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狙撃だ、と誰かが叫んだ。おそらくアシュレイだろう。彼は無防備な国雄の背後へと素早く回り込み、何事かをたしなめるように叫んでいる。
しかし国雄は反応できなかった。彼の眼の焦点は、唐突に背中から倒れていくナビに注がれている。
まるで時間でも遅くさせられたような光景だった。そして彼女の体が床に倒れてから、世界はようやく正常な時間の流れを取り戻した。額のど真ん中に穿たれた黒い穴。そこと首のうなじあたりから、じわりじわりと真っ赤な血が溢れ出してくる。
すかさず仙道彰が駆け寄った。しかし彼女はとっくに事切れていた。見開いた眼は虚ろで精気がなく、呼吸による胸部の動きも認められない。親友が抱き起こしても無反応だ。それが人の死なのだと、本多国雄は今更ながらに思い知る。
――私は三人目の教師。だけどそれもすぐに終わる。その時こそ、あなたたちもやっと実感できるはず。どれだけ現実離れしていても、これが現実なんだってね。
まだ信じられなかった。眼の前で起きた出来事があまりに浮世離れしすぎていて、思考の混乱に歯止めが利かない。むしろ誰一人として逃げ回らないほうが不思議なくらいだ。驚きのあまり声も出ない。宙をさまよい始めた視線が、吸い寄せられるように仙道彰へと向けられる。
だから国雄は心の中で毒づいた。
なァ彰、お前はどうしてそこまで冷静に、死体に触れられるんだ――?
「……ぃお。――おい、聞いているのか、国雄!」
アシュレイの呼びかけは最後、頬を打つという強引なものだった。しかしそれで国雄も、ようやく放心状態から我に返ることができた。たなびく金色の髪、緑色に澄んだ瞳が、下から覗くようにこちらを見つめている。
「ボクのことがわかるか?」
「あ、ああ……」
「今、第二撃への対処法として氷の壁を作った。かなり厚く作ってあるからもう安全だ。それより彼女の銃創を見たか? 単三電池並の大きさだ。つまり三〇口径クラスの弾丸が使われている。しかも後頭部の出血は首筋からだ。これがどういうことかわかるか? 敵はボクたちよりも高い位置、より遠距離から狙撃したということになる。国雄、あそこを見ろ」
アシュレイが指差した方角には、駅前のショッピングモールを建設中の躯体工事現場が、真っ白い防音シートを全面に覆いかぶせてある状態で鎮座していた。まだ工事途中なのは以前から知っていたが、その高さは、北側半分のみが約六階に差しかかるかどうかという進捗状況である。
「公然と姿を隠したままで銃を構えていられる最良の狙撃地点は、あの工事現場以外には他にない。だけど、あそこまでの距離は優に七百メートル近く離れている。敵はその超遠距離から一撃で狙撃してみせたんだ。それがどんな神業か君にわかるか? ここの屋上を囲んでいる金網越しの狙撃なんて、普通なら誰も考えないぞ」
「……だったら、どうだってんだ」
「敵の正体は間違いなく、あのアウラ・ミラ・ファウストラップってことさ。つまり敵は、不可能を可能にする死神だってこと。けれど不幸中の幸いだね。彼女の標的は、どうやらナビ一人だけのようだ。そうでなければ、ボクが氷の壁を作れないほどの速さで、第二撃のトリガーを引いているはずだから」
「……不幸中の、幸いだと?」
「問題は、もう一人の暗殺者だな。こっちはボクたちが調べておこう。雇った片方があの死神なら、もう片方だって超が付く一流のはず――」
アシュレイが言い終える前に、国雄は飛び出していた。氷の壁を『神風』で粉砕して、迷わず例の工事現場が見える方角の金網へと近づいていく。
「国雄、何をするつもりだ!」
「あそこまで突っ走る! アシュレイ、道を作りやがれ!」
「ば、バカか君は! ボクが何を説明したか、全然わかってない!」
「わかってるさ! あそこに隠れてる奴が人殺しのクズだってことぐらい、このオレにだってなァ!」
あるのは、怒りだった。
簡単に人の命が奪われ、しかもそれが眼の前で行われた。未然に防ぐ余地など、米粒の誤差程度の奇蹟もなかったが、ただ報酬のある依頼を受けたというだけで殺人をあっさり実行してのける相手が眼と鼻の先にいて、そいつを野放しにしてしまうという今の状況を呆然と見逃していられるほど、本多国雄は聞き分けのいい優等生ではない。
天下三名槍を使うまでもなく、神風の両腕だけで金網を引き裂き、虚空への視界を切り開く。地上五階の高さ、しかし国雄の決意を鈍らせるには至らない。
「この――、国雄のわからず屋ッ!」
空中の七百メートル走さながらの全力疾走が始まった。アシュレイが絶妙の呼吸で氷の道を作り、神風を楯にしながら国雄がひた走る。眼下に広がる女子側のグラウンド、さらに校内の敷地を抜け、市街地の上空を駆け抜ける。
しかし、いかに直線距離でも、七百メートルは思っていた以上に長かった。国雄の持つ体力測定の百メートル走の記録は十二秒台だが、だからといって七百メートルを二分台で走れるはずもない。
加えて、やや傾斜のある透明の坂道という不安定な足場が、体力と精神の消耗を激しくしていた。おまけに空中の突風もまた、走り抜けようとする国雄の平衡感覚をことごとく突き崩そうとする。
ただし、もし万が一、この生きた心地のしない氷路を踏み外したとしても、それは己の不注意のせいだと国雄は心構えている。氷が滑りやすいのは、あくまでその表面に水膜ができるからであって、完全に凍結した氷そのものは滑走しにくいのだ。いかに残暑だとはいえ、優れた制御能力を持つアシュレイの精度が劣るとは思わない。
そして――精度の優劣といえば当然、忘れてはならない敵がいる。
三百メートルほど走った頃、ディスクを踏み割ったような音が眼の前で弾けた。それで一瞬ばかり国雄の体にも緊張が走ったが、すぐさま気合いを入れ直して足を動かした。
例の狙撃に違いなかった。続けて第二射が神風に命中した音も弾けたが、やはりその無敵を打ち破ることはできない。そして無敵の神風を信頼する国雄の独走を止めることもまた、できない。
むしろ、俄然気力がみなぎるというものだ。こちらがどれほど本気で、しかも得体の知れない正体不明なのかを、相手に思い知らせてやることができる。
だから相手にはもっと、ずっと必要以上の警戒心を抱いてもらう必要がある。本多国雄を放っては逃げられないことを敵に――死神と呼ばれる暗殺者、アウラ・ミラ・ファウストラップとやらに知らしめてやらねばならない。
だが、さすがというべきか。たった二射だけで、相手は真正面からの直線射撃では効果がないと見切りをつけたらしい。一見すると無防備なのに狙撃が命中しないのだ。おそらく、こちらが能力者であることも嗅ぎつけただろう。暗殺者などという商売で生きている相手だ、まさか『能力』そのものを知らないはずはない。
それに逆に、国雄もまた相手の限界を推し量ることができる。暗殺者とやらが能力者かどうかは不明だが、超常的に弾道を曲げて相手に命中させることはできないらしい。本多国雄に勝機があるとすれば、そこだ。百戦錬磨の経験を上回るための奇蹟はそこしかない。
もはや対空精密射撃の危険性がなくなった、氷の空中回廊を突き進む。
ぶ厚いシートをくぐり、躯体工事中の建物の外側に据えた足場に立つ。
物音一つしない、異常に静まり返った建築現場だった。建方工事で、鉄骨の組み立てに終始した進捗状況。それも国雄が走ってきた南側からは、まだ二階までしか立ち上がりが進んでいない様子だった。がらんとした内部は、今日が作業日でないからか、余計に空虚な佇まいを印象付けている。シートの隙間から差し込む空の夕焼けが、さらに孤独な陰影を強調させてその内部を浮かび上がらせた。
「勝負は日没までか。暗すぎると身動きとれねえな、こいつはよォ」
足場は頑強で、少なくとも今立っている北側六階の床面はしっかり整えられているようだ。立ち回りの際に不注意の落下を招くことはなさそうだが、見渡す限り、障害物となりうるものが剥き出しの鉄骨しかないというのが心細い。接近戦なら負ける気はしないが、今回の敵は、間合いをとりつつ一方的に攻撃できる銃弾で勝負してくるだろう。その時、いかに『神風』とはいえ、弾丸の速度に反応できるかどうかは運次第だ。
各階を移動できる階段は、どうやら片隅に備え付けてあるらしい。それを使って一旦は屋上までのぼり、北側の地上を覗き込むと、かなりの敷地面積を占有している現場だということが一望できる。
おそらく全体で、東京ドーム一個分ほどの敷地面積だと国雄は推測した。駅前の眺望がすこぶる粋が良い。そういえば国内外のアウトレットをかき集める巨大モールになる、というのがこの建物の完成予想図なのだったか。その意気込みのいい触れ込みは誇大広告に成り下がることなく、完成後の駅前の喧騒をさらに賑やかなものへと発展させるだろう。
そこまで思案して、いやいや、と国雄は己を戒めた。何を考えているのだ。屋上に敵の姿がなかったからといって、まだ安全が確認できたわけではない。とっくに下の階層で身を隠したか、あるいは敵がとうに逃げ出していたとしても、それを確かめるまでは簡単に気を逸らすべきではないのだ。
ここにきて『神風』を出し惜しみする余裕はなかった。常に背面に張り付かせ、どんな初動でもすぐさま実行できるように心支度も済ませておく。
わずかな空気の乱れでさえ、針の先端に触れたような錯覚をもたらすほど鋭敏に感覚を研ぎ澄ませるのだ。かつて大多数の暴走族を相手に一人で戦った時と全く同じ、然れども神経のたぎる緊張感をかつてないほど煮詰めていく。
あれはいい勉強になった。前後左右、どこから単車が突っ込んでこようと即座に反撃ができる自信を身につけた。ただし今度は銃弾が相手だ。その速度、考えるまでもなく単車より数倍は速いはず。
靴音のよく響く床面を一歩ずつ進むたびに、蒸した汗が腋の下を流れる。
夏が翳ろうとする熱気が、背中をちりちりと焼く殺気と溶け合っていた。
斬首刑の前で首を垂れる罪人の如くに、タワークレーンがそびえている。
焼ける空。
暮れる影。
群れる音。
迂闊に気を抜くことができない。
国雄の武器は『神風』ただ一つ。
耐えがたい沈黙にはやる勇み足。
きっと、そのせいだ。
五階へとおりる屋上の階段に近づく途中、靴先に何かが当たって冷や汗が流れたのは。
きっと、そのせいだ。
靴先に当たった缶飲料が場違いながら転がっていくのを、呆然と眺めてしまったのは。
きっと、そのせいだ。
その缶飲料がなぜか破裂したのと同時に、横合いから伸びている人影に気づいたのは。
彼はすぐさま振り返る。
奴は外側の鉄骨に立っていた――今しがたまで誰もいなかったはずなのに。
奴は目深に帽子を被っている――朱い双眸と黒い銃口だけを国雄に向けて。
奴は慢心も油断もなく無表情――それがプロの生き様だと見せつけられる。
躊躇ない引き金。
息を呑んだ刹那。
眉間に走る衝撃。
その時、本多国雄は確かに死を意識した。




