36
今日ほど、一時間が短く感じたことはない。
清水の手を引いて屋敷に戻ると、スポーツ飲料独特の青色の缶を両手に持ち、仙道彰が待っていた。私も清水も両方くたびれていたが、そのありがたい水分のおかげで体の内側から生き返る心地になる。
刑事らが行うという地道な聞き込みの大変さが、よくわかる重労働だった。
「やっぱり、三嶋と神崎は戻ってなかったか」
「茜の言う『死神』は、よほどの強敵らしい。それより、早速報告を聞きたいのだが」
「せっかちな男だな。清水、仙道にメモを渡してやれ」
毛筆と硬筆、どちらの書写検定も清水は二級の腕前を持っている。要点のみを素早く読みやすく記入するのはお手の物だ。
「まず私たちは、この屋敷の付近にある家々を順繰りに回っていった。まず間違いないのは、屋敷が建てられたのは十五年以上前だということだね。これは実際に工事を始めたのを目撃している高齢者が何人もいて、明瞭に記憶していたから信憑性は高い」
「よく憶えていてくれたものだ」
「そりゃあ、こんな住宅街のど真ん中にでっかい屋敷をおっ建てようという工事なんだ。当時はどんな大先生の邸宅になるのかと、相当な噂になっていたらしい」
「しかし完成後も、てんで音沙汰がないので、次第に気味悪がられたと」
「まず興味本位の噂が先に広まった。そして立派な屋敷が建てられたが、表札もなければ家人の挨拶もない。むしろ数か月経っても誰も住んでいる様子がなく、どうしたこうしたと憶測だけの不気味な噂が蔓延し始める。そこで不法侵入の寝床として屋敷に眼を付けたのが、ホームレスだ。完成後から二年もしたら、そういう連中が出入りするのを見たって目撃情報は多かったよ。ただしそれも、さらに一年もしたらぴたりと止んだ」
「失踪者、か」
「実数として行方不明になったのが何人か、というのはわからない。ただ、屋敷が建って五年もすれば、ホームレスたちのほうから近づくのを忌避し始めたというんだな。それに加えて、屋敷に入ったら神隠しに遭う、とかいう不穏な噂も広まり始めたらしい。噂の出所は定かじゃないが、おそらくホームレス仲間の口伝えが、いつの間にか近隣住民の耳に届いたんじゃないかと私は思う」
「妥当な線だろう。そして次に、神隠しの噂を聞きつけた連中が、肝試しに屋敷の周辺をうろつくようになったのか」
「たぶん連中のほうから、あの屋敷は心霊スポットだとのたまったんだろう。不良どもは威勢はいいが、実際に自分たちが被害に遭うことを夢にも思わないらしい。だから結果として、心霊スポットの信憑性は大いに高まった。当時の高校生が行方不明になったという話は有名で、その被害人数は五人。警察と地元の人間で屋敷内を捜索したらしいが、行方知れずは変わらなかった。しかも運の悪いことに、地元のテレビ番組で、夏の心霊特番としてやってきた取材クルーも青い顔をして逃げ出した。どうやら得意満面の霊能者が行方不明になってしまい、それ以来、番組スタッフは二度と来ることなく、当時の撮影が放送されたこともない」
「それが今から七年前の話か」
「私たちが八歳の頃だ。ちょうど同じ頃、地元の小学生も敷地内に入ったとかいう噂話があるが、真偽は不明。私もどこかで聞いた覚えはあるが、すまない、忘れてしまった」
「構わない。その小学生は黒木先輩だ。そして先月に死亡した」
私は言葉を失った。清水も同様のようだ。入学早々に神崎に迷惑をかけた黒木凛という先輩は、この屋敷で神隠しの問題に巻き込まれ、七年後の不発弾事故で死んだのだ。
いや、あれは本当に事故だったのか? 神崎と仙道は『殺された』ことを承知している素振りを見せている。
「興味本位の噂は、実害のある過去を経て、怪談『曰く付きの屋敷』へと変化した。正体不明の人間が、目的不明の屋敷を建て、延々と放置するのだから妙な噂も立って当たり前。それが近隣住民の認識というわけだな」
「まとめると、そういうことだ。さて、次はそっちの調査結果を教えてもらう番だぞ」
「わかっている。こちらはまず、建物の所有者と建築業者を調べてみた。所有者名は岩倉葉子。建築業者は国内有数の大手メーカーだが、他府県にある遠方の業者だった。電話で事情を伺ったところ、彼らは岩倉葉子と名乗る女性から直接依頼され、屋敷の建築に着手したようだ。その際、具体的にどういう建物にしてほしいのかも条件付けされている」
私が怪訝に首をかしげると、仙道はiPhoneのタッチパネルを操作し、映し出した画面を見せてくれた。セピア色の写真――それは問題の屋敷そのままの建物が映っている。
「写真が現存していたことで、おおよその年代も特定できた。劣化の特徴から考慮して、明治から大正にかけて撮られた写真と見て間違いない」
「明治、というと、幕末の後の時代かな?」
「そうだ。それまで封建的だった国内を一変させた明治政府は、近代化、産業革命、文明開化などでよく知られる、いわゆる『始まり』の時代を作り上げた。国会開設、憲法、日本銀行、郵便事業、電気通信、廃藩置県、新聞、円の統一、警視庁、大教宣布など、明治から始まった新しい概念を数え上げればきりがない。精神文化から物質文化へと移行した新時代が、明治の特徴だ。写真技術もその一つで、とある使節団を撮影したスフィンクス記念写真は特に有名だ。一九〇三年にはアマチュア用の手提げ機材も国内で販売されている」
「つまり、元祖の屋敷は明治時代に建てられていたと言いたいんだな? だが、その明治時代に建てられていた屋敷が、なぜか今になって再現された?」
「写真から得られる手がかりはここまでだった。そこで今度は、当時に限定して岩倉家のことを調べてみた」
「今の屋敷を建てるように業者に言った、所有者の名前だな」
仙道が頷く。そしてセピア写真の屋敷に視線を落とした。
「岩倉家は、明治時代に活躍した華族の一人だった。維新十傑の一人と言われている岩倉具視の功績により、公爵の称号を授かっている。彼は後に外務卿に就任し、自ら特命全権大使として、伊藤博文や大久保利通らといった大人物たちとの欧米諸国を巡る使節団にも参加している。そんな具視の子供には道成という人物がいるのだが、彼は子宝に恵まれず、たった一人の娘もすぐに亡くしている。その長女に当たる人物が」
「――岩倉葉子」
「御名答。当時、屋敷には下手人を除き、彼女と道成の二人しか家人がいなかったそうだ。しかも岩倉葉子は結婚もしておらず、生来より病弱で、ある時期になぜか突然死している」
「突然死? そういう病気が当時にあったのか?」
「当時のおそろしい病といえば、時間が限られていたので正確ではないが、大まかながら二種類の病が代表的だった。国民病とハンセン病だ」
前者はともかく、後者は名前だけは聞いたことがある病だ。しかしどちらも、具体的にどのような症状があるのかは知らない。
「その二つは、どういう病気なんだ?」
「国民病は、脚気と結核の二つがある。前者は明治天皇も苦しめられていた病で、後者は言うまでもなく現在も猛威を振るう病だ。どちらも最悪は死に至る病なので、当時はこれらを合わせて、二大国民病と呼ばれていた」
「……それで、もう一つは?」
「ハンセン病は、四千年以上もの古代から、偏見と中傷を世に蔓延させてきた病の一つだ。明治時代ではハンセン病であることを理由に患者を隔離する法律を作り、死ぬまで社会と切り離して彼らを生活させた。この法律は一九九六年になって廃止している」
「ちょっと待て。それって近年のことじゃないか」
「古代より、世界中の宗教観と風聞によって実害の恐怖を異界化たらしめた病だ。しかし今は、病に対する正しい知識を身につけるのではなく、過去の真実を見つけ出すための鍵に正しい目星をつけるべきだろう」
そう言われても、すぐに切り替えることができない衝撃の余韻が残っている。まだ医療技術もさほど進歩していない時代とはいえ、過去にある人類の業は、息苦しい認識を求めさせられた。
「岩倉葉子の突然死は謎のままだが、彼女の父である道成の死因は明瞭だ。彼は外国語に精通していて、外交に不可欠な人物の一人として社交的な性格をしていたらしい。しかし彼が逝去の際になり、突如として屋敷が全焼。当時は放火だと見られていたが、さすがに詳細は不明。ただ、道成と下手人全員の遺体だけが全焼後の屋敷より発見され、これ以降、道成からの家系は歴史上における記録との接点を完全に断絶している」
「全焼……。その当時の屋敷は、この地域に関係があるのか?」
「西方町どころか、岸沢市とも無関係だ。それなのに明治時代の人の名を騙る女性が突然現れ、現存する写真そのままの屋敷を、多額の費用を支払って建築させた」
「騙った? 偶然、同じ名前だったのかもしれないのに?」
「周辺一帯に家系の地縁がなければ、血縁もまた介在しないのが当然だ。だがこの屋敷は当時、岩倉道成の所有物だった屋敷を再現するために建てられている。それを命じたのが、かの道成の娘と同姓同名だという人物だ。これは偶然ではない。全てが必然のもとに成り立つ、計算ずくの行為だ」
「うん? どういうことだ?」
「全焼して失われた屋敷を現代で再現する。これは、当時では不可能だったことを現代で叶えようとする行為だ。では、当時では不可能だった事柄とは何か。死者蘇生か。しかし背徳の黒魔術だけを実現させるのならば、屋敷を丸ごと復元させる必要はない。そうした儀式的な行為にふさわしい場所を用意するだけで事足りるだろう。それに地縁的に関係のない建物をわざわざ建てたのに、あっさり放置する意図にも説明がつかなくなる」
私も清水も口をつぐむ。黒魔術だなんて非現実的なもの、仙道だって信じているわけではないだろう。にもかかわらず、彼は消去法で疑問を検討するために、あらゆる可能性を考慮に入れている。
――本当に、この男は一体何者だ?
「……では仙道の考える、最も可能性が高い理屈は、どういうものなんだ?」
「地縁も血縁も無関係でありながら、屋敷は放置され、所有者は一切その姿を見せない。なのに屋敷の立入を禁じるわけでもなく、かといって誰もが気軽に入れるほど怪奇な噂の実害が安いわけでもない」
「というと、つまり?」
「放置された屋敷に意味はない。古来より、家は人が住むために存在する。だから意味が生じるためには、かつて屋敷に住んでいた人々の過去を追究しなければならない。だが、屋敷の外から調べられる過去は、俺たちが洗いざらい掘り出した。所有者は、それ以上の過去をこの屋敷の中から掘り出せと言っている」
「屋敷の中から? だが、あの屋敷の中には例の怪物がいる。そもそも、あれは一体なんなんだ?」
そこで仙道は、一呼吸を挟むように腕を組んだ。
「茜のいう『死神』か。少なくとも明治時代の記録には、そのような怪物がいた事実はなかった。それに失踪者捜索のために警察も調査しているはずだが、こちらでもそのような怪物の目撃を示唆する話はない。他に死神について、何か知っていることはないか?」
「他には……そうだな。奴は敷地内ではなく、屋敷の中でしか行動できないことぐらいか。それと神崎が何度も倒していたようだが、奴は何度となく復活していた。現れるのは常に一匹だけだった」
「実体数と実動範囲の制限、それから蘇生――というよりは新生か。なるほど、茜が苦戦するはずだ。しかし、だとすると誰が戦っても倒せないということになる」
無言で見守る私たちを置き去りにして、彼は一人で勝手に納得している。なんだ、一体どういう理屈が働いて、神崎の苦戦が当然だという結論に至るんだ? あんなもの、誰が相手したってどうすることもできないだろうに。
「……もしかして仙道は、あの怪物と戦うつもりでいたのか?」
「屋敷の中を調べるなら、死神との対決は避けられない。だが倒してもすぐに新生するのでは、時間稼ぎでしか食い止める方法がなくなってしまう」
「変な奴だな。それともお前は、いわゆる霊能者だったのか?」
「いや、霊のことは専門外だ。ただ、屋敷に入ると死神に襲われるというのなら、それに抵抗するための対策を講じる必要がある」
専門外、ということは、他に専門としている分野があるということか? 仙道彰という男、やはり端倪すべからざる同級生なのか。
しかし神崎は、この幼馴染を信頼している。胡散くさい人間なら、いかなる付き合いがあろうとも彼女が頼るはずがない。
「打つ手なし、か?」
「対策は、あるにはある。だが、そのためには二人の協力が不可欠だ」
「もちろん協力は惜しまないよ。私たちは友達を助けるためにいるのだからね」
これには清水も頷いて同意を示してくれる。私たちはお互いに手を握り合って仙道の反応を窺うが、彼の表情は決して晴れたものではなかった。
「屋敷に隠されている謎は二つある。一つは岩倉家の全焼事件。そしてもう一つが死神の存在だ。ただし屋敷に入ると、ほぼ必ず死神の襲撃を受けるだろう。奴の出現には法則がある。おそらく俺と一緒に入れば、死神は確実に現れるはずだ。その時、時間稼ぎをするために俺が迎撃に打って出る」
「仙道が?」
「正直に言うと、うまく止められる自信はない。だからといって、二人に囮を買って出てもらうわけにもいかない。だからこそ協力を頼みたいんだ。死神が現れて俺が注意を引きつけている間、君たち二人に、この屋敷の全焼事件の謎を解き明かしてもらいたい」
それは意外な要望だった。えもいわれぬ大役を任され、足場が定まらない孤立感に苛まれる。
「……私たちに、できるかな」
「頼む。その間は、俺が命を賭けて、必ず君たちを守ってみせる」
そんな恥ずかしい台詞を、突然臆面もなく言い放つので、私はつい苦笑してしまった。
「仙道は、このどさくさに紛れて、私たちを口説くつもりか?」
「うん? どういう意味だ?」
「さっきのような台詞は、神崎に対して言ってやれという意味だ。お前は、自分の発言が持つ想像以上の影響力に気づいていない。それではいずれ、あらぬ誤解を招いてしまうぞ」
「……誤解はともかく、そこでなぜ茜の名前が出てくるんだ?」
「――、は?」
私と仙道は、互いに首をかしげて見つめ合った。
まさかこの男、本当に何も気づいていないのか?
「……一つ訊くが、仙道は神崎のことをどう思っている?」
「幼馴染だ。多少お人好しのきらいはあるが、茜のことは信頼している」
「つまり、信頼以上の感情はないと?」
「……答える義務はないな」
「妙なところで子供だな。否定もしないのか?」
「それとこれとは話が違う」
つい、私は苦笑した。それを見たせいか、仙道が露骨に苛立った顔をする。そう複雑に考えないで、もっと竹を割ったように感情を表に出してやれば、へんてこりんな不器用も卒業できるだろうに。
「とにかく、今は屋敷の謎を解き明かすのが最優先だ。まず重点的に調べるべき箇所は、岩倉道成とその娘の葉子の居室。そこで写真や日記がなければ、後はもう手当たり次第に他の部屋を探し、なんらかの手がかりを見つけるしかない」
「日記?」
二階の小座敷で、神崎が紙の書物を手に取っていたことを思い出す。そのことを清水も考えたのだろう、私の服の袖を引っ張って上目遣いで顔を覗き込んでくる。
私はしっかりと頷いた。
「仙道、二階だ。神崎はそこで書物を手に取って、何かを怪しんでいた」
「茜が勘で怪しむなら、それがなんであれ必ず何かの正鵠を射ている。調べておいて損はないだろう」
仙道に続き、私たちも屋敷の門を踏み越える。
その時、握り返してくる清水の手が温かいと、私は思った。




