03
進学にあたって、仙道彰がこの岸沢東方高校を選んだのには、二つの理由がある。
一つは、父の恭一郎が実際に卒業した高校が、この東高だったことだ。当時から高い知名度を誇っていたらしく、卒業後は単身でイギリスに渡り、インペリアル・カレッジ・ロンドンに留学。そのまま在学中に、イギリス探偵社協会のトップエージェントに弟子入りした。そのトップエージェントは元来、弟子を持たない主義で有名だったそうだが、父はなんとかして彼女を捕まえ、『技術は見て盗む』ことを条件に同行を認められている。
以後七年間、父は死に物狂いで探偵のノウハウを盗んでいった。そして翌年には自ら探偵社を発足させ、初めて担当した事件で、英国女王の殺害を企てていた狐憑き――向こうでは『悪魔憑き』と呼ばれていた――と初対決をする。しかしその時、かつて師匠だった人物が死亡したことを契機に、父と狐憑きの因縁が決定的になったらしかった。
それから父は全世界を飛び回り、さまざまな事件を経て、日本で知り合った母と結ばれた。しかし母の身に命が宿ったことを知っても婚約だけに留め、その後は師匠の仇である狐憑きを追いかけること約五年、ついに殺害に成功する。日本に戻ってからは正式に母にプロポーズし、結婚。そうしてようやく、当時すでに五歳になっていた息子と顔を合わせ、念願の家族生活を手に入れたのである。
――あの、悪夢の日を迎えるまでは。
こうした父に関するさまざまな事情を、仙道彰は、自宅に隠されていた地下室の存在を発見したと同時に知ることができた。父は今まで修得してきた全ての技術を地下室に封じ込め、誰にも知られぬよう完璧に保存していたのである。
ただし父は、願わくば、息子を自分と同じような探偵には育てたくないと日記に遺していた。なまじ、復讐を目的にした長い旅路を続けていたせいか、子供には殺伐とした日常ではない、もっと当たり前の平穏の中で成長してほしいのだと。そしてできるなら、ごく普通の家庭を手に入れて、真っ当な幸せを掴んでほしい――。
たまらず涙がこぼれそうになったが、彰は父の言葉を思い出し、湧き上がる感情をなんとか抑えた。代わりに一つの決意を胸に秘め、父の日記を静かに閉じる。
彼の夢は、探偵になることだ。父の跡を継ぎ、あのおそるべき狐憑きのように、世界中のどこかで悪巧みを企てる犯罪者たちの思惑を妨害する。それが父親への恩返しになり、そして、まだ顔も名前も知らない誰かのために役立てる仕事になると思っている。
最初は、刑事という選択肢も考えていた。だが警察という組織に身を置けば、あらゆる法的手続きに縛られて身動きがとれない場合がある。加えて、個人的な直感よりも団体の協調が求められるのが昔からの警察の在り方だ。おまけに地域に密着しすぎていて、より多くの誰かを救えない可能性もある。
母には悪いが、探偵のほうが向いていると彰は思った。証拠分析能力の高い警察よりも、遥かに行動自由度の高い探偵のほうが、犯罪者の足取りを追うには最適だと考えたのだ。
そうした息子の意思を、あるいは父も覚悟していたのかもしれない。日記の最後には、透明の筆跡でこう書かれていた。その炙り出しには鉛筆だけで事足りた。
『僕の思い出に、約束の予言者は現れる』
言葉の意味はうまく汲み取れなかったが、どうやら父の過去をなぞることで、予言者と呼ばれる何者かに会えるらしかった。それが東高を志望した第二の理由であり、おそらく、大講堂の入口前で会った白衣の女性とその予言者とやらは決して無関係ではないだろう。
放課後の正門前。
今朝の青空とは打って変わって、大粒の雨がアスファルトの歩道に落ちている。昼休み直前からずっとこの調子なので、多くの生徒は下校に消極的だ。
「これは当分、降り続けそうだな」
教職員用の本館入口から、正門の様子を眺める。
玄関のドアの内側から覗く外の景色は、止みそうもない雨脚で埋め尽くされている。このまま傘も差さずに出歩けば、冷たい雨風にさらされて帰宅しなければならないばかりか、約束の買い出しにも影響が出ることは間違いない。
では、タイムセールは諦めるか。
今から急いで帰宅し、二人分の傘を持って学校に戻れば、なんとかぎりぎり間に合うかどうかの瀬戸際には持ち込めるかもしれない。
「……やってみるか」
まだ本館前には来ていない幼馴染にメールを打ち、傘を取りに行くから正門前で待っていろ、と送信する。
彼女なら、打ちつける雨粒と雨粒の間をすり抜けて帰宅するという芸当は造作もないのだろうが、あいにく彰はそんな超人めいた絶技はできない。そもそも人類史で可能にした人間が過去にいるのかどうかも怪しいくらいだ。
ならば彼は、あくまでも普通の人間にできる程度の範疇で、約束を守るだけのこと。
「俺も、入学式で焼きが回ったかな」
言って、恥ずかしそうに鼻をかき、照れ隠しに走り出す。
額のあたりで片腕を構え、視野の庇を作りながら雨の中を進んでいく。
周囲を窺う余裕はないが、角を曲がる前には目を凝らし、足を滑らせないよう注意した。
革靴の中に雨水が入り込んでくる。早く裸足になりたい気持ち悪さが足裏に広がる。
商店街を抜け、子供の頃から知っている公園の外側に躍り出た。
父を亡くした直後は、よくここに来て、無気力ながらブランコに乗っていたものだ。
何を考えるわけでもなく、だからといって、何をするわけでもなく。
ただひたすら、きい、きい、と鳴くブランコの音を聞いて落ち込んでいくだけの怠惰な時間。
そんな過去を思い出したせいだろう。
なんとなく、公園の中を見てみようかなという気分になって。
――視界の端に、何かを捉えた。
つい、視線がそちらのほうを追ってしまう。
遠い距離、中央が盛り上がった横幅のある滑り台の下部、その空洞で雨を防いでいる、二つの人影。
背の低い人影が、背の高い人影に引っ張られている。
しかしその様子は、どうしても穏やかな連れ合いには見えない。
むしろ背の低い人影が嫌がり、必死に抵抗しているように見える。
そして背の高い人影は、その反応を無視してまで、相手の腕を引っ張っているのだ。
雨の中。
それは人が思っている以上に、視覚的な密室になりやすい環境なのかもしれない。
「おい!」
彰はすぐさま駆け寄り、人影に向かって声高に叫んだ。
案の定、背の高い人影はびっくりしたように後じさり、そそくさと逃げていく。即座に追いかけようとしたが、逃げた相手に足で蹴られて尻餅をついた人影に気を取られた頃には、強い雨脚で姿が見えなくなっていた。
取り押さえることには失敗してしまった。だが、及第点は守れただろう。
「大丈夫か?」
地面に座り込んだ人影を見やり、彼は驚いた。
歳の頃、まだ十を数えるかどうかという少女だった。赤いランドセルを背負い、サイドポニーでうまく髪型を整えている。ぱっちりと大きな瞳を困惑げに赤らめて、唇は寒さのためか、あるいはおそろしさのあまりに今も震えたままだ。小柄な体格、細い手足もまた華奢で、今のような出会い方をしていなければ、きっと愛らしい小動物のように無邪気な姿を見せてくれたことだろう。
「もう安心だ。何があったか知らないが、もう誰も君を引っ張ったりしないよ」
腰を落とし、なるべく視線を低くして、まだ怯えたままの少女に笑ってみせる。
しかしやはり緊張が抜けないのか、彼女は依然として目を合わせようともしてくれない。
わかっていたことだが、やるせない無力感は否めない。せめて茜がいてくれれば、同じ女の子同士で、彼女を少しでも和ませることはできるのだろうが――。
「立てるか? そのままだと服が汚れる」
手を差し伸べ、反応があるまで待ってみるつもりだった。
だがその静寂は、突然割り込んできた男の声に打ち砕かれてしまう。
「テメェ、そこで何をしてやがる」
聞き覚えのない、静かな怒気。
ぱっと顔を明るくして走り出す少女に釣られて、仙道彰も振り返る。
「お兄ちゃん!」
「大丈夫か? 後ろに下がっていろ」
本多国雄。
たった一人で暴走族を潰したという、噂の同級生。
その男が傘を差したまま、敵意にみなぎった眼光をこちらに向けてくる。
致命的な誤解を受けたまま邂逅したのは不幸な偶然か、はたまた運命か。
「……なぜ俺を睨む?」
「なぜだと?」一歩、本多国雄がにじり寄る。「どこのどいつとも知れねえ奴が、オレの妹を誘惑しようとした。黙って見過ごすわけにはいかねえな」
それを誤解だと、言っても聞く耳持たぬ様子だった。
「お、お兄ちゃん……」
「有希子、お前はすぐに家に戻れ」
「で、でも」
「大丈夫だ。オレはただ、ほんの少しだけ、こいつと話し合うだけだ」
少女は不安げに彰と国雄を交互に見やるが、やがて兄の指示通り傘を受け取り、背中を向けて滑り台の外へと駆け出していく。
たまらず、彰は威圧的な同級生を見上げた。
「一人で雨の中を帰らせて、大丈夫な――」
そこから先は、何も言えなかった。
途轍もない激痛が左頬を襲ったかと思うと、もんどり打つほどの衝撃で滑り台の外側に吹き飛ばされたのだ。ぬかるんだ土の地面を転がり、ようやく勢いが止まると、今度は冷たい雨の刺激が全身を打ってくる。
だが、それは本来ありえぬはずだった。
不可解な痛みに襲われるまで、お互いの距離は、少なく見積もっても三メートル程度は離れていた。そして本多国雄はその間、一歩どころか拳を振り上げた予備動作すら見せていないのだ。これは足跡のない地面が証明している。
つまり、相手は本当に何もしていない。
にもかかわらず、仙道彰は理不尽な攻撃をその身に受けた。
横合いから第三者が何らかの攻撃を仕掛けてきた可能性はない。この場合、痛覚が走るのは真正面か背後かに限定されるし、何より滑り台が大きな障害となる。先ほどの攻撃はどうしても、本多国雄が意図的に生み出した接触としか考えられない。
目に見えない、間合い外からの暴力。
この超常的な現象は、まず常識では説明できない。
「テメェは先に、自分の身を心配するべきだな」
すでに軽蔑の眼差しを浮かべ、真っ向から近づいてくる孤高の男。
その周囲の空気が、異様に熱を帯びたかの如くに歪み、彰の前に立ちはだかる。
「く、お前!」
「拳と拳の話し合いだ。男同士、サシでやろうじゃねえか。――やれ、神風」
国雄が、ようやく立ち上がったばかりの彰を指差す。
それと同時に、彼は両腕を交差させて、防御態勢をとった。
刹那、やはり尋常ではない衝撃が全身を襲い、あたかも颶風に巻き込まれたかのように体が後方へとさらわれる。
まともに受ければ、骨ごと腕や肩を破壊されかねない強烈な一撃だ。
それでも地面には、踏み込んだ後のように一段と荒れた足跡はない。
――目に見えない、間合い外からの暴力。
これが、暴走族をたった一人で潰したという勝利の『秘密』なのか。
「……まさか、入学して早々、同じような能力者と出会うことになるとはな」
「――、なに?」
「だが、こっちにもそう簡単には倒れてやれない約束がある」
仙道彰が、口元の血を拭いながら立ち上がる。
「テメェの腕、バカな、折れてねえのか」
「俺にも、命を賭けて守りたい夢がある」
お互いに、相手が異色の資質を秘めた人間だと確信した睨み合いが、始まった。




