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巨大な雷鳴が近くに落ちる。
横殴りの激しい雨が早朝から続いていた。
十月の中旬に入り、岸沢東方高校にも文化祭の季節柄が差しかかった。本来なら水泳の活動に支障が出るので憂鬱な時期だと愚痴をこぼしたいところだが、なぜか今年の私は、そうはならなかった。
私たちのクラスで催す出し物は、多数決でお化け屋敷だと決まった。そもそも文化祭は体育祭と同じく、男女合同の学年別順位で総合成績が決まるので、より多くの利用売上に貢献した学年の全学級に特別の褒賞が与えられることになっている。この東高は本質的に進学校には変わりがないから、誰もが褒賞の内申点を狙って躍起になるのだ。
ただし、私がお化け屋敷の飾り付けに本腰を入れているのには、全く別の単純な理由が働いているからに他ならない。端的に言ってしまえば、本物と偽物の違いに我慢できないわけだ。あの岩倉家の屋敷を経験しては、クラスメイトたちが考える小さな仕掛けや衣装道具などがどうしても古拙な作りに見えてしまって、あれやこれやと口うるさく指摘してしまう羽目に陥っている。
要するに、催し物の舵取り役を私が担ってしまったのだ。そのせいで三嶋や清水にまで、下校時間ぎりぎりまで手伝わせるという好意に甘んじてしまう体たらく。これを焼きが回ったと言わずして、なんというのだろう。
「……ほんと、私は一体何をしているんだろうな」
クラスメイトの大半が出払い、窓の外側には夜の帳が下りている。
壁時計を見れば、長針が午後六時の十五分前で引っかかっていた。
飾り付けは順調に進んでいた。元々が、あの屋敷を参考にして段取りを組んだ装飾だ。さすがに本物には敵わないが、それなりの雰囲気を演出するための色付けや配置には相当気を配っている。手先が器用な三嶋と清水の全面的な協力を取り付けることができたのも幸いした。彼女らも例の屋敷の内装には記憶に新しいらしく、三人で進捗状況を相談し、私がクラスメイトらに指示を出すというのが日課になりつつある。
――そう、だからこそ時折、無性に溜息をつきたくなる衝動に駆られてしまう。
あの呪われた屋敷は今も現存している。打ち壊しの予定もなく、地下室とベントレーの鍵は仙道が預かったまま、西方町の『曰く付き』として依然変わりない風化に身を任せている。
ただ、死神だけが行方を晦ませた。原因は明白だ。だが私には、そのことよりも一抹の不安を覚えてしまう出来事をつい夢想してしまう。
――彰、君は為す術なく彼に殺される。そして君の亡骸を見下ろし、狐憑きは高らかに笑っているわ。それが君の運命。仙道彰に定められた、やがて訪れる約束の結末。
そんなバカな未来の話があるか、と啖呵を切りたかった。だが相手は過去の映像でしかないのだし、そもそも未来予知などという眉唾物の内容を信じるほうがどうかしている。超能力もしかり、霊能力もしかり、詐欺師とまでは言わないが本物だと証明する術のない摩訶不思議の吹聴を鵜呑みにできないのは当然の考えであるはずだ。
それなのに映像の女の話を一蹴できないのは、やはり死神の姿を目撃してしまったせいだろう。あれは実際に屋敷に巣食い、侵入者を飲み込むべく徘徊していた。その犠牲者の一人に三嶋が加わりかけていたところを神崎に救い出され、事無きを得たのだが――。
「遊ちゃん、大丈夫? 何か、悩み事?」
すぐ隣にある教壇で、白い布に赤い絵の具を塗りたくっている三嶋が言った。血飛沫を表現するために濃淡を使い分けているのだが、作業の途中で気分を崩す他のクラスメイトとは違い、実家の調理場にも頻繁に顔を出している彼女の細工はじつに手際が良かった。あまり遅くまで残れない神崎の穴を見事に埋めてくれている。作業の際はずっと着用しているお互いのジャージは、すっかりくたびれていた。
「いや、ちょっと考え事をしていただけだよ。悩み事というほどでもない」
「考え事って、やっぱりあの屋敷の……?」
「まあね。ほら、だって考えないようにしろというほうが難しいだろう?」
三嶋はどう反応していいかわからないといった顔で苦笑した。当時は彼女だけが死神に喰われて死の淵に追い詰められたのだが、すぐに神崎が三嶋のそばに現れて守ってくれたおかげで発狂せずに済んだらしい。虚無の混沌うんぬんの話はともかく、眼と耳の刺激がない暗闇が永遠に続くかもしれないという恐怖は、私自身も想像するだけで耐えられそうにない。
ちなみにその神崎は屋敷での一件以降、また仙道宅への通い妻を始めたようだ。そこには英国からの編入生たちもなぜか一緒に暮らしているようだが、彼女は健気にも負けじと連中に伍しているのだとか。
全く、惚れた弱みほど女を逞しくさせるものはないな。だが私は、もう一つの感情もそれに匹敵すると信じている。
「確かに、昔の人は大変ですよね。今でこそ医療も発達して多くの病気を治せるようにはなっているけど、やっぱりそれだけ人との関わりが深い出来事だったから、良いも悪いも昔からさまざまな影響を与え続けてきた……」
「昔のことを考えたって仕方がない。今の私たちにはどうすることもできないから、何を言っても結果論に留まるだけだ。考えるのはいいが、考えすぎるのも体に毒だぞ」
「じゃあ遊ちゃんは、何をそんなに考えてたの?」
「うん? まあ、それはだな……あの仙道のことで、ほんの少し、な」
彼の名が私の口から出るのがそんなに意外だったのか、三嶋は眼を丸くした。
「仙道さんが、どうかしたの?」
「何者だろうと思ってね。あの男といい、神崎といい、どうにも世間離れした要領を得ている気がする。私たちとは物の見方が根本的に違っているんだ。それがあの二人の強さに繋がっているのかもしれないが、だとすると彼らは異次元の住人なのかもしれない」
「……遊ちゃんの思考が異次元に飛んじゃった」
「こら、人が真面目な話をしている時に、その腰を折るんじゃない」
軽く三嶋の頭を叩く。私も血糊の描写を白い布に塗りたくっているのだ。おかげで掌はところどころ赤く染まっている。
「ごめんごめん。だって以前の遊ちゃんなら、きっと間違っても、異次元だなんて言葉は使わなかったはずだから、ちょっとおかしく思えちゃって」
「……そうかな」
「そうだよ。去年なら体育祭はともかく、文化祭なんて面倒でやってられないって感じで毛嫌いしてたのに、いつの間にかみんなを引っ張ってるんだもん。だから遊ちゃんの中で、きっと大きな変化があったんじゃないかな」
「……大きな変化、か」
言われてみれば、変わらないほうが不自然なほどの体験をしてきているのだった。夏の殺人事件と、今回の屋敷の一件で、私はどうも少数派の思考に落ち着いてしまっている。
つまり、殺人だったり亡霊だったりといった異常な出来事が身近にあっても不思議ではない、とする考え方だ。他人事のように嘯くのではなく、盲目的に断固否定するのでもなく、非日常のそれらを心のどこかで曖昧ながらも受け入れている――そういう往生際の悪い立場に甘んじて中立的であろうとしている。
それは確かに、以前の私では考えられない観念だった。中途半端な態度でうやむやに妥協するよりは、どちらかにきっぱりと分別しようとするのが私だったはずなのに、それが今では優柔不断にも煮え切らない考え方を享受している有様だ。
だが、なぜ?
私はなぜ、どっちつかずの立場で右往左往しているのだろう。
仙道と神崎の顔を思い出すたびに、なぜか胸が息苦しくなる。
この正体不明の不安を払いのける捌け口はどこにあるだろう。
そもそも私はなぜ、意味もわからない不安を覚えているのだ。
仙道彰、殺される、狐憑き、約束の結末……。
何もできない自分が歯痒い。きっと仙道は、私が何を言っても協力を拒むだろう。ありがとうと優しく言って、冷然と背中を向けるに違いない。
私と彼との間には、どうしようもない壁で阻まれている。その壁を、神崎だけが簡単に超えられる。
だとすると、私はまたもや彼女に見せつけられたわけだ。努力では埋められない天賦の器量。初めて会った時、神崎は物思いに耽るような顔で体力測定に挑み、あっさりと私の記録を超えてみせた。当時はそれがあまりに衝撃的で、声をかけずにはいられなかったのに。
「……そういえば、なっちゃん、遅いね」
清水菜月の愛称で、三嶋はなっちゃんと呼ぶ。清水は数十分ほど前に、私のお願いで、体育倉庫まで竹馬を借りに職員室に向かったはずだ。空中で固定できる物が欲しかったのだが、体育倉庫の鍵を持っているのは無論、男女とも体育教諭しかいない。
しかし、もう数十分も時間が経っていたのか。
なるほど、言われれば確かに手間取っている。
「何かあったかな」
「そろそろ下校時間になるから、早く戻ってきてくれたほうがいいのに……。それとも、先生の許可が出ないから、困っているのかな」
「ああ、それはあるかもしれない。清水は人と話すのが苦手だからな。かといって、私と三嶋は手が忙しかったから、彼女に頼むしかなかったわけだが」
「ごめん、わたし様子を見てくるね」
三嶋は教室を出ていき、それきり姿が見えなくなる。
彼女の言うとおり、下校時間も迫っている頃合いだ。今日の作業はこのぐらいで止め、私は帰宅準備のための後片付けをしておくべきだろう。
赤い絵の具を手早くドライヤーで乾かした後、白布を巻いて細く整える。他にも清水が手伝ってくれていた、お手製ダンボール人形も別の教室に保管して、その他諸々も一緒に移動させておく。
そうした後始末をしているうちに時間を迎えてしまったらしく、校内放送の下校案内が流れた。今日は一日中の大雨で、昼頃からは雷まで鳴り落ちる荒れ模様だから、先生らが早々に帰らせたクラスメイトも少なくない。教室には私以外に誰もおらず、ただ窓を叩きつける雨脚の強さだけが耳朶を打つ。
三嶋と清水はまだ帰らない。
その時、廊下から足音が聞こえてきた。
「……なんだ、まだ教室に残っていたのか」
呆れたように担任教諭が呟く。彼女は律儀にも、自分の教室に誰かが残っていないかを確かめにやってきたのだろう。
「すみません。もう後片付けは済ませましたので、すぐに帰ります」
「そうか。御苦労だったな」
「ご心配をおかけしました」
先生が去り、また教室に一人残される。
二人は依然、戻ってくる気配すらない。
「……全く、何をしているんだ、あの二人は」
おおかた、どこかで足でも滑らせてドジを踏んでいるのかもしれない。体育倉庫は南のグラウンドの手前、しかし校舎の外側に出ないと入れない体育館の中にあるので、移動の最中に靴底が濡れて滑りやすくなっているはずだ。上履き用の運動靴とはいえ、全くないとは言い切れない。
私は三嶋の携帯電話にかけてみた。しかしどれだけ待っても通話状態にはならず、埒が明かないのでこちらから切る羽目になってしまう。
だが呼び出し音が鳴っているのだから、相手の携帯電話が反応していないはずはない。となると三嶋は、着信音が鳴っても通話に出られない状況にあるのだろうか。
それが一体どんな状況なのか、私には知る由もない。
とりあえずこちらが迎えに行ったほうが早いだろう。
荷物は教室に置いたまま、早足で廊下を歩いていく。職員室のある本館は東側にあるが、倉庫のある体育館は南西にある。行き違いになる確率が高そうなのは体育館側のほうだが、そこにいないことを先に確認しても遅くはないだろう。
一年校舎の外は相変わらずの激しい雨だった。傘を差しても足許が濡れてしまうほどで、やや距離のある真正面のグラウンドにはそこかしこに水溜まりができている。落日の空はひどく暗くて陰鬱だ。何か良くない出来事の前触れであるかのような人気のなさが、眼にあまる。
体育館は二階建てで、内装はほぼ吹き抜けの様相を呈している。明かりが漏れている様子はなかったが、正面扉に鍵がかかっていないのが気になった。他学級の催し物のために準備中のはずなので、生徒が出払っている時は必ず鍵をかけておくはずだが。
胸の鼓動がなぜか速まっていく。
心なしか、耳の裏が熱くなった。
傘入れの籠に四本目を差し込もうとして、嫌な予感がして結局手に持つままにした。傘入れにはすでに三本ある。なぜだ。それは誰と、誰と、誰のものなのだ?
傘が残って、人が消える。
誘拐? それとも神隠し?
唐突に思い出す、雨の日の殺人事件。
被害者はいずれも低年齢の少女――。
倉庫は、吹き抜けのフロアに面した別室に据えられている。近づいてよく見ると、その引き戸がうっすらと開いているのがわかった。鳩尾のあたりが苦しい。本当に苦虫を噛み潰して呑み込んだ後のような不快感が、神経を逆撫でする。
片眼だけでしか覗けない隙間に忍び寄る。だが奥の部屋はやはり薄暗く、明かりもないので立ち尽くす人影しか見て取れない。
しかし、その人影が三嶋であることはすぐにわかった。だから私は肩を撫で下ろして、取り越し苦労を振り払うために引き戸を思いきり開けた。
「おい三嶋、そこで一体何を――」
……言えなかった。
そこから先は、何も言えなかった。
言えるはずがないのだ。
室内には三つの人影がある。
竹馬を両手で構えた三嶋の後ろ姿。
床にうつ伏せで倒れている第三者。
そして制服がはだけ、下着まで床に散乱している中心に、虚ろな眼をした清水が座っている。
だから私は、やはり何も言えないまま立ち尽くしていた。
室内の重苦しい沈黙を、怒号のような雷鳴が引き裂いた。




