23
都会では望めない、小鳥のさえずりで起床するという贅沢な早朝。あたしは見慣れない寝室で目が覚めて、おそるおそる携帯電話を取り出す。
翌日の午前六時のようだった。
しかし昨日、どうして眠ってしまったのかを憶えていない。
ただ、約三十七時間も寝ていなかったせいで、今朝の目覚めは謹賀新年を迎えたみたいに爽やかだ。窓を開けると、お天道様のぽかぽか陽射しを体全体で浴びることができる。
空は快晴。学校指定の夏服が見事にしわくちゃだが、これはもうクリーニングに出してしまったほうが手っ取り早いだろう。そして起床を見計らったようなアルフレッドさんのモーニングコール。物腰柔らかな老紳士の声は、一流ホテルマンのように耳に優しい。
朝食は、裏山を一望できる屋敷の裏口側のテラスで用意してくれているらしかった。何気に朝食の準備をしなくていいというのは解放感があるけれど、いざ現地に行ってみると、昨日あたしが階段の踊り場ごと破壊した――そんな記憶がうっすら残っている――エントランスホールの壁穴がぽっかりと開いた外側でテラスを設けているわけでして。
あらあら、東から昇るお日様の光が射し込んでエントランスが綺麗ですわね、風通しも良くなりましたわオホホホホ――で、これを作ったのはどこのどなたなのかしら、なんて皮肉にも受け取れるほど、すでにテラスの席についているアステリアの作法は優雅そのものだ。しかもご丁寧に、そんな彼女の真向かいに、据え置きの空席が一つだけ用意されていたりして。
冗談ではない。拷問のような朝食だ。あんな肩の凝りそうな食卓は、十円単位で食費を切り詰めようとする庶民には敷居が高すぎる。
よし、そうと決まれば無視をしよう。あの空席は見なかった。そもそもテラスなんて存在しないのだ。さっさと踵を返して部屋に戻り、さっきの寝室で慎ましくご馳走になるのが一番で――。
「茜さん、おはようございます。遠慮なさらず、どうぞこちらへ」
誘われてしまった!
しかも名指しで!
逃げ出したいのは山々だが、ここで背を向けると相手を優位に立たせてしまいそうで、結局着席する。傍らのアルフレッドさんが椅子を引いてくれるのだけど、やはり庶民感覚では馴染みがないので非常に落ち着かない。
真っ白いテーブルクロスを敷いた食卓には、中央に多彩なパンを入れた草籠と、逆さにした高級そうなフルートグラス、それから手前のお洒落なプレートの左右には、それぞれ銀のフォークとナイフとスプーンが置いてある。すでにこの時点であたしの頭は大混乱を引き起こしているわけだが、残念なことに、仕事の早いアルフレッドさんは、じつにてきぱきとした機敏な動作で朝食を運んできてくれるのだ。とろとろの半熟加減な目玉焼きにベーコンを二枚添えたトースト、ちょっとした野菜を盛り付けるのがお上品ポイントなのか、ドレッシングの合わせ具合も絶妙で崩すのが非常に勿体ない。
しかし、これはあくまでも朝食にすぎない。しかもあたしの前にはお馴染みの箸がなく、代わりにフォークとナイフが今か今かと自分の出番を待ち焦がれている。そして仕上げにフルートグラスへと注がれていくオレンジの琥珀色。
これは、ひょっとしてひょっとしなくても、試されているのか。
今のあたしは、どれから手をつけていいのかさっぱりわからぬ。
ああ、彰の家で食べるお茶漬けご飯が、ものすごく恋しい……。
「作法は気になさらず、どうぞお召し上がりください。たとえナプキンをかけ忘れようが、パン屑を落とそうが、ドレッシングを飛び散らかせようが、果てはグラスを倒して中身をぶちまけようが、わたくしは一向に気にいたしません。……もっとも、彰様はとても美しい御手際を披露なされましたが」
おのれ貴様、あたしに気軽に朝食をお召し上がりいただくつもりが全くないな!
意地になるのも悪いのだが、こうなると引っ込みがつかなくなるのも複雑な人間心理というやつで。食欲と作法の狭間でひたすら悶々としていると、やがてアルフレッドさんが漆塗りのお箸を用意してくれた。紳士さんは救いの手を差し伸べるタイミングも、計ったように完璧なのだった。
「……そういえば、彰たちは今どうしてるの?」
アルフレッドさんの手作りだという朝食に舌鼓を打ちながら、ずうっと沈黙というのも耐えられないので疑問を一つ。アステリアは食後の紅茶を堪能していた。
「彰様と本多様は、昨夜のうちにドクター・ヘリで病院に搬送し、治療を受けています。命に別状はありませんので、ご安心ください」
「病院って、やっぱり具合が悪かったんだ……」
「この屋敷から救急車を手配しようにも、それなりの設備が整った病院までは距離がありますので、ドクター・ヘリを要請しました。西方町の本多総合病院には事前に了解を得ておりましたので、我々としても素早い搬送には満足しています。もちろん、入院費なども含めた全ての費用は、我々が全額負担いたしますのでご心配なく」
「入院費って、彰たち入院するの?」
「二週間も安静にすれば退院できるだろう、と本多院長からのお墨付きも頂戴しました。無論、学校側と、彰様のお母様である麗子様には、我々から連絡を回しております。わたくしは急用のため一時本国に戻らねばなりませんが、代わりにアルフレッドを残しますので、入院や医療費に関する雑務などは全て彼に任せてください」
本多総合病院――あたしと彰は通ったことがないけれど、名前から察するに、やっぱり国雄くんのお父さんが経営する病院なのだろうか。代々から医師の家系だって言ってたし、お見舞いついでに訊いてみるのも悪くない。
「そういえば、アシュレイくんは? まだ姿が見えないようだけど」
「彼も同じ病院に搬送し、英気を養ってもらっています。最初はかなり嫌がっていましたが、せっかくの相部屋ですから、親睦を深める良い機会になるでしょう。それから、新田新一様も昨夜のうちにお帰りになられています」
「新田くん? なんで新田くんの名前が突然出てくるの?」
「御存知なかったのですか? 新田様は、お二人が訪問した直後に敷地に侵入しています。監視カメラの映像をご覧になりますか」
それはさすがに辞退した。問題は、いつ侵入したかではなく、どうやって屋敷の場所を突き止めたかだ。そして、その方法は一つしかない。
黒木先輩は、新田くんにも彰の居場所を話したのだ。なぜ打ち明ける気になったのかは本人に訊かないとわからないけど、どうせ後の祭りなので今更になる。
「新田くんが帰ったって、いつ頃の話?」
「ドクター・ヘリで三人を搬送してすぐになります。アルフレッドに送らせました。午後七時を回ると、当敷地に最も近いバスの最終便には間に合いません」
「そっか。新田くんも彰のことが相当心配だったんだね」
「新田様は、どうしてもアシュレイに謝りたいことがあると話していました。その理由までは伺っていませんが、よほどの事情があるのでしょう。詮索は不要だと判断しました」
むむむ、新田くんがアシュレイくんに対して謝らないといけないことってなんだろう。反射的に能力を使って、美少年の秘密でも再現しちゃったのだろうか。ちょっと気になるけれど、これを後日に訊こうとするのは、やっぱり無粋になるんだろうな。
「……とりあえず、これで一件落着かな」
「さて、それはどうでしょうか。彰様が自ら選んだ行動とはいえ、あの方を瀕死の重傷に追い詰めたのは他ならぬ茜さんです。わたくしも退院祝いには駆けつけますので、その時までには謝罪しておくべきでしょう」
「げっ、アンタ戻ってくるの?」
「当然です。その日から正式に、彰様と同居させていただく家族となりますので、当日は改めて御挨拶に伺わせていただきます」
――頭の中が真っ白になった。思わず箸を落として、ややあってから、拾い直す。
「あー、何を言ったのか全然聞こえなかった。申し訳ないんだけど、もう一度言ってくれる?」
「一種のホームステイとお考えください。もっとも、ホストファミリーがそのまま本当の家族となる可能性もありますが、むしろその可能性が高いわけですが、わたくしとしてもそれは望むところでございますので――」
「そんなことさせるわきゃねえだろうがーッ!」
テーブルを叩いて立ち上がったせいで、グラスが倒れそうなった。慌てて支えるけれど、当のアステリアは涼しげな顔で紅茶を飲む。自慢の美脚を組んで、憎らしいったらありゃしない。
「……アンタ、本気で言ってるわけ?」
「わたくしの辞書に『冗談』という言葉はありません。それに、いずれ本物の家族となる予定であれば、最初から身の回りの御世話をさせていただくのが、将来の妻として最初の義務となるでしょう。もちろん麗子様には事前に許可をいただいております。後は本国の課題が残っていますが、こちらはすでに時間の問題。当然、彰様からの快諾もいただいておりますので、そちらの心配も無用です」
ぐぬぬ、全身の血が沸騰しそうだ。彰はともかく、すでに麗子さんまで取り込まれてしまっているなら、今からでは打つ手がない。暗々裏にそんな陰謀を巡らせていたなんて、その気配を少しも感じとれなかった自分の鈍感さを呪うしかない。
――だが、ちょっと待てよ。やっぱり冷静に考えてみると、いろいろ腑に落ちない点が幾つかある。深呼吸をして椅子に座り直して、オレンジジュースを喉に流し込む。あら、とても濃厚なのに後味すっきりで、すごくおいしいわ、おほほほほ――。
心理戦再開っと。
「あのさ、ちょっと訊きたいことがあるんだけど」
「お替わりでしたら、アルフレッドにどうぞ」
「それは後で相談させて。――で、アンタの話だけど、一つ一つ確かめていくと、どうも不自然さが際立ってくるよね。七月の編入だってそうで、彰と同じ学校だからって理由が選考のポイントなのはわかる。でもさ、なんで七月なわけ? あらかじめ決めてたんなら、それこそ入学式から参加しても不思議じゃないよね」
「誰にでも家庭の都合というものがあります。とりわけ、今回の件に関してはお母様への説得が難航を極めました。最後はお婆様の後押しがあって初めて首肯していただきましたが、それが六月の末の出来事だったのです」
「説明になってないね。あたしは、いつから編入を決めたのかを訊いてるの。ご家族への説得が難航するほどの決意が固まったのが、どうして六月の末の出来事なのか、その理由をね」
アステリアは押し黙った。眼付きにも隙がなくなり、弛緩していた空気が引き締まっていく。
「黙ってるなら独り言を続けるよ。六月の末になったのは、諸々の遅れなんかで出発が遅延したせいじゃない。そうね、たとえば、六月に入ってからでないと決意できなかった理由があったからっていうのはどう? もちろん、その時期に彰の周辺でおかしな出来事はなかったわけだから、アステリアの心境を変化させた起爆剤は、そっち側の都合に終始するけど」
「彰様の身の回りに微細な変化がなかったと、どうして言い切れますか? 茜さんでも、あの方を百パーセント理解しているわけではないでしょう」
「断言してあげる。彰の身に起きた異変は、遅かれ早かれ確実に察知できる。彰の周囲に起きた微細な変化はわからないけど、彰自身の微細な変化なら、あたしは百パーセントの自信をもって見分けることができる。十五年と半年の歳月を甘く見るなよ」
だから彰とアステリアは、最初から個人的な繋がりを持っていなかったのだ。初めての顔合わせが一昨日の昼休みの屋上で、たぶん彼女の編入の目的を彰が知ったのも、その直後だろう。あたしの推測に間違いがなければ、麗子さんはともかく、彰本人には最初からアステリアの存在を知る術がなかった。なぜなら、もしも二人の間になんらかの通信手段があるのなら、当日の直前になってアシュレイくんを使って彰を呼び出す必要もなかったはずだから。
つまり、彰とアステリアは直接的に緊密な間柄じゃなく、その間になんらかの繋がりを持つ運命共同体なわけだ。だから彰は、屋上から誰にも何も言わずに素直に去っていった。二人を結ぶ繋がりの正体を知ってしまったから、むしろ誰にも言えなかったと考えるのが正しい。
――仙道くんが何も言わずに消えたのは、それだけの理由があるからだと思うの。
「そもそも学校への編入が先で、彰の家に居候する手順が後になるって、それもなんだか妙な話よね。普通は同時進行で、どっちも成立して初めて自分の国を離れる覚悟を決めるものじゃないの? 流暢な日本語だから前々から来日を考えていたってことは理解できるけど、だからって今回のそれと都合よく織り交ぜるには少し説得力が足りない。あたしの名前が出た途端にこの屋敷の場所を教えるって例外もそうで、どっちかって言うと、先にこの国で確かめておきたいことがあるから、急遽予定を変更したって感じじゃない? そうして、とても大事な何かが確認できたから、最終的な打ち合わせのためにアステリアは今日にも帰国する」
相手は閉口していた。安易に否定することが危険だと察知しているからだろう。けれどそれは、当たらずとも遠からずという意味合いの姿勢を崩せない緊張に繋がっている。
「そうね、アステリアを思わず決意させるほどの重要な何かが、少なくとも六月に入ってから耳に届いたっていうのはどう? しかもそれはあたしたちにとって決して無関係にはならないから、だから予定を変更せざるを得なかったとか。そして『御苦労様でした』の後に続いた言葉――一体アンタは何から彰を守ろうってわけ? まるで今すぐにでも不慮の事故が起きるみたいな言い方してさ。だからあたしはそこでピンと来たの。不慮の事故でなくても、アステリアはひょっとすると、彰が死んじゃうことも想定してしまったからこそ、こっちに来ることを決意したんじゃないかってね。それともまさか、今更になって恋愛がどうのとか言わないよね。あたし、そこまで間抜けじゃないよ」
「今となっては、わたくしから茜さんを試すつもりはありません。ただし誤解なさらないでいただきたいのは、わたくしの彰様への気持ちには一片の偽りもないということです。もしお二人に、それこそ彰様にも全く興味がなければ、この国への関心すら最初から寄せていなかったでしょうから」
「うん、それは信じてあげる。あたしだって、人を見る眼はあるつもりだからね」
一旦オレンジジュースを含んで唇を湿らせる。あたしもまた、話の先を続けるにはそれ相応の覚悟が必要だった。
「でも、こうなると元々の話が違ってくるよね。彰のことが二義的な目的だったとしたら、アステリアの本来の目的は一体なんだろう。なんでまた彰の身の安全を心配して、六月に入ってから耳に届いた何かがきっかけで、こっちに来ることを決意したんだろうか。そもそも、あたしのことを知る必要があった理由は? 彰をこの屋敷に連れ込んで、あたしの出方を試そうとした根本の原因はなんだろう」
アステリアの青い瞳と視線がぶつかる。本当に綺麗な色だ。きっと男の子なら誰だって、彼女に見つめられただけで魅了されてしまうだろう。
もしかすると彰だって、彼女を好きになるかもしれない。アステリアは、これと真逆の考えを英国で馳せていたのだろうか。もし彰があたしのことを好きになったら、もう自分には振り向いてくれなくなると思い、それで痺れを切らして今回の計画を練り上げたとか。
自惚れだと笑ってくれてもいい。どの道、今回の発端となったのは、自分の感情よりも重要な何かを発見してしまったせいだろう。おそらく、あたしが彼女と同じ立場だったとしてもそうするほどの何かを知ってしまったからこそ、アステリアは矢も楯もたまらずに飛んできたのではないか。
「神崎様。ぜひ、その先の御意見をお聞かせください」
アステリアと彰、そしてあたしの一直線。
これを言い換えると、こういう図になる。
英国と彰、そしてあたしを結ぶ、点と線。
これらに埋もれた共通点は、言葉にしたくはないけれど、たった一つしかありえない。
「狐憑き――九年前に死んだはずの悪党が、もしまた復活していたとしたら、どうだろう」
老紳士さんの問いかけに即答する。アステリアはただ、眼を逸らさずに沈黙するばかりだった。




