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ミーが消えてしまったことは仕方がない。子猫の素早さなら、すぐに近隣住宅へと忍び込むことができるだろう。
だが女性の握手は、黒木もやや戸惑うほど長い時間をかけて交わされた。そのせいで、彼女は改めて謎の女性をまじまじと見つめる。
世間離れした和風の美女だった。豊かな黒髪は腰のあたりまで伸びており、高い頬骨に前髪がかかっている。そこから時折ちらりと覗く、左眼の尻の泣きぼくろもまた魅力的だ。そして全体的に均整のとれた肢体。その下着は一体、どのようなメーカーで愛用しているのだろうか。
「そんなに緊張しないで。何も取って食べようなんて少しも考えていないから」
女性が手を離す。指先が惜しむように臍を噛むと同時に、なぜこれほどの美人が白衣を身につけ、医者とも科学者ともつかない妙な格好で出歩いているのかが気になった。
しかし出会い頭の今は、それを口にすべきではない。
「すみません。ちょっと見知った子猫を追いかけていたものですから」
「子猫?」
「マンチカンっていう種類なんですが、体がすごく小さい、かわいい子猫なんです。赤い首輪があって、こちらに走っていったと思うんですが」
「あら、そうなの? 残念ね。この通りで私が見たのは、元気にぶつかってきた女の子だけだから」
言われて、黒木はまた顔が熱くなったのを感じた。確かに、もう高校生にもなるのに、みっともなく走り回るのは褒められた行動ではない。
「本当に、失礼しました」
頭を下げて、黒木は足早に去ろうとした。しかし女性の脇を通りすぎようとした瞬間、思わぬ符合が彼女の口から飛び出した。
「仙道彰くん、なかなか張り切ってるみたいね」
黒木の記憶はすぐさま、当人の端正な顔を思い浮かべた。いつも不機嫌そうにしかめた眼、高い鼻筋、鋼鉄のように崩れない表情。そして同時に、神崎茜のころころ変わる表情の豊かさもまた思い出していた。喜怒哀楽の激しい、対照的なほど未成熟なその顔立ち。
「その人、誰ですか?」
「とぼけなくてもいいわ。仙道彰、十五歳。父親は六歳の頃に死亡。母親は岸沢警察署に勤める刑事で、現在も少女暴行殺人事件を筆頭に活躍中。幼馴染に神崎茜という女の子がいて、あなたは彼女と知り合いの上級生。名前は黒木凛、十月に誕生日を迎えてめでたく十七歳になる。――おめでとう。あと一年もしたら自動車免許が手に入るね。彼が、仙道彰が今一番欲しいものを、あなたは先に手に入れることになる」
どう、と女性がこれみよがしに笑みを浮かべる。美人が笑うと怖くなる、という世説はあながち冗談ではなさそうだ。
「ごめんなさい。あたしは車よりもバイクに興味があるんです」
「そう。目標は大型?」
「ゆくゆくは、と考えています。でも、どのみち一年は待たないと免許が取れませんけど」
「夢のある話は嫌いじゃないよ。未来ぐらいは良いことを想像したいしね」
「なら、仙道くんの話題も、そうした夢のある話なのでしょうか」
「あの子は別格。御父上の呪いを引き継いで、例の屋敷でどんどん国際派に教育されつつある」
「国際派?」
「眼が輝いた。知りたいっていう欲求の眼、それも嫌いじゃない」
興味があるのは本当だった。神崎茜から相談されたこともある。編入生との一件以降、仙道彰は毎日のように例の山奥の屋敷に閉じこもり、夜遅くに帰ってくるのだと。しかも夏休みに入ると、仙道宅で同居を始めたらしい英国の客人三名とひたすら屋敷の中で寝泊まりして、怪しい日々を送っているのだそうだ。
生傷の絶えない体、日に日に鋭利になる眼光、そして若干の甘い香水の匂い――しかもそれは、アステリアの香水と同じ匂いだと神崎茜はぼやいていた。だから彼女も、毎日のように差し入れと称して屋敷に出入りするらしいのだが、そこで行われている仙道の奇怪な行動の特定には至っていないらしい。その彼と会えるのもわずか五分程度で、その貴重な五分が終わると、仙道のほうから敷地外への退去を約束されてしまうものだから、軽はずみな詮索もできないとの相談だった。また、屋敷の中では神崎以外、全員が英語で話していた。
そんな経緯もあって、夏休みの旅行を後押ししたのは真実、黒木凛自身である。そして殺人事件さえ発生しなければ、その旅行中に、神崎茜が抱くさまざまな不平不満を仙道彰にぶつけることができたはずなのだが。
「……仙道くんは、神崎さんに内緒で、何をしてるんです?」
「受け継ぐ者になるための訓練、かな。そのために、イギリスに永遠の忠誠を誓う老齢の退職者が、彼の教官を務めてる。MI6はご存知?」
「いえ」
「イギリスが誇る秘密情報部のことで、国外活動を任務とする軍情報部第六課とも、世界最古のスパイ組織とも呼ばれてる。老齢の教官さんはね、そこで女王陛下に無限の忠誠を誓ったの。そしてそこでの実績が認められて、彼は退職後、めでたく女王陛下の初孫さんの執事へと抜擢されたってわけ」
「……何を言ってるのか、あたしにはわかりません。それにスパイって、そんなまさか」
「だから別格だって言ったの。きっととんでもない女に見初められたせいね。彼が生きていこうとする世界は、あなたが想像もできない深部にある。血と銃弾が当たり前のように飛び交い、死体と情報に埋め尽くされた社会の裏側――常に不可能を可能にしないと生きていけない冥界のような文明の暗部に、彼は今まさに足を踏み入れようとしている」
あまりに突拍子すぎて、理解が追いつかないというのが黒木の本音だった。MI6なる英国組織、その退職者らしい老人が、まるで本物のスパイを養成するように仙道彰を教育している――?
「一体、どういうことですか?」
「残念だけど、知っておく方向性が違うわ。私が言いたいことは一つだけ。この道先に進むのは危険だということ」
黒木は前方を見据えた。やはり細長い一方通行が伸びている。
最初にミーが駆け出した四つ辻を西に曲がり、さらに南へと曲がろうとした四つ辻で、黒木は女性と衝突したわけだ。となると彼女は、何か広大な面積のある敷地の外周をぐるりと回っている構図になる。
地元、広い敷地、進むのは危険――。
「ずいぶん失礼ですね。上等な餌で引っかけておいて、お預けを食らわせるなんて」
「ごめんね、察しの悪い人は嫌いなの。命取りって言葉を知ってる? 情報を取り扱う者として、真っ先に心得ておかないといけない約束事。引き際を心得るということ」
「この道を進むと、命の危険があるとでもいうんですか」
「スパイも探偵もジャーナリストも、全ては情報の取捨選択に命を賭ける仕事よね。有益な情報をいち早く盗み出し、分析して、そうして手に入れた情報を信じて行動する。あなたはどう? 黒木凛さん。たった今手に入れた情報を、あなたならどう使う?」
この道を進むのは危険――まるで、これから起こることをあらかじめ知っているような口振りだ。しかも女性の情報は、その全てが偽物だと切り捨てることもできない正確さがある。黒木が残り二か月で誕生日を迎えるのは本当だからだ。
「……この道を進むことが危険だと、どうして知ってるんですか? どこで、どうやって、それになぜあたしに教えるんです? あなたのことを何一つ知らないのに」
「詳しいことは言えないわ。言ってしまったら、あなたも『彼』の攻撃対象になるから」
「彼?」
「今だから言えるの。ここで巡り会う運命は、本当にただの偶然。彼は誰が訪れるのかを知らないし、あなたも彼のことを知らないでいる。それが最後の命綱。あなたの――黒木凛の命運を決める、たった一つの救命措置」
女性は、黒木がついさっき走ってきた道へと歩を進めた。振り返ろうともしてくれない。
追いかければ良いのだろうか。しかし『彼』のことを知る彼女を追いかければ、それは間接的にせよ『彼』を知ろうとする行為になるのではないか。そもそも『彼』とは、仙道彰に接しているらしい老齢の退職者とはまた違う人なのか。
では引き返すべきなのか。しかしミーはなぜ、東方町から西方町へと歩いてきているのだろう。ひょっとして飼い主が近くにいるのだろうか。そしてミーを追いかけて遭遇した謎の女性。彼女はミーがいなくなったと同時に現れ、意味深長な言葉を残して立ち去ろうとしている。
「あたしは、永久に関わるなということですか!」
たまらず黒木が叫ぶ。返事はなくても、遠ざかる女性の背中が雄弁に語っていた。命が惜しければ早く立ち去り、そして全てを忘れて、これからも無干渉を貫けと。
――『大丈夫じゃないのに大丈夫だ』と嘘をつく日がやってくる。
まさにそのとおりだと思った。しかし身の危険が差し迫っているのが自分であれ他人であれ、不幸の火種が眼の前の情報の中にこそ隠されているのなら、一刻も早く厄災の芽を見つけ出すのがジャーナリストの本懐であるべきではないか。
女性の言う『彼』とはおそらく、よほどの危険人物なのだろう。その『彼』が、他人の命を簡単に奪ってしまえる存在だからこそ、女性は警告に現れたと解釈するのが自然ではないか。他人の命を奪う者――テロリスト、狂信者、殺人鬼。
地元で野放しにできるはずがない。ここは黒木凛が生まれ育った地域であり、家族もまた生活する土地である。だが第三者に事の経緯を伝えたところで、即座に一蹴されるのは眼に見えていた。とにかく彼女自身が動かなければ何も始まらない。
とりあえず、相手を刺激しない程度に下調べをする。それから誰に相談するかを決めてみよう。きっと仙道彰なら、この情報を正しく吟味して、なんとかしてくれるに違いない。
警告の一方通行に足先を向ける。また四つ辻に差しかかろうとした時、ただの風化した生垣だったはずの壁に入口の門構えが現れた。
どうして今の今まで気づかなかったのか。この入口は見覚えがあるどころか、つい数か月ほど前にも、とある能力者のせいで門をくぐったばかりだ。小学生の頃に刻まれた苦い思い出、世にもおぞましい髑髏の亡霊が潜む、かれこれ十年近くも廃れて呪われたままの謎めいた邸宅。
引き返すべきだ、と思った。しかし踵を返す直前、何者かの影が四つ辻の曲がり角から動き出す気配があった。相手は不明。だが見られたはずだ。何を。顔を。――『彼』を調べようとする者の顔。
走っていた。気がつけば追いかけていた。本来なら逃げるべきなのだろうが、こちらが何も知らず、相手だけがこちらを知っている状況はあまりに不利すぎる。いつ、どこで、どのように襲われるのか、それを為す術もなく想像して待つというのは気が狂わんばかりの恐怖だ。文字どおり、煮るなり焼くなり好きにしろと相手に伝えるようなもの。
影を逃すわけにはいかない。だが深追いもまた禁物だ。相手は入り組んだ路地へと入り、わざと陽の当たらない隘路を選んで黒木を撒こうとしている。優れた土地鑑の持ち主だ。そして敏捷性もおそろしく高い。高い塀だろうと一階の庇だろうと、躊躇なくよじ登って軽業めいた身のこなしを披露する。まるでパルクールの残像を見ているようだ。そして不自然なほど低い影の背丈。相手はまさか子供なのか。
おかげで五分も走れば、黒木はくたくたに息を乱していた。汗もたっぷり掻いている。そろそろ追いつけるかどうか自信がなくなってきた頃、角を曲がった先にようやく相手の姿を視界に収めることができた。ただし、相手もまたこちらを凝視している。
空き地、と書かれた囲いのある敷地。
もう何年も放置されているのか、雑草が豊かに生い茂っている。
住宅街のど真ん中のようだ。
子供の遊び場としては最適の場所だろう。
だから、その場に子供がいたとしても、なんら不思議にはならない。
まだ小学校に通っている年齢とおぼしき男の子が二人、サッカーボールを持って黒木を見つめているのも、おそらく不自然ではない。
その二人がじっと彼女に注目するのも、決して妙な反応ではない……。
「ねえ、あなたたち。こっちに誰か、走って来なかった?」
息も切れ切れに問いかける黒木の言葉に、顔を見合わせる二人の男の子。
「それよりさ、お姉ちゃん。俺たちと『なぞなぞ』しない?」
にやにやと、不敵に笑う子供たち。
それを見て、黒木は、脈打つ心臓の鼓動がさらに早まった気がした。
汗が頬を伝って、地面に落ちる。
言い知れぬ不安。
二人から眼を離すことはできなかった。




