35
心なしか室内の気温が下がった気がした。きっと実際に、私たちの体感温度が下がっているのだろう。いつの間にか、私たちが吐く息が白く染まって霧散している。清水の手が震えて、私は決して手放さないように強く握り返した。
眼の前で、人間と人外が、真っ向から対峙している。
私たちを守るように入口に立つ神崎と。
私たちを殺すように廊下を塞ぐ死神が。
互いに一触即発の空気を取り巻いて、気の抜けない相手の出方を窺っていた。不用意に声をかけることも憚られる、けれど生きた心地のしない緊褌一番の張り詰めた緊張感。
水泳大会の時、笛を吹く前に客席から飛び交う邪魔な声援の心持ちがわかった。あれは選手のためだけでなく、試合の緊張に押し潰されないために、自分自身をも鼓舞せんと無心に張り上げているものなのだと。
先に動いたのは死神のほうだった。骨だけの片手で巨大な鎌を軽々と振り払い、入口の壁をもすり抜けて、横一文字に空間を薙ぎ払う。
しかし神崎は、左手だけで大鎌の刃先を掴み、死神の攻撃手段をたわいもなく封じ込めた。そして豪快な右ストレートで頭部を粉砕し、悪霊が溶けるように廊下の壁の向こう側へと消えていく。
「や、やったか!」
「その、はずなんだけど……」
神崎はなぜか不機嫌な顔をしていた。どこか気に食わないといった表情だ。あまりにも死神が呆気なくて、拍子抜けしたのだろうか。
だが次の瞬間、ひっ、と私は悲鳴を上げてしまった。首筋に冷たい息吹が当たり、反射的に声が出てしまったのだ。清水と同時に振り返ると、壁の向こう側から神崎に倒されたはずの死神が、そのおそろしい白骨の頭部を突き出している。
逃げようとした私の顎が、死神の左手に掴まれる。白く冷たい、氷のような骨の指先。
そして右手で振り上げられる巨大な鎌が、その鋭利な切っ先を鈍く光らせて翻った。口から刃を入れられて下腹部ごと切り裂かれる、むごたらしい死のイメージが脳裏に叩きつけられる。
大鎌が消えた。しかし私と清水の間から細い腕が伸びていて、今まさに私の眉間に突き刺さらんとする鎌の切っ先を受け止めていた。その細い腕が大鎌を引っ張り、死神を引きずり出して骨の頭に掌底を打つ。
砕け散る死神の頭蓋骨。
あまりの恐怖で腰が抜けたのか、清水がその場にへたり込んだ。私たちを助けてくれた細い腕の主は、やはり神崎だった。
「た、倒したんじゃなかったのか?」
「うーん……。手応えは、あるんだけどなあ」
と、またもや恐怖の表情を浮かべる清水が、私にすがりついた。座り込んだ彼女の左の足首を、あの白骨の左手が掴んでいるのだ。そして黒のフードをかぶった骸骨の頭が、床から浮き上がるように現れ始める。
ただし、今度は神崎の反応も早かった。死神の頭部を床下へと押し戻すように腕を突き出し、当然とばかりに床を突き破り、一瞬だけ身震いする。きっと奴の頭を握り潰したのだろう。神崎が床から腕を抜き戻した時、冷気が遠ざかっていくのが実感できた。
「あいつ、不死身なのか!」
「とにかく一旦屋敷を出よう。どこから襲ってくるのかわからないから、分が悪すぎる!」
神崎が、ついに泣き出し始めた清水を背負った。
「しかし、まだ三嶋が見つかっていない!」
「大丈夫! 三嶋さんはまだ生きてるから、今はあたしを信じて!」
「なぜそんなことがわかる!」
「あたしの勘は外れたことがないから!」
めちゃくちゃな論理だ。信じろというほうが無茶な話だが、それでも彼女の紫がかった真剣な瞳で見つめられると、反論する気も失せてくる。
神崎茜は、そういう不思議な魅力を持っていた。そばにいると根拠もなく妙な安心感に包まれる、温かい気持ちにさせてくれる子なのだ。だから三嶋も清水も彼女のことが好きだし、私だってその例外ではない。
それに何より、神崎は三度も私たちを救ってくれた――。
死神が、不気味すぎる白骨の顔を入口から覗かせる。その頭部を神崎が蹴飛ばして先に進み、私が後に続いた。清水は振り落とされないように必死に神崎の背中にしがみついている――というより、おそろしい悪霊を見ないようにしていると言ったほうが適切か。
清水の本能は正しい。私たちはあまりに無力だ。あんな骨と靄と鎌だけの怪物を相手にして場当たり的に渡り合えるのは、きっと神崎のように特殊な人間だけだろう。やや紫に変化していたあの眼が、その証に違いない。私たち三人は超能力者ではないのだ。
一目散に屋敷の敷地外へと抜け出した。例の悪霊は、どうやら玄関の沓脱までしか移動できないらしく、やがて音もなく姿を消していく。侵入者がいなくなったので、その存在目的も消失したのだろう。
つまり死神は、敷地内というよりも屋敷の屋内に入ると現れるのかもしれない。それを神崎に伝えると、何か考え込むように眼を伏せて清水をおろす。
「……渋沢さん、一つ頼まれてもいい?」
「うん? なんだ、改まって」
「彰に電話して、この屋敷を調べるように伝えてほしいの。そしてできれば、二人で彰の手助けもしてほしい」
唐突すぎて、話が呑み込めなかった。なぜ急に仙道の名前が出てくるのか。
「手助けって、お前はどうするんだ」
「あたしは屋敷に残る。三嶋さんは死神に捕まっているから、たぶん、あたしじゃないと助け出せないかもしれない」
「バカな、危険すぎる! もっとよく考えてからのほうが――」
「三嶋さん、今こうしている間にもすごく苦しんでる。だから早く助けてあげたいけど、それと同じくらい、この屋敷の秘密もすぐに解いてしまったほうがいい気がするの。死神といい、屋敷といい、全体的にどうしても不自然が拭えないし……。それに二階に置いてあったあの書物、あれはもしかして」
神崎が再び門をくぐる。私はすかさず呼び止めたが、彼女はもう沓脱まで入っていた。
「彰に伝言、よろしくね!」
バカ、と私が叫ぶ前に、彼女は玄関の引き戸を閉めていた。追いかけたい気持ちも山々だが、あの死神が出てくるのでは足手まといになるだけだし、何より清水をこの場に置き去りにするわけにもいかない。
「清水、大丈夫か?」
清水は顔色が悪く、生垣を背中にして座っていた。もう泣き止んでいるようだが、心を落ち着けるのにはまだ時間がかかるのだろう。
無理に立たせて体調を悪化させるのも良くないので、私はこの場で携帯を使い、仙道を呼び出すことにした。幸い、携帯番号は夏の旅行時にすでに全員と交換している。ああ、ついでに水を持ってきてもらうのもいいかもしれない。清水には喉を潤すものが必要だ。
連絡してから、仙道は二十分ほどで到着してくれた。たまたま西方町の駅前あたりまで足を運んでいたらしく、彼は早速ペットボトルのミネラルウォーターを清水に渡し、運動部の猛者たちも顔負けの鋭い眼を私に向けてくる。
「早速だが、詳しい話を訊こうか」
「ああ。けど、どこから話せばいいかな」
「では質問に答えてくれ。君たちはなぜここに?」
「神崎に頼まれたんだ。西方町にある『曰く付きの屋敷』に案内してほしいとね」
「茜はなぜ、そんなことを?」
「黒木先輩が死亡した現場が、この屋敷だからだそうだ。もっとも、彼女は先輩が『殺された』と表現していたが」
仙道は一つ頷く。どうやらこいつも、黒木先輩が他殺されたと認識しているようだ。
「茜は今どこにいる?」
「屋敷の中に戻っていった。屋敷の中にはおそろしい怪物がいるんだ。神崎はそれを『死神』だと言っていた。おまけに三嶋がそいつに捕まっていて、神崎は彼女を助け出そうとして、また屋敷に入っていったんだ」
「三嶋というのは、三嶋彩乃さんのことか」
「そうさ。私たちの友達だ。おさげが特徴で、夏の旅行でも一緒だったろう? 大和撫子を地でいく良い子なんだ。だからなんとしても助けてあげたい。けど――」
「けど?」
「神崎は、こうも言ったんだ。あの屋敷の秘密は早く解かれるべきだと。そのために仙道に、この屋敷を調べるように伝えてくれと頼まれて、こうして駆けつけてもらったというわけだ」
「屋敷の、秘密……」
眉間にしわを寄せ、彼は改めて屋敷の玄関あたりを見つめた。その眼差しで何を考えているのかは、てんで想像もつかない。
「三嶋さんについて、茜はなんと言っていた?」
「さっきも言ったが、三嶋は死神に捕まっているらしい。それで、たぶん自分でなければ助けられないと言い放っていたが」
「そうか。茜がついているなら、彼女のことは問題ないな」
仙道が私に向き直る。その刃物みたいな眼に射抜かれて、少しどきっとした。
こいつ、夏休みの時とはまるで雰囲気が違っている。私たちとは何かが違う。
「連絡をありがとう。ここから先は俺が受け継ぐ。顔色の悪い清水さんを連れて、どこか安全に休める場所まで移動したほうがいい」
「生憎、そうはいかないね。こっちはもう一つの頼まれ事を神崎から引き受けてるんだ。仙道彰の手伝いをしてほしいってね」
「言葉を返すようで悪いが、優先順位が間違っている。まずは清水さんの体調を回復させることが最優先だ。死神とやらの毒気にやられて、彼女は精神的に参っている。そのうえ無理を重ねて調査に付き合わせると、さらに具合が悪化することになりかねない。それは三嶋さんも望まないはずだ」
「清水の体調を考慮してくれる点については感謝するよ。でもね、これと蚊帳の外に置かれるのは話が別さ。別に正義の味方を気取りたいわけじゃない。ずっと友達だった三嶋の無事が確認できるまで、私は意地でも逃げないつもりだ」
「しかし清水さんを一人にするわけにもいかない。だったら、まずは気心の知れた人物が、彼女を安全なところまで送り届けるべきでは――」
そこで唐突に仙道の言葉を遮ったのは、清水だった。彼女は仙道の足の裾を掴み、首を横に振って意思を示した。その顔色は少しずつだが、元の血色を取り戻しつつある。
「清水だって、何もしないまま三嶋のそばから離れたくないんだ。仙道、わかってくれ。これは私たち三人の友情の問題なんだ。決して迷惑はかけない」
仙道は眉をしかめる。私たちが指示に逆らったのがそんなに癇に障ったかとも思ったが、どうやら別のことを考えているらしい。腕時計で時間を気にしているあたり、切り替えの早い男だ。
「これから一時間で調べる。そこで、渋沢さんと清水さんに協力を仰ぎたい」
「なんなりと」
「お二人に協力してもらうのは、聞き込みだ。肝心なのは三点で、屋敷がいつから建っていたか、出入りする人間を見たことはあるか、見たなら人数人相を特に詳しく。それから屋敷にまつわる情報なら、どんなに些細なことでも構わない」
「建築した日時と関係者の目撃情報、その他なんでも、だな」
「その間、俺は別方面で調べを進めていく。本当なら法務局を使いたいが、週末は休みでどうしようもない。待ち合わせは十五時三十分、場所はここで落ち合おう」
携帯電話で時間を確認すると、本当に一時間きっかりを指定していた。
「わかった。無駄足は踏んでいられないな」
「最低二十軒は回ってくれ。情報は多ければ多いほど参考にできる」
「ま、待て! 二十軒だと? 一軒につき三分しかない。それは無茶だ!」
「できるできないの問題じゃない。やるかやらないかを行動で見せてくれ」
それだけを言うと、仙道は一秒も惜しいと言わんばかりにiPhoneを取り出し、駅前の方角へと歩いて通話し始めた。勝手な言い草をしてくれるものだが、他に頼れる男がいないのも事実だ。
「清水、私たちは走るぞ。私が話を伺うから、お前はメモを頼む」
まずは屋敷周辺に住居を構えている家々からだ。サディズムな同級生が指示した刻限はあまりに短い。清水の息は、二十分後には早々に上がってしまっていた。




