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三嶋への聴取は、清水が戻ってから昼休みのうちに行われた。ただしその質問は想像の域を出ないものであったらしく、彼女は私たちと再会すると、まるで遊園地の刺激的なアトラクションを体験した後のように白い歯を見せた。
こうして事件後一日目の学校生活は、私たちにとって特に波乱もなく下校時刻を迎えた。警察の眼があるからか、学校側も生徒の帰宅を強制するので、私は久しぶりに三人一緒で帰路に就くという懐かしさを感受した。
「なんだか、すごく久しぶりな気がします。三人で並んで歩いて帰るのって」
三嶋が言ったが、清水も私もなんとも言えなかった。事件のことが頭から離れないのもあるが、少なくとも私は、過去のことを思い出して閉口していた。優しい色の思い出に、殺伐とした記憶が癒されていく。
吃音症は、いわゆる『どもり』のことを指す。ただし独り言の時や、聴覚が一時的にも遮断される環境ではおおむね軽減されるので、先天的な吃音症の人間はいないと見るのが一般的だそうだ。ほとんどの場合、吃音症は心因性に強い傾向にあるらしい。
ただ、総じて言える悩みの種は、なぜ吃音になるのかわからない、という点だ。たとえ心因性による発症だと目算をつけても、その原因が取り除かれたから吃音も治るわけではない。人前における彼らの極度の緊張は、どもるから発生するのだ。要するに、心因性によって緊張するからどもるのではなく、どもるから緊張して強いフラストレーションを蓄積してしまうのである。
ここに、症状への先入観に重大な誤差が生じている。心因性によって発症しても、その治療法は必ずしも心因性への解決が近道へと至らないことだ。典型的な発症時期は四歳や五歳などの小児期が多いらしいが、これはまだ成長過程へのどもりやすさから生じているだけであって、自然治癒も容易になる。何より本人が、吃音を意識していないストレスの負担がないことが、その回復に拍車をかけるようだ。
しかし、どもりを他人から指摘されやすい時期――とりわけ、小学校低学年あたりでの経験がトラウマになると、どもりを意識して陥穽に嵌まっていく。即ち、どもるから緊張するといった悪循環への螺旋に落ちていくことになる。他人と同じように、うまく言葉を交わせないことが『恥ずかしい』と思い、それを隠そうとするので、意識せざるを得ない環境に自分を追い込んでしまうのだ。
思いどおりの人付き合いができない。
それは学校生活という閉鎖社会にあって、いかに容赦のない孤立を生むか。
清水は、いじめを受けていた。どもりを笑われ、他人と話すという行為を避けるようになり、そういう自分に自信がもてない嫌悪感で、いつも一人でいることが多かった。
私は、そんな彼女を遠巻きに眺める人間の一人だった。当時、私には私なりに構築してきた交友関係があったし、そもそも同じクラスでもなかったので、唯一、合同授業として姿を見つける体育の時だけ気にかけるという程度の間柄でしかなかった。
むしろ彼女に対して積極的に声をかけていたのは、三嶋彩乃だったと思う。三嶋は当時、清水と同じクラスの委員長を務めていて、体育でもよく孤立している彼女の隣に近づいては、その手を引こうとしていたのをよく見かけた。もっとも、三嶋のそうした健気な歩み寄りが成功した光景は、一度も見たことがなかったが。
そうした日々がしばらく続き、ある日、水泳部の練習が終わって帰宅の途についていた時だった。小学校卒業間近の、一月の公園で、清水と三嶋は同じ制服を着用した悪ガキのグループにからまれ、水風船や爆竹といった悪質なイタズラの被害に遭っていた。清水は怯えて頭を抱え、彼女を守るように三嶋が胸を張り、そんな二人を嘲笑する男どもの姿は、遠く離れた私の眼にも陰湿極まりない悪魔に見えた。
だから私は、あえて全員の姿が映るように携帯電話に内蔵されたカメラ機能を使ったのだ。そのシャッター音で男どもは振り返り、さも当然のように身勝手な主張を始めるのだが、こちらには事前に対処を済ませておくに足る時間の余裕がある。転んで怪我をしたと嘘の電話を家にかけた。じきに私の祖母がここにくる。それまでに帰るのなら、今撮った写真は消去しよう。居残るか立ち去るかは、君たち次第だ――。
真偽を確かめる方法のない連中は、使い古された捨て台詞を吐いて去っていった。だが、連中はまだいい。問題は残された者のほうにこそ山積している。
安心感からか、恐怖感からか、どちらにせよ清水は泣いていた。身を挺して守っていた三嶋の心配も拒絶するほど、彼女は追い詰められていた。学校という義務環境がある限り、清水は必ず他人と関わらなければならない。だがそこは、大人たちの知らない閉鎖空間でできている。しかもその閉鎖空間はある意味、社会の縮図のようにわかりやすい力関係が浮き彫りとなるのだ。
彼女は、あまりにも弱者だった。眼は口ほどに物を言うとよく語られるが、実際、伝えたいことが沢山あって言葉にならない時には誰もが涙するものではないだろうか。こんな人生はもう嫌だ、誰か助けて、どうして自分だけが苦しい思いをしなくちゃいけないの、誰にも迷惑かけずに生きているのに――彼女の涙は、そんな風に哀しい叫びを閉じ込めているように見えた。
だから三嶋は、彼女なりに思うところがあって優しい言葉をかけていたのだろう。だが当時の私は、逆に清水を突き放すような言葉ばかりを発していたと思う。全国クラスなら一秒未満の僅差でなければ記録を塗り替えられない水泳の世界に身を置いて、己の価値は戦い続けることでしか変えられないことを痛感していたからだ。
私は断言する。生きている限り不安は消えない。だから生きるためには、取捨選択への正しい眼を持ち、そのうえで自分の責任を抱えるしかないのだ。それは本当に眼に見えない努力ばかりで心が折れそうになるのだが、不安は次々と生まれるものだから、生きていくなら向き合うしかない。私たちはおそらく、そうして永遠に自分自身と戦い続けなければならないのだ。
もちろん、二人にはひどく反発された。私も理解してもらおうと言ったわけではない。ただ、だからといって自分の身に降りかかった災いを、たんなる『不幸』で片づけて前に進むことを放棄してしまうのも、違う気がしただけの話である。その代わり、無責任では終わらせないよう、六年生最後の水泳大会の日時を教えて私はその場を後にした。当日、まさか本当に来るとは夢にも思っていなかったが。
――だが、私は信じている。
この世で最も重要なのは、行動するという行為そのものであることを。未知なる不安が次々と生まれてくるのなら、そうした災いから一刻も早く振り切れるように、常に新しい行動をともなって前を歩き続けるしかない。努力が結果として報われないことの苦しみは、私自身も誰にも理解されずに味わってきた。そして吃音症に悩まされている清水もまた、数多くの矯正を経験して、少なくない期待が裏返った悔しさと失望感を味わっている。
しかし、酷なことを言うが、失敗を恐れていては何もできない。失望を恐れて前に進むことを躊躇していては、何もしない以上の結果は得られないからだ。
だから私は――否、私たちはたとえ、他の誰かを信じられなくなったとしても歩き続けるしかない。戦い続けるとは、そういうことだ。最後の最後まで信じられるのは、その日までの自分を支えてきた過去しかないのだから。
……いつの間にか商店街まで歩いていた。ここには朝の早い高齢者がよく利用している古い銭湯や、よく閉店しないなと不謹慎ながらも思う小さな古本屋、それから意味もなく社会に背を向けている不良らの溜まり場と化したゲームセンターなどの雑多な店舗が建ち並んでいる。
無考えに大型スーパーの前に通りがかると、七月に物珍しい編入で校内を賑わせた英国の女子生徒が、今まさに店内から出てこようとしているところを見かけた。金髪碧眼の、それこそ絵本の中から飛び出したかのような気品と美しさ。
彼女は私たちに気づくと、にこりと笑って会釈した。
「これは皆様、今からお帰りですか?」
アステリア・A・ランクルージュとか言ったか。一瞥しただけで私たちとは違う世界に生きている住人だとわかる。八月の夏休みには神崎とともにプールをご一緒した仲だが、それでも三嶋と清水が緊張するのは仕方がない迫力だろう。
苦手というよりは、お互いの立場が違いすぎて、どう接していいのかわからないのだ。
「ああ、そうだ。私たちは三人とも、西方町の人間だからね」
「珍しいですね、皆様が揃って下校なされているなんて」
「文化祭も中止。部活も中止。ついでに言うと、教室への居残りも絶対禁止。だから生徒全員、めでたく帰宅部になっただけの話さ」
「残念ですね。皆様があれほど苦心なされて準備した出し物も、今年は日の目を見ることはなさそうですから」
「はっきり言ってくれるね。だがそのとおりだ。学校の中で殺人事件なんて気味が悪いし、誰も楽しめる空気にはなれんだろう」
「被害者は、水泳部の顧問だったそうですね」
一瞬、呼吸が止まるかと思った。この編入生は、全く他人事のような顔をして、事件の細部をあっさりと掌握している。
「本当か? 私は初めて聞いたな」
「そうでしたか。心中お察しいたします」
「気にしないでくれ。いろいろありすぎて、混乱の収拾が追いつかないのが本音なんだ。だから今も、学校で何が起こっているのかよくわからなくてね」
これは本当のことだ。水泳部の活動が一時休止になっているのも、顧問が殺されたからと部員たちに知らされたわけではない。ただ学校側から各女子運動部の顧問や部長へと、一方的に休止するように言われただけだ。
おかげで運動場も体育館も、現在は使用中止状態が続いている。
「校内のバラバラ殺人ですか。一見すると意味ありげにも聞こえますが、はたして真相はいかがでしょうか」
「あんたは、今回の事件をどう思うんだ?」
「特に何も。彰様が動かないのであれば、わたくしも積極的に動くつもりはありません」
「仙道が? 驚いたな、あの男なら真っ先に食いつきそうな話題のはずなのに」
「誤解なされていますね。彰様は正義にではなく、真実に仕えています。謎の迷宮を踏破するのは、なぜその迷宮があるのかを解き明かすためです。ゆえに解明の行為に必然性が見当たらなければ、謎の迷宮は必ずしも彰様にとっての害悪にはなりません」
よくわからないが、二人とも、事件の解明については警察に任せて、そのまま無干渉に徹するということか。神崎はどう転ぶか不明だが、しかし三人とも警戒しておくに越したことはない。彼らの存在は油断できない。
その時、おずおずと三嶋が歩み出た。
「あの……バラバラ殺人、というのは本当なのでしょうか」
「ええ、本当です。それが何か?」
「い、いえ。なんでもありません。すみません、変なことを聞いて」
「お構いなく」
私は、三嶋と眼を合わせられなかった。彼女が私を見つめているのは感じるが、言外に咎めるようなその視線を見返すことはできなかった。三嶋も清水も、私が昨晩の間に何をしていたのかを知らないのだ。
「しかし世も末だね。まさか学校の中で殺人事件だなんて、犯人も殺す場所を間違えているだろうに」
せめてもの苦し紛れに、話題逸らしをするので精一杯。それが今の私の立場なのだと、改めて思い知らされた気がした。
「随分と興味がおありのようですね」
「いや、私は別に興味はないが……」
「一つ、わたくしの考えを申し上げます。犯人はなぜ、雨天の夜、女子体育館の倉庫で、わざわざ男性教諭を殺害し、その遺体を猟奇的に解体したのか。この理由は単純明快です。犯人は十中八九学校関係者であり、動機的に考えましても、それほど必死に解体せざるを得ない状況に追い込まれていたからです」
歯に布着せぬ豪速球。心臓がぶち抜かれたような錯覚に、体温が急上昇する。
「断定的だな。その推理が間違っている可能性だってあるのに」
「否定はできませんね。ただしその場合、外部犯による怨恨、または快楽殺人の可能性が浮上致しますが、これらはまず見切りをつけることができます」
「なぜ?」
「密室の創作は理性的なのに、遺体の解体には狂気を滲ませている。これは、犯行を見せたいのか見せたくないのか、の次元で語るべき話ではありません。そもそも双方の両立を実現させるだけでも、犯人は長時間、現場に拘束されてしまうのです。裏を言い返せば、人体の解体にはど素人の犯人が、長時間の拘束を覚悟してもなお得られるメリットがある、と考えるべきではないでしょうか」
「……どうして、素人だってわかるんだ?」
「その理由は、警察側から話してくださるかもしれませんね」
まるで値踏みするような青の瞳が、私を射抜く。実際に私が犯人だと見抜いているわけではないのだろうが、息苦しいのには違いなかった。
アステリア・A・ランクルージュ――この女もまた、要注意人物の一人になるか。
「さて、わたくしはここで失礼いたします。近頃は物騒な事件が多発しておりますので、皆様もお気をつけて」
再び会釈をし、アステリアは大量のレジ袋を肘にかけて、商店街の脇道へと出ていった。もしかすると彼女も料理をするのかもしれないが、なかなか想像の難しい光景だ。まるで私の未来のように。
「遊ちゃん……」
三嶋が不安そうに顔を覗き込んでくる。清水も心境は同じようだった。だから私は、笑顔を作ることしかできなかった。
「大丈夫だ。さあ、帰ろう。明日はすぐにやってくるから」
商店街を北上して、駅前に向かう。
東方駅から列車を使い、西方駅へ。
その窓に映る私たちの、暗い面影。
――私たちの事件に、終着駅はあるのか?




