表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
黄金魂  作者: 天野東湖
第06話 時空を越えて
39/65

38

 死神の頭蓋骨――その口から細い腕が伸び、私の脳天を突き刺そうとした大鎌を寸前で掴んで、目にも留まらぬ凶器の速度を完全に殺していた。


 そして鷲掴みのまま見事に粉砕。細い右腕は死神の喉元から体の下部までを引き裂き、さらに胴体部から飛び出した左腕と共同して、重い扉でも開けるように真っ二つに躯体を切り離していく。


 やがて死神の体が完全に引き裂かれ、霧散した。悪霊が悪夢に負けたような、なんとも筆舌に尽くしがたい光景だ。しかもその直中に立ち尽くす二人の人影もまた、蝋燭(ろうそく)の炎に揺らめく影絵のように浮かび上がってくる。


 見間違えようもない、三嶋と神崎がそこにいた。


「よかった、無事で本当によかった!」


 私は二人に駆け寄った。どちらも怪我はないようだ。三嶋は心底安堵したように笑みを浮かべて泣き出し始めた。清水が抱きつき、互いの無事を再確認する。


 神崎はぐっと背伸びしていた。やや疲れた表情をしている。


「大丈夫か?」

「あ、渋沢さん。――えへへ。ずっとあいつの中に潜んでたから、肩身が狭くって」

「あいつの中って、あの死神の?」

「そうそう。わざとあいつに飲み込まれてやったら、なんにも見えない宇宙空間みたいな異次元に閉じ込められちゃってさ。おかげで三嶋さんを見つけ出すことはできたけど、今度はどこに出口を作るかわからなくなっちゃって」


 何を言っているのかわからないので、私は深く詮索しないことにした。


「全く、びっくりしたぞ。まさか奴の口から腕が生えるとは思わなかった」

「彰のいる場所が出口だって見当つけてたから、連れてきてもらってほんとに助かったよ。おまけに結構タイミングのいい登場だったりして?」

「ああ、ばっちりだ。出来すぎて腰を抜かしそうになった」

「にしし、もっと褒めて褒めてー」

「こら、調子に乗らない」

「ちぇーッ」


 そう言って私たちは笑い合った。彼女がいるだけで緊迫した空気が弛緩するのは、良いことなのか悪いことなのか。


 しかし神崎の背後、その足許から再び白い靄が吹き出し、浮上する死神の虚ろな眼窩が露わになる。反応できたのは二人だけだった。奴の左眼に仙道が自分の右手を突き刺し、右眼に神崎が自分の左手を突き刺す。幼馴染同士が顔を見合わせ、一つ頷いて、腕に力を込めた。死神の頭部はまたしても縦に両断され、その体ごと雲散霧消する。


「倒してもきりがない、というタイプか」

「そのとおり。たぶん同じ奴が復活するんじゃなくて、同種だけど全く別の死神が新しく生まれてくるのね。だから根源を断たないと全てが空振りに終わるわけだけど、はてさて、その根源とやらが一体どこにあるのやら」

「だが現れるのは常に一体だけのようだ。茜、次に奴の行動だけを封じることはできるか」


 そんな仙道の言葉を遮るように、何もない空中から黒い穴が出現して、あの薄気味悪い髑髏の頭部がこちら側を覗いてくる。黒いフード、骨だけの体、そして(おびただ)しい数の人の顔を形作る白い靄の死装束までもが、黒い穴から現れ始める。


 時空を問わずに移動する死神の前に、神崎が立ちはだかった。横一閃のすさまじい鎌の薙ぎ払いを、その場に跳躍するだけで難なく回避する。


 だが神崎は、回避すると同時に攻撃準備にも移っていた。大腿部を胸元までくっつける柔軟性を見せたかと思うと、次の瞬間に打ち放った踵落としを死神の脳天を直撃させる。

 しかし流れるような動きはまだ止まらない。前のめりに倒れる死神の頭部を自分の股で挟み込み、鎌を持っている相手の両腕を背中に回して正面から羽交い絞めにする。


 そして、やや後ろに引く形で彼女が飛んだ。ふわりと浮き上がる、静かなる自由落下がスロー・モーションのように漂う。死神はおそらく何が起きたのかさえ定かではなかっただろう。神崎は己の膝で見事に着地した。死神はその体が霊質でできているせいか、畳に叩きつけられた衝撃は無効なのだろうが、それでも人体を模した形態を掴まれている以上、関節技を完璧に極められては身動きがとれるはずもない――と思う。


 余裕綽々といった表情で、神崎が顔を上げる。


「彰、これでいい?」

「完璧だ。茜はそのまま、死神の行動を封じておいてくれ」


 え、と彼女が濁った声を出す。仙道は構うことなくシャツを脱ぎ、タンクトップ一枚の肉付きのいい上半身を露出させた。三嶋の恥ずかしい悲鳴が短く響く。


 ボロボロで使い物にならなくなったシャツを腰に巻き、彼は私たちへと振り返った。


「これで死神は無力化された。俺たちはこのまま、屋敷の謎を解き明かす」

「いいのか? 神崎がこれ見よがしに嘘泣きしているが」

「それは後回しでいい。今は過去の真実を暴くことが最優先だ」


 私が持ってきた資料――清水が翻訳したものと桜色の表紙の原本、それから例の写真と、十字架から落ちて無意識のうちに持ってきていた白紙――を受け取り、全ての頁に素早く眼を通しながら、仙道は一階奥への廊下を進んでいく。どうやら三嶋は神崎のそばへと居残るようなので、私と清水が後を追う形になった。


 やがて辿り着いたのは、私たちが縁側から入った座敷だった。畳こそ腐っているが、間取り自体は広く設けられている。なんの変哲もない和風の室内だ。ただし、長らく風雨にさらされていたせいか、亡霊屋敷としての趣へと変貌を遂げ始めている。


 仙道はためらうことなく入り、一度も体勢を崩すことなく床の間で何かを調べ始めた。どうやら小皿があるらしいが、廊下側にいてはよく見えない。


「仙道、何かわかったか?」

「……清水さんの翻訳は参考にさせてもらった。彼女はじつに優秀だ。素晴らしい要点の抽出を行い、的確にまとめている」


 彼はこちらに振り返ると、例の写真を見せつけるように掲げた。

 目の当たりにした清水がたまらず声を上げて私の背後に隠れる。


「これは、梅毒の第三期症状が現れた女性の写真だ。二人が発見した日記から読み取って、おそらくこの女性が岩倉葉子と見て間違いないだろう」

「わかったから、早くしまってくれ。清水が怯えている」


 私の言葉どおり、仙道はすぐに写真を丸めた。だが梅毒という言葉は、清水の翻訳には書かれていなかったように思うのだが。


「梅毒は、当時では黴毒とも呼ばれていた。ハンセン病と同じく病変による容姿の変化が特徴的で、どちらも感染症の類ではあるのだが、決定的に違うのはその感染経路だ。無論、当時の人々もその違いはほぼ承知していた」

「ハンセン病というと、屋敷に入る前に言っていた、隔離法律のあった病のことだな?」

「そうだ。梅毒そのものは鉄砲よりも早く国内に伝来し、徳川家康公もその存在を知っていた。そして明治時代になると医制が組み込まれ、検黴の行動が見られるようになる」

「ちょっと待て。梅毒も外見が変化するのに、法律的には妙にゆるやかな動きだな。これには何か理由があるのか?」

「梅毒は、ある意味では大衆的な病だった。梅毒は江戸時代、花柳病とも呼ばれていて、じつに多くの遊郭――つまりは風俗で常態化していた病だった。そして江戸の男たちも、そんな梅毒症にかかった遊女を相手にすることを粋と見ていた節がある」

「……すまない、理解できない。そもそもなぜそんな病が、その、遊郭の女性たちに蔓延していたんだ?」

「当時はその職業柄、遊女たちの妊娠は恥だという共通認識があった。そして梅毒にかかれば、流産や死産になる可能性が高くなるため、結果として妊娠しにくい体質になるのは周知の事実だった。だからこそ梅毒症にかかることが、遊女として一人前だと見做(みな)された時代になり得たわけだ。そしてその症状快復にあてられた治療法として、当時では水銀が利用されている」

「水銀って、当時から一般的だったのか?」

「江戸時代にはすでに大衆向けの白粉(おしろい)が販売されていたが、その成分の一つに水銀が使われていた。ゆえに一般的だったと考えても、平仄(ひょうそく)が合わないことはない」

「だが水銀は確か、毒素があったと思うのだが」

「推察のとおりだ。水銀は約一ミリグラムで致死量に達するほど非常に毒性の高い物質であるため、当時の医師たちでさえ分量には苦い思いをしていたようだ。配分を間違えれば水銀中毒を引き起こすので、梅毒に対して自力で養生できなかった遊女らは、悲惨と口にするのも(はばか)られる末路を辿ることになる」


 深い呼吸をするために、沈黙を挟む。

 想像上でさえ、過去は息苦しかった。


「……壮絶な時代だったんだな、昔というものは」

「当然だ。人と病の戦いは古来から生じていて、だからこそ現実的に対処法のない病魔に苦しむ患者たちを救うために、死後の世界観を前提とした宗教がいくつも生まれている。つまり信仰こそが、決して癒されない体を持つ人々の心を救うことができたわけだ。だがそうした心の救済が絶大な反響を呼べば呼ぶほど、宗教は必ず政治に利用され、さまざまな誤解と望まれない解釈の道を歩んできた。正当化と悪用、そして美化に翻弄される分裂の歴史だ。そうして生き残った奇蹟だけが、現代へと漂流した」

「そういえば岩倉葉子の部屋には十字架が置いてあった。しかし岩倉家といえば、神道とやらが主流だったと記憶しているが」

「少し誤解しているな。華族の岩倉家が国家神道に準じたのは、廃仏毀釈運動で強制的に従わざるを得なかったからだ。しかし使節団として欧米を訪問した際に、多大なる抗議を受けたので、神道と共生する形で二つの宗教の受け入れを認めさせている。これは当時、検黴を行う医制が生まれる一年前から、布教活動を正式に認めるような指示を出していた点からも疑いの余地はない」

「なるほど。そして岩倉葉子は、梅毒の症状を患っていた。当時では非常に危険な水銀治療でなければ病変を緩和することもできなかった、重い病……」


 少しずつ繋がりが見え隠れし始めた。

 だがまだ謎を解く手がかりが少ない。

 仙道の眼にある力強さだけが光明だ。

 私は疑問を投げかける役に徹しよう。


「まずは時間軸を整理しよう。岩倉葉子は生まれ付き病弱ではあったが、梅毒が顕在化し始めたわけではない。しかも日記では、本人が男女間の接触を試みた形跡さえないときている。この事実から判明することは、彼女は先天性梅毒児である可能性だ」

「先天性、梅毒児?」

「妊婦が梅毒にかかると、その血中を通じて胎盤内で梅毒の細菌が増殖し、やがて胎児の血中へと流れ着く。要するに胎内感染だな。胎児はそうして先天的に梅毒症を生まれ持つことになるのだが、その発症時期は三種類に分かれる。胎児期、乳児期、そして小学校の高学年くらいから生じる遅延期の三つだ。岩倉葉子はこのうち、日記から得られた情報により、十一歳から梅毒症に悩まされる遅延期だったと推察することができる」

「……話の腰を折るようで悪いが、お前はよくそこまで知っているな?」

「父さんの遺品の一つだ。ある殺人鬼を追いかけている最中、父さんはなぜか梅毒症への詳しい知識を日記に遺している。そして、ある神様に対する知識についても、同様の頁で発見することができた」

「ある神様?」

「ああ。だから俺は、ある一つの確信を持って、この屋敷の謎を解き明かしたいと考えている」


 遺品やら殺人鬼やら、この屋敷の謎とは全く似つかわしくない単語がいくつか出てきた。それでも仙道が自信を持って取り組むあたり、きっと何か考えがあるのだろう。


「わかった。話の続きを聞かせてくれ」

「岩倉葉子は十一歳の時に、梅毒症の兆候が表れ始めた。梅毒症は一般的に、自覚症状のない病だと言われている。顕在化するまでは、まるで病魔が冬眠でもしているかのように異変が見られないためだ。だから予防のための検査は不可欠となり、明治時代には医制が誕生している」

「それで?」

「彼女の身に顕在化したのは、まず貧血だ。やがて発熱だが、これはおそらくリンパ腺が腫れて炎症を引き起こしたせいだろう。そして典型的なハッチンソン三徴候だが、これは角膜炎と難聴の二つしか発症していない。そのせいか、これらは先の発熱により引き起こされた後遺症だと誤診を受け、本来の病魔を見逃す原因にも繋がってしまっている」

「……おそろしく悲劇的だ。しかも話にはまだ続きがありそうだな」

「例の写真を見せる必要はもうないだろうが、彼女が梅毒症の持ち主だと判明するのは、頭部の瘤が眼に見えて膨らみ始めた頃からだ。これをゴム腫といい、脳や脊髄への腫瘍と同じ症状を引き起こす。さらに神経性、血液中の病変も顕在化し始める。その苦しみは、もはや言語を絶するものだ。苦痛を取り去ってくれるなら、神でもなんにでもすがりたくもなるだろう」

「……なんだか、聞いているこっちまで寒気がするな」

「顔色がやや悪いようだ。外の空気を吸うか?」

「いや、いい。私もここにいる以上、覚悟して過去を聞き届けよう」


 清水が私の手を強く握った。彼女も同様の思いのようだった。

 仙道が頷く。


「梅毒は放置されると、感染力が弱まる反面、致死性の症状がおそろしく強烈に肥大化し始める特性を持っている。ゴム腫のように顔が変形して人々の眼に触れてしまうものは、それ自体がさも悪魔の仕業であるような印象を強く受ける。ならば当然、外に出歩くのも躊躇する、あるいは近親者が引き留めるだろう。俺が手に入れた記録上では、この時点で彼女はすでに死亡していなければならない。しかし日記には、さらなる続きが存在する。これが意味するところは何か」

「……別人が書いたか、さもなければ本当は死んでいなかった、か?」

「筆跡から見て、同一人物である可能性は非常に高い。神経性には麻痺の症状もあるが、細部の筆跡は同一のものだ。従って、岩倉葉子は最初に肉体的に死亡したわけではなく、まずは社会的に殺されたと考えて然るべきだろう」

「社会的に?」

「父親の道成に限らず、岩倉家は当時の政財界にあり、非常に強力なコネクションと影響力を持っていた。たった一人の娘の死亡記録を偽るのは造作もない」

「だが、なぜ偽装したんだ?」

「岩倉家の中には世間体を気にする声もあったが、少なくとも道成は、娘に対する醜悪な風聞を消し去りたい親心で取り組んだようだ。この屋敷も、人目を避けるために人里から離れた場所で造らせたようだな。だから伝統的な日本家屋にして、木を森の中に隠した。そして今はつらくとも、死後は必ず神様の手に導かれて天国へ行けるのだと言い聞かせていた。水銀治療の限界と、現在進行形の病状の悪化は、彼を救いようのない苦悩へと駆り立てただろう。死後の世界による救済は、娘の葉子にとっても、自分を苦しめる病魔への唯一の抵抗だった。そのことで、父に感謝すらしていた記述が日記にも見られる。だからここまでは、二人とも梅毒と戦うごく普通の一家だったと言えるだろう。――悪徳の友人が、余計な口さえ挟まなければの話だったが」

「悪徳の、友人?」

「奥座敷の神様。別名を、座敷わらし」


 ぞくり、と背筋が粟立った。

 家に憑くとされ、国内を代表して霊験あらたかな幸運を象徴する、子供の霊。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ