31
眉間と銃弾との間に、神風の右の掌があった。国雄の額に触れたのは、祖霊の手の甲であったのだ。コンマ以下の秒単位で生死を分けたその反応速度が、彼の窮地を救っている。
逆に不意をつかれたのは相手のほうだった。神風は国雄を守ると同時に左腕を伸ばし、拳銃を持つ敵の右手首を掴んで強引に照準をずらしている。そして引き金が引かれた。ぷしゅ、という妙な銃声がすぐさま虚空に消えていく。
相手はさすがに戸惑い、その眉目をしかめた。無論このままで終わる神風ではない。防御のための右手を固め、裏拳の要領で、床をこするが如き超低空から敵の腹部をめがけて突き上げる。
しかし破壊したのは、胃でも腎臓でも肋骨でもなく、相手が左手に持っていた大きな銃身だった。おそらくこれが狙撃銃だろう。一体どのような第六感が働いたのか、相手は拳銃が無力化されたことを悟ると、たちまち狙撃銃で自分の胴体部を保護する体勢をとったのだ。ただしその代わり、狙撃銃はあっさり捨てられるほど砕け散っている。
追撃は可能だった。
神風の左手はまだ相手の右手首を掴んでいる。
だが敵は、折り畳み式のナイフを隠し持っていた。アイボリー色のウィンドブレーカー、そのフードから器用に刃のみを左の指先で掴み取る。
ためらう時間すら惜しんだ。神風の左手を国雄に回し、その体を背後に押して数センチ程度の離脱を試みる。それと同時に、相手がナイフを投擲した。金属音が弾けて、体勢を崩す国雄の喉元のあたりを高速回転する刃が擦過する。しかし、文字どおりのかすり傷。
右手の拘束が解かれて自由になった相手は、牽制とも必殺ともとれる発砲を二度ほど励行して、鉄骨から外側の虚空へと飛び降りた。弾は全て神風が防いだが、このやりとりで、敵はこちらの『能力』の秘密をある程度推察できただろう。
かつて仙道彰は、自身の体の一部を掴んだ神風の眼に見えない掌の感触で、その正体が『守護霊』のような人型だと推理したのだ。ならば彼にできて、気配が完全に消えていく死神とやらにできない道理はない。
途端、国雄が膝をついた。体中がたっぷりと汗をかいている。今の攻防戦で生きているのが不思議なくらいだが、状況はさらに逼迫していた。
手の甲を向け、手首を返す形で投げられたナイフは、真正面から国雄の背後に迂回して喉元の皮一枚を切り裂いた。直線運動だったものが、おそらくは床面を反射材にして跳ね返り、回転する刃となって進行方向を変えてきたのである。もしも直前に、神風を使ってその場を離れていなければ、間違いなく首筋の頸動脈を断ち切られていただろう。
それは相手が、この世の物理法則に忠実に従ってなお、ある程度の軌道操作を、咄嗟に精確に実行してのける技量の持ち主だということを意味している。それに缶飲料が破裂してから、まばたきほどもない短時間のうちに鉄骨上に現れたあの不可解な登場は、明らかに常識的な運動能力を無視していた。まるで時間でも止めたような神出鬼没。それを改めて思い出すだけでも、再び背筋が凍りつく感覚に襲われる。
「国雄、大丈夫か!」
声の主はアシュレイだった。国雄が歩いてきた方角から現れ、負傷の具合を一瞥すると、心底安堵した笑みを浮かべる。
「テメェ、なんでここに」
「もちろん、君を助けるためだ」
アシュレイは放棄された狙撃銃を手に取り、少し眺めた後、やはり床に置き捨てた。
「ウルティマ・ラティオだ。消音器内蔵で、重量は約七キロ。その射程距離は確か八〇〇メートルくらいかな。ラテン語では『切り札』とも呼ばれている。製造元だけなら、ボクたちの国との因縁も垣間見える代物さ」
「見ただけで、よくわかるな」
「君が何も知らないんだよ。ボクたちにとっては刃物よりも、銃器のほうが馴染みに深い生活を送っているからね」
国雄はたまらず舌打ちした。アシュレイの気取った言動は時として鼻につく。
対する金髪の美少年は、すっかり戦闘用の鋭敏さを研ぎ澄ませて眼を細めた。
「それにしても、全く無茶をしてくれる。君が屋上から走っていった時は本当に絶望したんだから、これ以上はボクの肝を冷やさないでくれよな」
「うるせえ。オレはまだまだ戦えるぜ」
「国雄、いい加減にしろ。相手は同じ素人じゃない、世界を股にかけてきた超一流の暗殺者だ。九死に一生の幸運が、そう何度も続くと思わな――」
「やかましい! 奴はオレが直々にぶっ倒す。そうしなきゃ気が済まねえんだよ!」
図らずも、二人は睨み合いになった。互いに一歩も譲ろうとしないが、しばらくして、アシュレイのほうが眼の力を失っていく。
「……なぜだ? 君はなぜそこまでして、彼女を追いかけようとする?」
「ンなもん、許せねえからに決まってるだろうが。眼の前で簡単に人の命を奪う奴を、金で命を奪うような奴を、人として許せるわけがねえ」
「だがそれは、君が平和の土壌で生きていられるからだよ」
「それがいけねえか! ここは戦場じゃねえ! 銃器をぶっ放して、人を殺していいもんか!」
彼の眼は険しかった。アシュレイは思い詰めた眼差しで視線を逸らす。
「……仙道から伝言を預かっている。後十五分もしたら、警察の特別緊急配備が完了するはずだ。それと同時に、この工事現場にも特殊急襲部隊、通称SATが強行突入する手筈になっている。もし彼女と戦うつもりなら、ボクたちは可能な限りこの建物に釘付けさせて、時間を稼げばいい。無理に勝とうとは絶対に考えないことだ」
「警察だと? 彰が連絡したのか」
「彼の母親は現役の刑事だ。今も第一線で活躍している。君が何を誤解しているのか知らないが、これも立派な殺人事件だ。仙道はその伝手を使っただけさ。けれど正直、警察を味方につけても、彼女を逮捕できるとは思えないが」
「ふん、奴を過大評価しすぎだぜ。考えすぎも息が詰まるってもんだ」
「そういう君は、相手を過小評価しすぎている。どんな相手でも敵ならば侮るなと教えてくれたのは、他ならない君との戦いだったはずじゃないか」
今度はアシュレイも譲らなかった。一から十まで指摘する母親みたいな奴だと思ったが、それを口にすれば小言がさらに増えるだろう。
結局、根負けしたのは国雄のほうだった。それに味方の存在が、自身の気圧されていた心理的な余裕を取り戻したことも事実である。どのみち、日没までになんとかしなければ勝てない戦いだ。警察をも利用する彰の戦術は決して間違えてはいない。
「参考までに訊くがよ。もし奴と戦うなら、テメェならどうするよ」
「決まっている。まずは隠れている敵の位置を探り出す」
アシュレイの金髪が逆立ち始める。その足許から床面が凍りつき、六階、五階、と階層を問わずに凍結が広がっていく。
またたく間に氷が張っていくのだ。かつて白色の森へと変えたあの冷気が、今度は躯体工事中の建物全域に張り巡らされようとしている。
「国雄も知ってのとおり、ボクの能力は『凍結』を基礎にしている。だからこうして氷の膜を張っておけば、その表面に接触している『熱』を感知することができる――」
その時、不自然に言葉が切られた。アシュレイの表情は唖然として、次の瞬間には眼の色を変えて周囲の床面を見回していく。
やがて彼が手にしたのは、一枚の五百円硬貨だった。すでに冷気に覆われた鉄骨の上に落ちていた物だ。そしてそこは敵の暗殺者が、二度の射撃がてらに飛び降りた場所でもある。
「五百円か。お前も案外、金にめざといんだな」
しかしアシュレイは何も言わずに硬貨をかち割った。国雄が声を上げる暇もなかった。その硬貨の中にはびっしりと細かな回路とチップが埋め込まれており、アシュレイは今度こそ掌の中で完全に凍結させる。
「盗聴器だ。凍結のタイミングから言って、警察が介入する話は筒抜けだっただろうね。しかもボクたちが彼女の正体を知っていて、二人とも能力者だと見抜いたはずだ」
「……それ、盗聴器、なのか」
「この程度で驚かないでよ。ボクたちが何を賭けて戦っていると思うんだ。たった一つの命で生き延びるためなら、あらゆる技術を駆使して出し抜くさ」
言い終えると、アシュレイは臭いを嗅ぎつけた猟犬のように顎を上げた。そして地上を覗き見やるので、国雄もまた横に並んでそれを倣う。
「見ろ。奴が逃げていく」
アイボリー・ウィンドブレーカーを着た人型が、工事現場の敷地外に出ていこうとしていた。安全第一と書かれたフェンスシートに囲まれる敷地の中で、蛇腹をした出入口までの障害物は何もない。仕切り直しで、今はとりあえず脱出を優先したのだろうか。
だが蛇腹が動いたのは、敵が手をかけたからではなかった。歩道側から現場の敷地内に入り込んでくる誰か――その人物は東高の制服を着ていた――が出入口を開け、お互いに一瞬とも永遠ともつかぬ邂逅の果てに見つめ合う。
真っ先に動いたのは、制服を着た何者かのほうだった。驚くほど素早い動作でズボンのポケットから拳銃を取り出し、その銃口をためらうことなく相手に向けて発砲する。
だが何が起きたのか、アイボリー・ウィンドブレーカーは出入口から相当離れた敷地の内側に避難していた。瞬間移動さながらの、移動の気配が全く伝わらない不可解な動き。そして爆発――国雄の眼を覚ますような炎と煙。その原因不明の爆心地は、出入口にいた東高の制服を着た何者かであった。
「彰ッ!」
国雄が叫ぶ。遠目からでも、彼が親友だろうことはすぐにわかった。その親友が爆発に巻き込まれ、粉塵と煙の中にいる。まさか死んだのか――そんな国雄の不安を一蹴するかのように、黒煙の中から仙道彰が現れた。何事もなかったように相手に向かって発砲し、敵からの銃弾が命中しても彼の体に弾かれるでたらめさ。
やがて見切りをつけ、アイボリー・ウィンドブレーカーは工事中の建物の屋内へと移動した。お互いにどこも負傷した様子がなかった。彰が周囲を観察すると、おもむろに携帯電話を取り出してそれを耳に押し当てる。
ほどなくして、国雄の携帯が着信を知らせて震え始めた。
「彰! お前、大丈夫なのか!」
「問題ない。それより、お前のそばにアシュレイはいるか」
「あ、ああ。けどそれより――」
「替わってくれ。三人で奴を追い詰める」
他にも質問はいくらでも湧いて出てきた。拳銃と発砲、へたをすれば殺人にもなるのに躊躇なく、どうして平静でいられるのか。そもそも拳銃は玩具なのか、それとも実弾をも装填した本物か。
だが国雄は質問できなかった。携帯をアシュレイに渡して、眼を背けてしまった。今が緊急を要する状況だから、というのもある。しかしそれ以上に、真実を訊くのが怖いとも感じていた。彼が思い浮かべていた仙道彰という人物像がどんどん変貌して、初めて対決した当時の面影が失われていく。
やがて通話が終わったのか、アシュレイが携帯を折り畳んで国雄に返してきた。これでまた、機会を失ったなと国雄は思った。
「彼女の能力がわかった。仙道が言うには、おそらく『時間停止』らしい」
「時間、停止だと?」
「ああ。さっきの出会い頭で、仙道は確かに発砲した。いいか、発砲したんだ。その銃弾が敵に命中するまでの時間は、計算するのもバカバカしい短さになる。なのに発砲直後、アウラは自分の立ち位置から遥か後方に移動したばかりか、仙道の胸ポケットにペン型のTNT爆弾を仕掛けるといった行動まで終えている。仙道が爆発したのは、その超小型爆弾が作動したためだ。だから時間停止だと――仙道自身、あまりうまく言えないらしいが、敵は『時を止める』能力を持っていると結論付けたそうだ」
時間停止、発砲、爆弾――国雄の頭の中で、非常識な符合ばかりがぐるぐる回る。
「よくわからねえが、敵の能力が『時間停止』だとしたら、どうやって戦えってんだよ。そんな化物じみた奴を相手にして、オレたちは勝てんのか」
「君は、ついさっきボクが言ったことを早速忘れているようだね。ここにはすでに警察を呼び寄せているんだから、無理に勝つ必要はないんだ。戦うにしても時間稼ぎに徹して、後は全て警察に任せればいい。アウラの目標はあくまでナビだ。もう仕事の終わっている国に居残る必要は、彼女としても不本意のはずだよ」
「けどよ。時間稼ぎするにしても、一体どうやって――」
「アウラの能力だけど、たぶん仙道と同じで、ごく短い時間の中でしか使えないと思う。そして休息時間も必要なんだろう。そこでボクの能力が活躍する」
「アシュレイの?」
「ボクなら、常に身の回りの空気を凍らせて防御壁を作ることができる。これでアウラの銃弾を防ぐことができ、無茶な接近にも耐えられるはずだ。だから彼女を追い詰めるのは、ボクと国雄の役目だ。仙道はその間、彼女の脱出経路を全て塞ぐつもりでいるらしい」
「あいつが、そんなことを……」
不思議なものだが、親友がそういうからには、この戦いも計画どおりに事が運ぶような気持ちになってくる。彼を疑っていたはずなのに、気がつけば信頼している矛盾が、国雄には痛烈な皮肉に思えてならない。
情けなさで自分自身に呆れてしまう。そもそもこの戦い、国雄の感情論から端を発した対決であるにもかかわらず、アシュレイも親友も、相手が超人的な暗殺者だと知りながらも迅速に駆けつけ、最善を尽くそうと命を賭けてくれているではないか。
その在り方――敵味方をはっきりと区別するわだかまりのない行動こそ、まさに不動の友情の証明に他ならない。
「屋内、アウラは一階で移動を止めたぞ。三階まで吹き抜けになっている広大なフロアだ。ボクたちもそこに行こう」
二人はすぐさま駆け出した。まずは屋上の階段を使い、素早く階層を下りていく。
「……なァ、今更だろうが、お前は一体何者なんだ?」
七月、あの洋館で戦った後、二人は仙道彰とともに総合病院に移送された。その病室で編入の経緯――狐憑きと呼ばれる殺人鬼の再来――については教えてもらったが、肝心の姉弟の素性についてはまだ何も知らないでいる。
もう黙ってはいられないか、とアシュレイが呟いた。
「ボクはスパイ見習いといったところかな。まだまだ経験が不足しているから、補助員の任務しか与えられたことがないけどね」
「アステリアもか」
「姉様は外務省付きだ。とっくに大学を卒業していて、現在は駐日英国大使館の大使秘書官として来日している。もちろん東高への編入は、あくまで大使秘書官としての職務上で在籍しているにすぎない。……という無茶をまかり通している」
十五歳にしてすでに大学を卒業という業績がどれほどのものかは想像が難しかったが、やはり相当優秀なのだろう。その大学など、訊かずとも世界屈指の名門に違いない。
「末恐ろしい女だな、あいつは」
「本当は、もっと経験を積んでから来日するつもりだったんだ。非公式ながら、近代五種競技の記録は世界記録を日ごとに更新していたからね。でも狐憑きの一件で、以前から親交の深かった全権大使に自分を売り込んで、大急ぎで日本への切符を入手したわけさ。王女殿下とは一時期それで対立したけれど、女王陛下の口添えでなんとか許しを得て、ようやく身支度を整えることができたんだ」
「――で、あの女の正体はなんだよ」
「もう気づいているだろう? 姉様は現イギリス女王陛下の、初めての孫娘なんだ。その誕生は国を挙げて『未来ある光』として祝福された。そして母上が、現プリンセス・ロイヤル殿下にあたる。つまり姉様は、直系の王族というわけだ」
「……じゃあ、アシュレイとは」
「異母姉弟。ボクの実母は、王女殿下と結婚する前から父の恋人だったはずだった。……実際は、ただの愛人だったんだけどね」
その真実を知らされて、一体どれほどの愛憎が生まれたのだろうか。彼の過去を知っている国雄は、今のアシュレイが、さまざまな修羅場を乗り越えて成長してきた男なのだということを、改めて思い知らされた気がした。
四階から三階へと下りる前に、アシュレイが立ち止まった。周囲の空気を瞬間冷凍して小さな氷を無数に生み出し、いつでも対応できるように臨戦態勢を整えている。
「どうする? ボクが先頭を行くか、それとも国雄が前に出るか」
だが彼は応えなかった。アシュレイは不審に眉をしかめ、たまらず振り返る。
「国雄?」
「……どいつもこいつも、カッコ良すぎるだろ」
「は?」
国雄は突然、アシュレイの頭の上に掌を乗せた。それで彼はひどく赤面して困惑したが、国雄は構わずぐりぐりと掴み回して笑みを浮かべる。
「ありがとな。オレもなんか、吹っ切れた気がするぜ。あのクソ親父、首を洗って待っていやがれってな具合にな」
「き、君は何を言ってるんだ! それより頭、髪が痛い!」
「オレが前に行くぜ。神風よりお前の能力のほうが、死角からの攻撃に対処しやすいだろ」
頭から手を放すと、アシュレイは乱れきった髪の毛を無造作に整え始めた。まだ羞恥を覚えているのか、彼の怒った顔もまた国雄にはたまらなく愉快に映る。
「君は本当に野蛮人だ。勝手に敵に突撃して、潔く死んでしまえ」
「ふん。お前、じつは良い奴だろ。他人の心配ばっかしやがって」
「だ、だだ、誰が君の心配なんかするもんか!」
「はいはい、そういうことにしておいてやるよ」
なだめるように彼の肩に手を置いて、国雄は踊り場から三階へと下りていく。不満そうに鼻息を荒くするアシュレイは、しかしぴったりとその背後に付き従っていた。
「奴はどこだ」
「百メートル先だ。吹き抜けを挟み、右斜め前方に待ち伏せしているぞ」
「ここで決着をつけてやるぜ。アシュレイ、背中は任せたぞ」
「ふん、言われなくても守ってやる」
国雄が先んじて階段を駆け出し、アシュレイが同じように後に続く。三階の通路に出た途端、驚くほど広い空間に息を呑んだ。バカ、とすかさずアシュレイに押し倒される。
国雄が突っ立っていた場所を繋ぐ、延長線上の天井の鉄骨に銃弾が弾かれたのは、その直後だった。




