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その子猫は、約三十分ほどの時間をかけて、最終的には清水が捕まえた。仙道と私とで素早く回り込みつつ、その逃走経路を周到に消しながら三嶋が補助をする形で近づくので、背後で忍び足をする清水にまでは気が回らなかったのだろう。
やっと捕まえた場所は表座敷だ。
即ち、囲炉裏のある座敷である。
神崎の言うとおり、子猫の赤い首輪には『ME』と書かれていた。仙道がその首輪を外して折り畳みナイフを取り出し、留め具の裏側を切り裂き始める。傍から見ると気でも触れたかのような行動だが、傍観する私たちをよそに、彼はたちまち小さな鍵を取り出した。疑うまでもなく、現代的な細工の真新しい一品だ。
「仙道、それは?」
「なんの変哲もない鍵だ。他に隠された物もない。つまり、特定の時間と場所を指定していない鍵だ。探してくれ。この屋敷のどこかに必ず、これに合致する鍵穴がある」
またもや難解な注文だ。鍵穴といえば、小さな箱や扉などが真っ先に思い当たる。そういった対象をくまなく調べるとなると、とてもではないが一日で発見できるとは思えない。
しかし仙道の指示に辟易しながら囲炉裏を見た時、あっ、と思わず声を上げてしまった。仙道と神崎とで例の死神を撃退した時に、囲炉裏の灰が吹き散ったのだろう。剥き出しになった床面には、うっすらと鍵穴が露出していた。
「おい仙道! ここに鍵穴があるぞ」
「……本当ですね。なんだか秘密基地みたいです」
三嶋が残りの灰を払いのけ、仙道が近づく。猫の首輪から取り出した鍵は、その鍵穴にぴったりと一致した型のようだった。挿入した鍵穴は玄関の方角へと向かい、囲炉裏ごと持ち上がっていく。
その先には階段があった。地下へとおりていく近代的な造りのもので、奥座敷に残っていた神崎も音を聞きつけた様子で姿を見せた。死神は相変わらず行動を封じられている。
「うわ、そういうのもあったんだ」
「三嶋さんの言った秘密基地という印象も、あながち的外れではないだろう。ここはもしかすると、万が一のための『何か』なのかもしれない」
「じゃあ、もしかしたらこの先に、その『何か』の手がかりが?」
「あるはずだ。でなければ、こんな大がかりな仕掛けで隠さない」
二人は呆然とする私たちをそっちのけで、とんとん拍子に話を進めていく。どうやら神崎と仙道は、こんな風変わりな屋敷を建てた人物に心当たりがあるらしい。
地下へとおりる階段は、仙道が先陣を切って踏み入れた。中が真っ暗なのでさすがに躊躇していたが、神崎も死神を連れて階段をおりていくので、顔を見合わせた私たちもやむなく後に続くことにする。
携帯電話の光では、自分の足場も照らすことができない闇の中だった。私は三嶋の手を取り、三嶋が清水と手を繋いで、階段をゆっくりとおりていく。よく見えないが、子猫の鳴き声が聞こえているあたり、清水はまだ抱いたままなのだろう。よほど気に入ったのか、気に入られたのかはわからない。
おぼつかない足取りで階段をおりていた時だった。突然光がまたたいて、暗闇に馴れかけていた眼を強烈に痛めつけた。瞼を閉じても視界が白い。
だが再び視界が開けると、開放的な地下室の全景がたちまち一望できた。面積からして、表座敷から玄関口までの奥行きのある広さを確保しているだろうか。白一色の、なんとも面白みのない内装だが、その中央にぽつんと佇むものに眼が釘付けになる。
一瞥しただけで超高級とわかるグレー車が、光沢の美しいフロント部をこちらに向けて、新品同然の保存状態で置いてあるのだ。それを見て、あの仙道がぱっと眼を輝かせて車に近づいていく。あたかも童心に返ったような顔だ。こいつにもそんなものがあったのかと思うと、ようやく同じ年代の男なのだなと実感できるようになる。一安心という思いすらあった。
私たちが階段をおりた時、高級車の周りをうろうろしていた彼が運転席のすぐ隣で足を止めた。向かって左側の助手席のそばには神崎が立ち止まっている。
「彰、これは?」
「ベントレーだ。英国の高級車、ベントレー・コンチネンタルGT。伝統的なグラニットグレーに、ツインターボのW型十二気筒エンジン――全くすごいぞ! 見ろよ茜、憧れの車だ! ああ、夢みたいだ! こんな車に乗れるなら、俺は今ここで死んでもいい!」
などと、普段の仙道からは絶対に誰もが想像もつかない興奮の声を上げて、顔を覆っている。私たちは言うまでもなく、神崎も反応に困った表情で立ち尽くしていた。
「あ、彰……その、大丈夫?」
頭は、と言いたい気持ちをぐっと我慢したのだろう。歯切れの悪い彼女の言葉には少しも気づく様子なく、仙道はいよいよ奇行に走るが如くに車体下に身を滑らせた。
どうやら何かを探すためのようだが、私はもうこの男の行動の謎を解くのは諦めることにした。そうでなくても奇天烈な思考回路をしているのに、さらに行動まで摩訶不思議に染められてしまっては為す術もない。それに、どうせ放っておいたところで、仙道彰なる男はきっと万難を排して目的を達成してみせるだろう。だったらむしろ、この男の思うがままに任せておけば未踏の地の不安も吹き飛ばせるに違いない。
まだ彼が車体下から戻ってくる気配がないので、私は三嶋と清水を連れてベントレーとやらの車体を眺めることにした。車種はツードア・クーペで、内装は黒で統一されている。座席は全て滑らかな本革を使用しているようだ。夢にも見たことがないような高級感は、身震いするほど流麗で魅力的の一言に尽きる。確かにこのような車を外の世界で走らせることができたなら、さぞかし気持ちがいいだろう。
ぼんやり車内を眺めているうちに、突如として電子音が短く鳴り響き、運転席側のドアが開いた。いつの間にか仙道が車体下から戻っていて、鍵を見つけたらしい。しかも遠隔操作タイプだ。このベントレー以外には何もない地下室だから、その鍵も車体のどこかに隠されていると考えたのか。
仙道が運転席に乗り込み、その隙を見計らって神崎が死神ごと助手席に座る。とにかく規格外の二人だが、もはや死神の存在は毛ほどの妨害者にもならないのか。しかし臭いは大丈夫か?
とにかく私たちは死神には近づきたくないので、仙道のそばから車内を覗き込むことにする。彼はコントロール・パネルを操作して、液晶画面に流れる英文の羅列を次々と読んでいた。そしてなんと自動スライド式だったダッシュボードがおもむろに開き、そのとおりの鋳型に填め込まれている指輪が露出する。
即座に反応したのは神崎だった。
が、嬉々とした眼の輝きも次第に霞んでいく。
それもそのはずだ。指輪のレリーフは死神の頭部そのものを象っており、どこからどう見ても幸福の意味合いを含む代物とは思えない。その眼窩にはルビーめいた石が填め込まれているが、このベントレーの車内にあっては、異色的にも古めかしい素材の装飾品である。
何か理由でもあるのか。それを仙道に訊こうとして、再びコントロール・パネルを操作する彼の手許をなんとなく見つめる。やがて液晶画面がブラックアウトして、一人の男が映し出された。しかも意外と、仙道彰の面影がある整った容貌をしている。
「父さんだ」その仙道が言った。「仙道恭一郎。狐憑きと長年戦い続けた、因縁の私立探偵だ」
狐憑きという言葉は、つい先ほど聞いたばかりだ。彼が屋敷の全焼にまつわる真犯人のことを言った時に、神崎が咄嗟に切り返した名前。
液晶画面の男――仙道の父親だという人物が何かを語り始めた。
「――初めまして、というべきかな。それとも僕たちは、お久しぶり、というべき関係にあるのかもしれない。全く、お互いに困った挨拶だね。ただ、どちらにしても今の僕には知る由もないということは、あなたがたにも知っておいて貰いたいんだ。これを見ているということは、たぶん僕はもう、この世にはいないだろうから」
男は、そんな衝撃的な告白をさらりと言ってから苦笑した。息子であるらしい仙道とは性格も雰囲気もかけ離れているのに、親子だと言われれば妙に腑に落ちる説得力がある。
あるいは、そういう不思議な繋がりが『血筋』というのかもしれなかった。
「あなたがたにとって、僕はもう見ず知らずの過去の人間だろう。だから僕の自己紹介は必要ないはずだ。今のあなたがたにとって最も肝心なもの、僕が生涯をかけて未来に引き継ぐべき事柄は、狐憑き打倒の手段だけだ。それだけが、ようやく手に入れたのに結局は使えなかった『切り札』の一つだから」
すると彼は片手を持ち上げ、小さな指輪を見せつけるように掲げた。画面がその指輪を拡大させると、先ほど車内のダッシュボードで発見した物と寸分違わない造形であることが窺い知れる。
「これは『死神の指輪』と言って、自らの指に填めた者と契約を交わすことで、死を司る最高神『黒死王』を支配することができるようになる。というのも、じつはこいつの正体は、十四世紀のヨーロッパで爆発的に広まった『死の流行』そのものなんだ。百年戦争とおそるべき感染症の恐怖は、当時のヨーロッパ全域の住民に、巨大な死の影を見せつける背景をもたらした。いかなる信仰よりも強烈な絶対性の襲撃だ。死とは、生の果てに辿り着くもの。生とは畢竟、存在するということなのだから、この世に存在する全てはやがて死に至る。そうして究極的には何もかもが死ぬのなら、やはり死こそがこの世の最高位に属するはずだとね。だからこれは、当時のヨーロッパの全人口の半数以上を皆殺しにした、絶望的な死の信仰によって疑神化したもの。大規模な集団ヒステリーで生まれ、あらゆる死をこそ支配しようとした死の舞踏のなれの果て――即ち『死神』なんだ」
……やはり、というべきか。神崎が身動きをとれなくしている悪霊を軽んじるわけではないが、こういうオカルトめいた内容はどうにも心理的抵抗が強く、なかなか簡単に受け入れられるものではない。
だが、私の思いとは裏腹に、仙道の父親なる男の話は途切れることがない。
「この黒死王なら、あの狐憑きをも必ず消滅させることができる。これが操るのは、脱出不可能な虚無の混沌。そこに幽閉された者は少しずつ虚無と同化し、やがて完全なる死に至る」
「あ、だから真っ暗だったんだ。こいつの中って」
「茜、少し黙っていてくれ」
不満そうに膨れ面をして神崎が押し黙る。その間にも、死神と呼ばれる『黒死王』なる霊体はずっと抵抗しているのだが、彼女の拘束からは逃げられないようだ。
「だが注意してほしい。この指輪だけでは、狐憑きを倒すことはできない。奴はあらゆる生命体に憑依する能力を持っている。極端な話、指輪の契約者本人に憑依してしまえば、狐憑きは簡単に黒死王の追撃から逃れることができてしまうだろう。だからこれは、あくまでも奴に対抗する『切り札』の一つと心得ておいてほしい。そして僕に代わり、見つけ出してほしいんだ。狐憑きの自在な憑依能力を封じる、有効な手段を。黒死王の追撃をも振り切って、屋敷の謎をここまで解き明かしてみせた君たちなら、きっとできるはずだ」
試練か、と仙道が言った。私はちらりと彼の横顔を覗き見た。仙道はただ、まっすぐに父親の言葉を受け止めていた。
「奴の犠牲者第一号となった岩倉葉子は、ただ不幸だった。彼女は生まれ付き、自分ではどうすることもできない病に蝕まれ、ただの一度も女性らしい幸福を掴むことなく、世を恨み、他の女性を妬み続けた。狐憑きは、そうしてマインド・コントロールした彼女を、自分が憑依することで、屋敷に火を放つ体力を一時的に取り戻させたんだ。そして彼女は持病で死んだ。記録上の岩倉葉子は、放火前にはすでに死亡しているのだし、当時彼女の存在を知っていたのは父の道成と下手人だけだったから、道端に倒れている遺体を誰かが発見しようとも、それが岩倉葉子だとわかる人間はほとんどいなかったはずだ」
死神の話はともかく、岩倉葉子のあまりに理不尽な末路には、同情よりも怒りで不満が爆発しそうだ。その人生の決着は、同じ女性として見ても、あまりに救いがなさすぎる。
「――僕は狐憑きが許せない。だけど僕一人の力では、とうとう限界を感じてしまった。僕は弱い人間だ。狐憑きを許せないと思ってずっと憎み続けてきたのに、守りたいと思う人ができてからは、人並の幸せに憧れている自分の不甲斐なさに呆れてしまう。けれど、だからこそ僕は、この死神の指輪を後世に託したい。そしていつか、僕と同じ志を持った人間がこれを受け継ぎ、あの狐憑きを倒してくれると信じている」
「……恭一郎さんはこの時、とっくに死を覚悟していたんだね。そうじゃないと、他人に不幸が及ぶかもしれない危険な代物を、たとえ一時的にしたって知らない誰かに託そうなんて、絶対に考えないはずだから」
神崎の言葉に、しかし仙道は何も応えなかった。私は仙道家の事情をよく知らないが、どうやら今までの話の流れから察するに、仙道の父親はとうに死亡しているらしい。だが仙道の父親が、屋敷が建てられた十五年以上も前に、このメッセージを残しているというのは理解できた。
しかし仙道が言うには、工事を依頼したのは岩倉葉子の名を騙る女だという。ではその女は、一体何者なんだ?
思案に気を取られていると、映像がいつの間にか切り替わっており、別の誰かが画面に現れていた。豊かな黒髪に、野性的なしなやかさを体現した肢体の持ち主。
「母さんだ」仙道が呻くように言った。「それも、ずっと若い頃の……」
「……初めまして、というわけにはいかないかな。だって今これを見ている君と私が会うのは、これで三度目のはずだから」
三度目、と怪訝そうに神崎が復唱する。だが仙道はやはり何も言わずに、画面に映っている女性の次なる言葉を待っていた。
「そう、私には今これを見ている人が誰かを知っている。たぶん、その頃には私もすでに死んでいるでしょうけど、それはさして重要ではないの。私には、狐憑きに関わる人間の運命を読み取ることができる。運命とは即ち、定められた結末、ゆえに死そのもの。勘の鋭い君なら、もう私が言いたいことを察しているんじゃないかな」
神崎がしきりに、不安そうな眼の色をして二人を交互に見やる。二人とは無論、映像の女性と仙道のことだ。
母さんじゃない、と仙道が言った。そして映像の女性が細いフレームの眼鏡をかけると、彼はそれきり口を閉ざしてしまう。
「私と彼は、もとは同じ一つの魂だった。けれど彼は、自分の魂を分裂させる方法を手に入れたの。たぶん彼が独自に発展させた能力の応用でしょうね。私はそのせいで、互いの半身として分裂させられたのよ。今から思えば、これも彼が今後の自立行動をとるための布石だったのね。でも、そのおかげで半身として、幸か不幸か、お互いのことは手に取るようにわかってしまうわ。君のことも――仙道彰の運命もね」
じかに名指しされたせいか、仙道が息を呑むのが私にも伝わってきた。その動揺が感染するように、この場にいる全員に伝わっていく。
だが私たちがさらに驚愕したのは、映像の女性がとった次の行動からだ。彼女は自分の下腹部を、とても愛おしそうに撫でた。まるでこの世のあらゆる宝物が、そこに詰まっているかのように。
「君は私の大切な宝物。そんな君に、これからの冷酷な結末を話すのは、すごく心苦しい。できるなら、狐憑きのことは忘れて、ごく普通の家庭を手に入れて穏やかな人生を送ってほしいの。君がすごく優しい子に育つのは、他の誰よりも、この私が知っているから」
おそらく、この場に立ち会っている誰もが、彼女の言外に隠された真意に気づいていた。この女性は当時母親だったのだ。その体には新しい命が宿っている。
仙道の呼吸が喘ぐように乱れ始めた。無意識に握ったのだろう右手の拳を、神妙な顔をする神崎が優しく触れる。二人は顔を見合わせて、そして映像に眼を移した。
「彰って名前はね、じつは私が考えたの。物事を明らかにしてほしいという願いを込めて、未来を生きていく君の活躍を支えますようにって。おかしいよね、神様が神様にお願いをするなんて。恭一郎には笑われたわ。でも私たちはきっと、君が見ているその未来では、一緒に生きていくことができない。それがほんの少しだけ、悔しいの。麗子の体を借りていた時は、恭一郎が現れて奇妙な偶然だと思ったけれど、今はその偶然がとても憎いのよ。だって、君と――彰とお別れしなくちゃいけないから」
これ以上、ここに留まるべきではないと思った。私は三嶋と清水の手を取り、首を横に振ってこの場を離れることにした。二人もそれに同意してくれたので、私たちは忍び足で静かな別れを切り出す。
その時、子猫がするりと飛び出し、神崎と仙道のいる外車のほうに走っていった。私は追いかけようとする清水を制止して、ベントレーに背を向ける。
途端、気がかりな女性の言葉が、私の耳を打った。
「――彰、君は為す術なく彼に殺される。そして君の亡骸を見下ろし、狐憑きは高らかに笑っているわ。それが君の運命。仙道彰に定められた、やがて訪れる約束の結末」




