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黄金魂  作者: 天野東湖
第07話 友達のためにできること
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 落ち着け、と自分に言い聞かせた。まずは冷静に、この状況を把握するために一つずつ点検していくべき疑問があるはずだ。


 竹馬を持っている三嶋。

 床に倒れている何者か。

 座り込み呆とする清水。


 一目見て、まずは床に倒れている人影の状態を確認するのが先決だと考えた。その決断が正しいのかどうかはわからないが、他人には理解できない趣味か何かで床に寝ていると楽観するのは話にならない。今のこの状況では、そうしなければならない理由があるからこそ倒れていると思案するのが理に適っている。


 とりあえず人影に近づいてみる。できるだけ私の接近をわかりやすいように音を立てたつもりだったが、そいつは全く動かなかった。その理由はすぐにわかった。


 後頭部がてらてらと黒く濡れていた。不吉な粘着性を持つ液体だった。それが後頭部の髪を濡らし、あまつさえ首筋まで垂れている。

 その正体はおそるおそる見当がついていたが、触れずにはいられなかった。指に触れた液体の感触は、あまりない。だが指先に付着した色は赤黒かった。私はすぐにハンカチでそれを拭う。そこで初めて気づいた。人影の下半身には着衣がなく、その毛深い両の足が露出していることに。


 息が乱れた。しかし勇気を振り絞って、今度は横向けのまま動かないそいつの顔を見るために移動した。


 男だった。それもよく見知っている水泳部の顧問の顔で、彼は眼を見開きにした驚愕の表情のまま口を半開きにしていた。唾液が落ちたのか、その口角には液体の痕跡が残っている。直下の床にも少量のそれが溜まっていた。


 彼が後頭部から出血しているのはわかっていたが、体を揺らして声をかけずにはいられなかった。だが何度となく繰り返しても返事がない。指先さえ反応しないのだ。私の額や背中がじっとりと汗ばむのがわかる。たんなる湿気のせいだけではありえない。


 死んでいた。

 顧問の先生が、体育倉庫で死んでしまっていた。

 だが誰に? なんの目的で?

 混乱する視線が、ゆっくりと三嶋に向いていく。


「……三嶋。ここで一体、何があったんだ?」


 聞いているのか聞いていないのか、おそらく後者だろう彼女は何も応えなかった。どうして竹馬を持っているのかは気にかかるが、その手が震えていることで最悪の想像が頭に浮かぶ。


 竹馬を持っている三嶋。

 倒れて死んでいる顧問。

 着衣が乱れている清水。


 これが現実であってほしくなかった。悪い想像はあくまでも悪い想像であって、決して現実と重なるものではない。何か誤解があるのかもしれない。見落としている部分があるのかもしれない。だが今の私には、正確に知る術が何一つないのだ。


「三嶋!」私は彼女の肩を強く掴んだ。「答えろ! ここで何があった! どうして先生が倒れている! なぜ清水があんな恰好でいるんだ! それにどうして――お前はなぜ、そんな風に竹馬を持っているんだよ……ッ!」


 言いながら、悪い想像が現実味を帯びていくのがわかった。それで余計に悲しくなって、心身ともに打ちのめされていく。清水の下にある体育マットに、点々とした小さな血痕があるのに気づいてしまったことが決定的すぎた。過去の信頼がたちまち崩れ去り、じつの妹のように大切にしてきた宝物が壊されてしまった喪失感が、私の無力さを晒し者にする。


 清水は、あろうことか私が所属する水泳部の顧問に乱暴されたのだ。それを三嶋が見てしまい、おそらく一波乱があって竹馬で後頭部を強く殴りつけたのだろう。そうして事が全て終わった放心状態でいるところに私が現れた。――そう、もはや取り返しのつかない事件を引き起こしてしまった直後の時に。


 私は清水のもとへと駆け寄った。眼の焦点が定まっていなかった。はだけたシャツにはボタンがなくなっていて、千切れ飛んだそれが体育マットに散乱している。


 一体どれほどの恐怖と混乱が、この薄暗い密室の中で彼女の身と心を襲ったのだろうか。満員電車で痴漢の被害に遭うだけでは、彼女の不幸はまだ足りないというのか。世の中に神様がいるのなら、なぜこうした弱者を救おうとしないのか。


「大丈夫か、清水。私だ、渋沢だ。……私が、わかってくれるか?」


 返事もなく、反応も示さない。


 それが逆に、雄弁すぎるほどの回答のように思えた。居たたまれなくなって彼女の体を抱き寄せると、その細い線のなんとも頼りない弱々しさが肌から伝わってくる。やがて背後で誰かが座り込む音がして、嗚咽する声が聞こえてきた。それぞれを思い合う哀しみが共鳴して、深く沈み込むような一体感が身を包む。


 おずおずと、私を包み込もうとする手の温かさを感じた。打ちひしがれている私を見て、清水が不思議そうに小首をかしげる。


 優しいこの子を、なんとしても守らなければならない。心まで俗世に――悪魔のような男どもに汚される前に、今度こそ守り抜かねばならない。しかし、そのためには心を鬼にして、現状の正確な把握に努める必要がある。


 とりあえず倉庫の引き戸を閉めて鍵をかけた。室内に私たちがいることを、間違っても第三者に気取られたくはない。


「……三嶋、一つだけ訊くぞ。とても大切なことだ。必ず答えてくれ」


 泣き崩れている彼女だが、私のほうを見ずに小さく首肯した。今はそれで精一杯なのは、この私にだって痛感できる。


「この先生は、お前が、その竹馬で殴ったことで、倒れたんだな?」


 三嶋はこくりと頷く。私の、最悪ではあるが大まかな推測は、あながち的外れではないようだ。


 冷たく固まった彼女の指を、一本ずつ丁寧に引き剥がし、竹馬を調べた。足台のほうは何も変化がなく、逆側の棒の突端あたりに、器具を持つ箇所だとわかりやすいように塗装されている赤色とはまた別の、赤黒いものが付着している。そこを両手で持って足台から振り下ろせば相当の力がいるが、逆に足台側を持っていれば、赤色のカラー塗装がされている棒の突端のみを振り回すのはたやすい。


 ただし一撃では倒せないだろうから、恐怖に駆られて滅多打ちにしたのかもしれない。どちらにせよ凶器はこの竹馬だ。そして顧問の死因は、後頭部を強く殴打したことに起因する。


 問題は本当に山積していた。被害者は清水だが、三嶋は加害者なのだ。その間に死んだ顧問が介在している。これは『暴行事件』であると同時に『殺人事件』だ。その構図は、言葉を尽くしても複雑化する。


 それに、なぜ三嶋が顧問を殺したのかを世間に納得してもらうためには、清水がどんな辛酸を舐めさせられたのかを話す必要がある。教師に襲われた女子高生と、教師を殺した女子高生――マスコミの連中なら喜んで一面記事に仕立て上げそうな材料が揃っている。


 私は彼女らを、決してお互いへの人身御供のような晒し者にはさせたくなかった。罪に手を染めた行為がいかに間違いではなくても、二人には因果関係のレッテルが永遠に貼り付けられてしまう。世間の誰もが優しいわけでないことは、夏の事件を経験して嫌というほど思い知らされたばかりだ。校内なら尚更、二人を見る周囲の眼も変わってくるだろう。人が噂を広めるためには、真実はさほど重要にはならない。


 決断の時が迫られていた。

 私が友達にできることを。


 だが、そうした悩みをこそ責め立てるように、いきなり引き戸が激しく叩かれた。外にいる何者かが、怒鳴り声で顧問の名前を呼んでいる。


「先生、いるんですか! いたら返事をしてください!」


 こちらも男の声だった。ただし男子生徒が女子側の体育倉庫にやってこれるはずがないので、おそらく男性教諭のものだろう。三嶋は怯えたように身を竦めて耳を塞ぎ、清水は呆気にとられた顔で引き戸を見つめている。傷ついた魂が癒えていない証だった。


「……あれ、ここにもいないのか。全く、鍵を持ったまま、あの人は一体どこに行ったんだ?」


 引き戸を叩く音が消え、男の声が、その足音とともに遠ざかる。


 どうやら室内に私たちがいることは発見されなかったようだ。それはそれで一安心だが、だからといって根本的な問題が解決されたわけではない。


「遊ちゃん!」


 三嶋が泣きながら、私に抱きついてくる。

 私は強く、本当に強く彼女を抱きしめた。


 もはや二人を説得して警察に自首させるしかないのだろうか――できない。私には到底できない。それが正しい行為だと頭でわかっていても、心が拒絶してしまう。なぜ二人が警察の世話にならないといけないのだ。この世で最も似つかわしくない場所に、どうして二人の背中を押してしまうことができるだろう。まるで二人を警察に売るような行いに、どうやってこの私が手を染めることができるのだ。


 いっそのこと顧問が死んだことをなかったことにできないか――不可能だ。彼がいなくなれば学校側が真っ先に動き出すし、やがて親族や警察、あるいは交友関係にある人々の耳にも消息不明の一報が届くだろう。そもそも、どうやって死体をなかったことにできるのか。私一人では持ち運べるはずもなく、二人が手伝うといっても移動するだけで人目につく可能性が高くなる。私たちの知らない小さな証拠を、途中で見落としてしまうこともありうるのだ。


 せめて三嶋と清水の関与だけでもなかったことにできないか――思いつくと、それは案外と捨てたものではない奇策に思えた。一筋の光明が見えた気がした。二人を人身御供にさせないためには、もう一人の人身御供を作ってしまえばいいのだ。倉庫にいたのは最初から二人だった。その事実さえ作ってしまえば、三嶋と清水だけは守り抜くことができる。守れなかった友達を、今度こそ私の手で守ることができる。


 となれば、問題はその具体的な方法だ。今後できる限り二人を関わらせないようにして、事件の後始末をせねばならない。死体の移動は不可能。身元が割れるのも当然と考慮して――そういえば死亡推定時刻、なんてものもあったか。顧問の左手首には、その耐久性に絶対の自信を持っている腕時計が正常に動き続けている。


 時刻は、十八時十四分五十一秒。

 行動は迅速に、そして、的確に。


 知恵を絞れ。

 友達を守れ。


 ――そのためには心を鬼にして、現状の正確な把握に努める必要がある。


 動機の偽造。

 凶器の偽装。

 証拠の隠滅。

 密室の細工。

 証言の利用。


 私は今、おそろしい計画を実行に移そうとしている。

 真実と正義と友達をも欺こうとする、悪魔への堕落。

 それを自覚しながら、何もかも背負う覚悟を決めた。


「……三嶋。今から言うことを、必ず実行してほしい」


 彼女は呆けた顔で、私の眼を見返した。


 まず三嶋と清水には、可能な限り第三者の眼に触れてもらわねばならない。アリバイの工作活動に努めてもらったうえで、二人にはいくつかの指示に従ってもらう。道具の引き渡しの場所は、大講堂の裏側にある秘密の抜け穴だ。まさか神崎に教えてもらった、あの屋敷で捕まえた猫に関する情報をここで利用する羽目になるとは夢にも思わなかった。


「で、でも、そんなことをしたら遊ちゃんが……」

「大丈夫だ。これが成功すれば、警察は絶対に真相を証明することができない。わかってくれ。もし自首してしまったら、三嶋の店の看板にも傷がつくし、清水だってこれ以上の深い傷を負うかもしれない。それに、私だって死体を見た時点ですでに関係者だ。なら、私たちの問題は私たちで解決しよう。それが一番の最善策なんだ」


 彼女はしきりに不安そうにしていたが、やがて私の説得になんとか応じてくれたようで、忍ぶように体育倉庫から出ていった。彼女に手を引かれて後にする清水も、去り際に私を見て、哀しい眼の色をする。その彼女に向かって、私は強く頷いた。


 一人きりの闇の戦いが始まろうとしている。

 長い長い嵐の夜になりそうな、予感がした。


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