がり始めた運命の歯車は、すでに黄泉平坂に足を踏み入れている。正しいかどうかが問題ではないのだ。私はただ、友達を救いたかった。ただ救いたかっただけなのに、どうして人が不幸にならないと、誰かを助けることができないのだろう。
ただの夜道を歩く。――そこはいつか、三嶋と清水の三人で自転車を漕いだ場所だった。
ただの公園を見る。――そこはいつか、三嶋と清水の三人で青写真を語った場所だった。
ただの星空を遮る。――そこはいつか、三嶋と清水の三人で笑顔がこぼれた場所だった。
……誰か、助けて。
私一人では、秘密に耐えられない。
もう、戻れないんだ。
懐かしい思い出を辿るしか、許されない。
――神様、なぜ私たちを見捨てたのですか?
夏の面影がない冷気で、少しだけ身震いする。
ふと、例の『曰く付きの屋敷』で足を止めた。
誰かが、正門の立入禁止テープをくぐって顔を覗かせていた。仙道彰だ。彼もまた私に気づき、こくりと頷く。――会釈のつもりなのか。
「こんばんは、渋沢さん」
「とんだ偶然だな。いくらなんでも、詩的すぎる」
彼は少しも悪びれた風なく、目頭を揉みほぐす。こんな深夜になるまで、今まで屋敷の中を調べていたのだろうか。仙道はその左手の人差し指に、あの髑髏の指輪を填めている。
「仙道は、ここで何をしていたんだ?」
「他に見落としがないかを調べていた。もっとも、あれ以上の手がかりはなさそうだが」
「こんなに夜遅くにか?」
「そちらこそ、たった一人で散策するには、少し無防備すぎる時間帯だろう」
「それを言われてしまったら、立つ瀬がないな」
まさか、学校で起きた殺人事件の犯人だと告白できるはずもない。私は曖昧にごまかすしかなかった。
そこでふと、仙道麗子のことを思い出した。そのことを彼に告げると、そうか、という関心のない反応しか返ってこないので怪訝に感じた。
「気にならないのか? 自分の母親が、自分の学校で起きた殺人事件を担当しているっていうのに」
「母さんは、どこで何をしていても母さんだ。そして俺は、どこで何をしていても、仙道麗子の息子だ。だからお互い、どこで何をしていても、それ以上にもそれ以下にもなりはしない」
「変な関係だな。お互いに距離感があるように聞こえるぞ」
「あって当然だ。母さんはどこかで、ナビに遠慮してたんだ。お互いが同じ男に惚れて、その子供を授かった。そして日本に残った母さんに俺を預けて、父さんはナビと一緒に狐憑きを追いかけた。だから母さんは、いろいろと切なかったんだと思う。自分だけが取り残されて、自分の子供であると同時にナビの子供であることも知っていたから、仙道彰に向き合うことが苦しかったんだろう。あるいは、難しかったのかもしれない」
仙道は夜空を見上げた。ぽつりぽつりと星の光が灯っているが、相変わらずどのような星座があるかまでは私にはわからない。
「家族は、難しいな」
「どうした、急に哲学的になって」
「俺は、ある事件が起きるまで、自分の家族のことを知ろうともしなかった。いや、その事件が起きてからも、俺は父さんだけを信じて、母さんの苦悩を知ろうともしなかった」
「それが普通だろう。全ての親が善良でもないんだ。自分の親のことを全て承知している子供がいたら、それこそ不気味だよ」
「……だとすると、逆に、全ての子供が善良でもないと言えるのか。自分の子供のことを全て承知している親がいたら、それこそ不気味と言えるのか」
どくん、と心臓が反応した。舌が異常に乾いて、耳の裏が熱くなる。
「ばかばかしい。極端すぎて不毛の逆説だな、それは」
「すまなかった。気を悪くしたら謝ろう」
「いいか、仙道。親も子供も所詮は他人だ。血の繋がりがあっても、他人を百パーセント理解することはできないんだ。そうやって割り切らないと、従順な信頼はやがて、卑劣な裏切りを招くことになる」
「そうか。では友達も、あくまで他人のはずだな」
「お前に何がわかる。愛情と友情は根本的に違うものだ。愛情は一方的で身勝手なもので、そもそも大人が唱える愛などという二枚舌を私は信じない。だが友情だけは信じられる。それは平等で対等の価値があるもの――他でもない私自身が、ごく自然に同じ時間を共有して築き上げてきた、この世で唯一絶対と言える『宝物』だからだ」
私は腕を組んだ。柄にもなく熱弁した。言ってから後悔していた。だが過ぎてしまった出来事は、もう一度やり直すことができない。それこそ、神のみぞ知るというやつだ。
「……なるほど。愛情と友情は根本的に違う、か」
「さっきのは忘れてくれ。少し熱くなりすぎて、恥ずかしいことを言った」
「夕食の時、茜から相談を受けた。もしかすると今回の殺人事件には、あいつの友達が関わっているかもしれないと」
一呼吸の、絶息状態。
思わず仙道を見やる。
彼は、まっすぐに私を見ていた。
「愛情を信じられず、友情をも裏切った人物は、やがてどこへ向かうつもりなのだろうな」
「さあね。天国へは行けそうもないから、きっと、地獄にでも向かうつもりじゃないかな」
私たちは、睨むような沈黙を経て、互いを雄弁に見つめ合った。
それだけで、お互いの真意を、痛いほど理解することができた。
「そうか」仙道が虚しく呟く。「残念だ。もしかすると、あいつを泣かせてしまうかもしれない」
「泣いたって何も変わらないよ。不安は生きている限り続くんだ。だったら、向き合うしかない」
やはり、最後の敵はこの男になるだろうと確信した。だがいかにこの男が優秀とはいえ、完璧な偽装工作を果たした私を倒すことはできない。その証明は後日、この男の母親こそ示してくれる。
私は仙道に背中を向けて、その場を去った。彼は何も言わず、私が四つ辻を曲がるまで立ち尽くしたままだった。おそらく私の背中を見ていたのだろう。そういう視線を、強く感じていたからだ。
長屋に戻ると、玄関先は暗いままだった。静かに戸を開け、靴を脱ぐ。冷蔵庫から水を取り出して一口啜った。その時、冷蔵庫の表面に貼ってある写真に眼を奪われた。
小学校の頃の写真だった。桜の樹が花を咲かせた正門前で、まだ幼い私が祖母と一緒に立っている。
笑ってはいない。
父もいない。
母もいない。
二人きりの写真。
だが寂しくはなかった。私の隣にはずっと祖母がいて、その手を優しく握りしめていてくれたから。
――しわくちゃに乾いた、しかし温かい掌。
不意に、涙腺がゆるんだ。だが泣くことはできなかった。泣いてはいけないと思いつつ、泣けない自分が恥ずかしく思えた。今の私は、過去の私と向き合うことができない。その笑顔があまりに世間知らずで、うらやましいと妬んでしまう。
醜い女になった。
我がままな女だ。
ひどく最低の女。
見ていられずに振り返る。
居間の入口に祖母がいた。
哀しくて、つらそうな顔。
「まだ、起きとるのかい」
「もう寝るよ。おやすみ」
あまりに短い、強がりだった。
寝たと思ったら目が覚める、そんな息苦しい夜が明けた。やはり祖母を起こさぬように見繕いをし、部屋を出てすぐに玄関を後にする。
腕時計を見ると、まだ午前六時十五分ほど前だった。部活の朝練ならやや遅く、ごく普通に登校するなら早すぎる時刻は、今の私の不安を如実に表現してくれている。何かして体を動かしていないと、気を紛らわすこともできない。早朝の優しい風も、今は体育館にある地獄からの隙間風のように感じてしまう。
歩調は何気なく、あの『曰く付きの屋敷』で止まってしまった。ここを通らずとも駅に向かうことはできるが、何を求めて立ち止まったのかは自分でもわからない。仙道彰はもういないのだ。彼もまた、立ちはだかる壁の一つとなって去ってしまったのだから。
寄り添える相手もいない。
弱音を晒せる人もいない。
そういう道を私が選んだ。
私が選んだ、はずなのに。
「――遊ちゃん!」
一方通行の道先から、三嶋と清水が駆け寄ってくる。二人の眼は赤かった。申し訳ない気持ちで一杯だったが、私の前に立った三嶋が何かを言おうとした瞬間、今度はまた別の人影が同じ方角から歩いてくるのを目撃した。そういう私の異変に気づき、三嶋と清水も振り返る。
仙道麗子と、若い男性刑事だ。静かな靴音が二つ、近づいてくる。
「おはようございます、皆さん。今朝はまた、ずいぶんと早い集まりですね」
三嶋が怯える気配がした。血の気が引いていく顔色だ。仙道麗子はそれを見て微笑むが、私は笑えなかった。男性の刑事もまた、何かを含むような笑みをこぼしたからだ。
それで一瞬、本当に気道がふさがれた錯覚に陥った。しかし相手は容赦がない。仙道の母親らしい女刑事の眼は、あらゆる嘘を即座に見抜く鋭さを放っている。
「じつは、皆さんに折り入ってお願いがあって参りました。もちろん断っていただいても構いませんが、まだマスコミの初動が鈍い今でなければ、無関係のご家族等を含めた多くの方々にかける心労を、最小限に抑えることはできません」
その語りを聞いて、ついに対決の瞬間がやってきたと思った。たった一日しか経過していないのに、もう何年も待ちくたびれたかのような来訪感がある。正念場を迎えたのだと理解した。
「勿体ぶった言い方は好きじゃないって、言わなかったっけ?」
「では単刀直入に言いましょう。我々の署のほうまで、ご同行をお願いできますか。無論、皆さん全員で」
「二人は関係ないだろう。少なくとも、三嶋と清水は関係ない」
「残念ですが、大いに関係しています。なぜなら、あなたがたのうち誰か一人でも矛盾を生み出してしまえば、その関連性を疑わざるを得ないからです」
どうやら間違いないようだ。仙道麗子はすでに事件の真実を掴んでいる――。




