20
吐く息がおそろしく白い。しかも耳のあたりで、その吐息がすぐに凍るような音を聞き、さらなる寒気に囚われる。
眉が凍てつくほどの冷気で、常に体中が痛かった。それは長く滞在するほど体温が奪われ、凍死する危険性と隣り合わせにある過酷な環境であることを示している。せめてもの幸いは、無風であること。氷点下の風は人体に深刻なダメージをもたらす。
もはや永久凍土の世界だった。上空には微かにオーロラの彩りが見て取れる。足許には鳩が翼を広げたまま凍結した姿で転がっていた。さすがに非現実的すぎて毒々しい光景だ。異世界さながらの孤立感。体が熱を欲するがための身震いを何度となく繰り返しながら、本多国雄はさらに歩を進めていく。
苦痛は霜焼けの症状を超え、もはや凍傷の域にまで達していた。指先の皮膚は赤く変色していて、火傷を負ったような疼きと痺れがある。鼻や頬、耳たぶまで痛むのは低温への警告そのものだ。代々より医師の家系にある彼は、これから待ち受ける負の影響をすでに覚悟していた。凍傷はまだ氷点下の挨拶代わりにすぎない。ごく短い呼吸と皮膚の蒼白が現れ始めた時、死に至る低体温症への奈落に身を落としていくことになるのだから。
もって三十分だろう、と彼は考える。それ以上の滞在は生命活動の危機に瀕し、戦闘不能を余儀なくされるだろう。即ち敗北である。死にきれない結末だ。負けられない戦いにおける敗北は、その者の魂の失墜を意味することになる。
頭が熱っぽく、眩暈がする。
樹木に寄り添うだけでも体力が奪われる。
ふと、国雄の眼に一棟の小屋が留まった。煙突があるので、遭難用の避難所なのだろう。白一色の森の中で唯一、異彩を放つ小さな建物である。窓から室内を覗くこともできるが、あからさまに罠の様相を呈するそれに不用意に近づくのは、あまり得策ではない。
雪が降ってきた。静かな雪だ。それが突如として吹雪となり、視界一面が白で埋め尽くされる。肌を打つ風と雪は拷問さながらで、国雄は死ぬほど苦しい思いのする呼吸困難を味わった。これでは白い嵐だ。本当に心身が凍るかと膝を折りそうになった時、ようやく吹雪がぴたりと止まる。
平静さを取り戻したらしいアシュレイの声が、どこからともなく聞こえてきた。
「なるほど、見えない人型か。それが君の能力だな? まるで古の武者のような出で立ちをしている。我が国の誇り高き騎士に通じる気高さだ。さぞかし名のある英霊なのだろう」
どうやら相手は、この凍結した世界に相当の自信を持つようだった。神風は先ほどの吹雪のせいで雪が貼り付き、その輪郭を露わにしている。ついに正体を暴かれてしまったが、無敵である神風を止めることはできない。この程度では敏捷性を損なうこともない。
「へっ、いつまでも覚えねえ奴だな。オレには本多国雄っつう名前があるんだ。ちゃんと記憶に刻んどけこの野郎」
「それは失礼。ではたった今より、君のことを国雄と呼ばせてもらおう」
いきなり食えない奴になった、と国雄は思った。この変化は化けたというよりも、得体の知れない覚悟の片鱗が窺い知れる類のものだ。腹をくくった覚悟とは別種の、たとえばそう、正々堂々と全身全霊のやりとりをする儀式のような迫力がある。
四月。仙道彰との対峙で最後の殴り合いを飾った、彼自身の清々しさのように。
「……気持ち悪ィな。一体全体、どういう心境の変化だ?」
「心外だな。ボクは君を好敵手だと認めると言ったんだ。ぜひ光栄に思ってくれ。ボクをここまで追い詰めたのは、国雄で二人目だ。しかし負けるわけにはいかない。少なくともその点だけは、ボクたちは同じ気持ちで戦っているはずだ」
国雄は周囲に眼を配った。小屋の陰から、緩慢な足取りでアシュレイが現れる。
自制の眼光であった。かつての彰と同じく、やはり気迫をこめた眼差しをしている。
「ふん、情けねえぜ。尻上がりの本領発揮たァ、相手を舐めすぎだろ」
「確かに君を侮っていたと認めざるを得ない。ただの口先男ではなかったという、ボクの傲慢も反省すべき点がある。しかし、だから『学習』した。国雄の能力が、たとえ過去の英霊の召喚だとしても問題はない。ここから逆転できる可能性は皆無だからね。学ばせてもらったお礼に、これから起きることを少しだけ説明してあげよう」
彼は立てた人差し指を空に向けた。
「究極の話がしたい。物質の世界では、どのように加速しても時の流れが遅くなる。光の速度を超える加速は存在しないからだ。アルバート・アインシュタインの発想さ。時間が一定の速度で普遍なのではなく、光の速度こそが万物の普遍だという革命的発想。しかも加速の限界である光速はエネルギーを物体の質量に換えてしまう。とてもすごい話だよね。彼がこの革命的発想に辿り着いたことで、エネルギーと質量の関係が研究され、やがては君たちの国でおそるべき『爆弾』が使われてしまったのだから」
国雄は怪訝そうに眉をしかめた。人差し指を地面に向けるアシュレイの余裕がどこから現れているのか、まるで見当がつかなかった。
「では、その逆はどうだろう。物体が減速し続けた場合、当然ながら、その速度はゼロを限界にする。停止より減速することはできないのだから、納得の話だ。なら、どうやって物体を減速させることができるだろう。答えは簡単だ。その物体からエネルギーを奪ってしまえばいい。あらゆる運動には熱エネルギーが生じる。生物には例外なく体温が巡っているように、この熱エネルギーを奪ってしまえば、物体の運動は必ず減速せざるを得ない。それが仮に絶対的な零点でなくても、限りなく停止の世界に近づけさせることができる。ほぼ全ての運動が死に絶え、あらゆる物体が凍りつく、白い静止の世界にね」
その時、ぴしっ、と亀裂が走るような音が聞こえた。国雄の眼下からだった。彼が自分の右手を眼の高さまで持ち上げると、その指先に得体の知れない氷が覆っていて、しかもそのまま速度を緩めることなく掌から手首へと侵食を始めているのを目の当たりにする。
――白い静止の世界。
言いたいことが、薄々わかってきた。しかしその理解は、決して国雄にとって歓迎するべき把握ではなかった。むしろ最悪の未来を想像し、打開策なく青ざめるのみ――。
「まさか、テメェ……」
アシュレイがにやりと笑う。
「低温の果てとは、そういう世界だ! 君はボース・アインシュタイン凝縮を知っているかい? 最速の光をも静止させる屈折率、その極低温の絶世界に今から君だけを招待してあげよう!」
国雄は走り出そうとした。しかし小枝を踏んだように乾いた音がして、思わず足許へと眼を向ける。すでに凍結していた右足の表面に、決定的なひび割れが生じていた。
絶望が、猛々しい雄叫びとなって彼の喉から迸る。
「思い知れ! これがボクの『雪月花時最憶君』だ!」
本多国雄は、足許から這い上がってくる凍結の気配を自覚していた。しかし、抵抗する術がなかった。神風に影響はないようだが、だからといって凍結を妨げる手段も持たないのだ。おまけに夢心地のような意識の喪失がある。もはや声も出すことができない。
人体の瞬間冷却に、一秒もいらなかった。しかしアシュレイもまた相応の体力を消耗していた。相手が完全に凍結したことを見届けると、たちまち膝を折って雪面に手をつく。呼吸の乱れに眩暈が相乗して、とにかく無心の休息をとる必要に迫られていた。極低温を実現させる奥義の行使は、彼自身の体力を極限まで奪い尽くすほどのエネルギーを必要とするからだ。
追い打ちの衝撃がアシュレイの腹部を圧迫したのは、その直後だった。何が起きたのか、当の本人すら理解できない。眼に見えない何かが、まるで巨大な金槌のように腹部を強打して、彼の体はあっさり吹き飛ばされてしまうのだ。
先の国雄と同じく、ほぼ完璧に胃の腑の急所を捉えた打撃だったが、異なるのはその威力だ。小屋の外壁に激突して雪面に打ちつけられ、アシュレイは悶絶するほどのた打ち回った。やがて盛大に吐血して、それでなんとか激痛からの混乱を退ける。
何が、と呟いた瞬間、今度は左頬を殴られた。これもまた強烈だったが、先ほどよりは威力が減衰している。どうやら不可視の相手も急速に弱まっているらしく、小屋の正面に飛ばされる程度で済んだ。
あの気高き不可視の武者が、まだ動きを止めていなかったのだろう。今すぐにも反撃をしてやりたいところだが、あいにくアシュレイもまた相当の疲弊で立ち上がることもできないでいる。偶然にも小屋の正面に吹き飛ばされたことが、幸運の逃走経路のようなものだった。
小屋に入れば、敵が侵入した瞬間に迎撃できる。少なくとも、どこから相手が侵入してくるのかを即座に察知することができる。
ゆえに早く、敵よりも早く扉を開けないと――。
鍵はかかっていなかった。今はもう誰も使っていないはずの小屋の中に入ると、目映い光がアシュレイを包み込んだ。とても白い光だった。
光の軌跡を見つけて、左肩に痛みが走る。光速の射線が貫通したせいだ。思いの外に太い、ちょっとした硬貨サイズの光線。右手で押さえた肩の傷口は焼かれていて、出血すらない。
でも、すごく痛い。
体も、心も、とにかく痛い。
「……昔、靴磨きをしていた子供に、靴を磨いてもらったことがあります。当時はまだ、わたくしは十歳の子供でしたが、彼は決して横柄な態度に出ることはありませんでした。真摯な眼差しで、お客様の靴をピカピカに磨き上げることに一生懸命、取り組んでいたのです。その時、わたくしは確信しました。彼はとても真面目で、純粋で、そして誰よりも強く自分への誇りを持っている、優しい子供なのだと」
破壊された円柱の裏から、アステリアが昔話を語っている。あたしを見つめる青い眼は鋭く、氷のように冴え冴えとしていた。
「神崎茜。今のあなたには、あの時の彼に靴を磨いてもらう資格がない。覇気もなく、魂の抜け殻となって虚ろに立ち尽くす今のあなたはむしろ、彼の靴をピカピカに磨いて差し上げるべきです。人の生きる支えとは、外に在るものではありません。内側から溢れ出てくるものなのですから」
まるで実感の湧かない話だ。右から左へ抜けていくように何も響かない。それより彰は、あれから一体どうなってしまったのだろう。頭部からの出血があったようだけれど、何も影響がないことを祈るしかない。
「それともあなたは、彼から学ぶものなど何もないとお考えでしょうか。もしそう思っているのなら、とんでもない思い上がりです。環境に左右されない生への姿勢、魂の磨き方、真心の大切さをこそ理解して、初めて人は『人間の誇り』を手に入れる。少なくとも彼は、わたくしにそう教えてくれました」
アステリアは過去話に酔い、明後日の方角を見ている。
それも、きっとどうでもいいことか。またしても光線が迫り、あたしの右耳を消し飛ばした。そうした貫通の傷跡が、まだ五つも残っている。左足の甲、右足の脛、右の脇腹、左の二の腕、右の掌――どれも謎の光線で開いた風穴だ。しかもその風穴は、焼け爛れたような形状をしている。
不思議な攻撃だな、とぼんやり思った。発光体、光化のそれら以外にも、まだ『光』による特殊な現象を操作することは可能らしい。おそらくアステリアは勤勉家なのだろう。彰と同じように、能力への確かな知識と深い理解を心得ようと、常に学習することを怠らない人。良くも悪くも、彼と似た者同士の間柄。
――今更の疑問で、あたし自身、相当間抜けだなと思うけど。
彼女と彰は、一体どういう関係なんだろう。
踏み入る余地のない、濃密な関係に進んだ仲なのかな。
だとすると彰にとって、あたしは一体どういう存在なんだろう……。
ずきん、と痛んだ。それが全身の打撲のせいか、それとも七か所もある風穴のせいかはわからなかった。とても立っていられなかったので、ぺたんと座り込む。いっそ、豪快に泣き出してしまいたい気持ちに駆られたが、不思議と涙は出なかった。それが一層、なんとなく哀しいと言えば哀しかった。
「……何を言っても無駄のようですね。それは今この場で、あなたと対峙する時間そのものも無駄であることを意味します。立ち上がることを簡単に諦めてしまう者に、もはや価値はありません。このまま何も知らず、永遠に眠りなさい。他ならない、彰様のために」
アステリアが右手を掲げた。その掌に向かって、何もない空間から光が集まり、真円を描く美しい光球が形作られていく。大きさは人の頭ほどで、その光度は眼も向けられないほど強烈だ。季節柄、直視できない燦然たる太陽を想起する。
「光エネルギーは、熱エネルギーと非常に相性の良い変換効率を秘めています。一般的に、光を電気エネルギーに変換して家庭用の電力にする太陽光発電に注目が集まっているようですが、太陽熱発電も捨てたものではありません。天候と緯度、地形と敷地などの条件はありますが、クリーンという観点では無類を誇ります。この太陽熱で発電している施設は『太陽炉』と呼ばれ、大規模な鏡面により集光した熱源の超高温は理論上、太陽の表面に匹敵する温度まで上昇させることができるのです」
なるほど、と妙に納得した。太陽という比喩は的外れではなかったのだ。彼女が作った球状の光には、溶岩なんて足許にも及ばない熱量が閉じ込められていて、それに接触した全ての対象を蒸発、炭化させる威力を持っている。
まさに小さな太陽だ。アステリアは光を一点に集め、超小型の太陽を作ったのだ。その能力を自在に操る彼女は、紛うことなき光の化身に相違ない。
「苦しみはありません。暗闇に怯えることもありません。光に溶けるように、一瞬で終わりにして差し上げます。それがわたくしの能力『偉大なる栄光』の慈悲なのですから」
罪人には眩しすぎる光球が放たれた。こうして迫る光の塊をぼんやり見ていると、光って意外と無慈悲なんだな、とさえ思ってしまう。ああ、眩しすぎて眼を開けていられない。もういいや、眼を閉じていよう。どうせ何をしても死んでしまうのだから。
――ごめんね、恭一郎さん。きっと、あたしよりずっと優秀な人が彰を守ってくれますから、それで許してください……。
「この――ッ、莫迦野郎!」
声が聞こえた。命を燃やし尽くす絶叫のような、彰の声。
あたしは眼を開けた。すぐに激烈な光が飛び込んできた。視神経ごと頭の奥まで痺れを走らせるような光だ。けれど、あたしは眼を閉じてやらない。まるで十字架を背負い込むように両手を広げて光を押さえ込む、すぐに見失ってしまいそうな人影がこちらに向いていたから。
「あき、ら……?」
「どうして――なぜお前たちが戦っている!」
本当なら触れた瞬間に水分が蒸発して、全身が炭化しているはずの熱量を、彰はわずか五秒間の無敵能力で押さえ込んでいた。ただし、その五秒だけが彰の命綱。それに加えて、彼の能力では確かにダメージは受けないけれど、体の限界を超えた衝撃を踏ん張ることはできないわけで。
「なんで、どうして、あたしなんかのために」
「お前たちが戦っているからだ! 戦う理由なんて、どこにもないのに!」
「だって、そんなこと言われたって、彰が、勝手にあたしの前からいなくなるから――」
「血塗れになるのは、俺だけでいい……ッ!」
彰に言われて、はっとした。彼は片膝をつき、今にも倒れようとしている。
「アステリア! 早く能力を解除して! このままじゃ彰が死んじゃう!」
光の向こう側にいる彼女に、あたしの声が聞こえたのかは定かではない。それでも光の球が消失したあたり、きっと届いていたのだろう。彰の突然の出現に、アステリアもまた驚いていたのかもしれない。
彰の体は、全身から力が抜けたように、あたしに向かって倒れようとしていた。だから即座に支えてあげた。頭部に巻いた包帯が赤く染まっていき、幾筋もの血痕が額から頬に向かって垂れている。呼吸は不規則で、とても危険な状態だ。
「彰! 彰! しっかりして!」
「……ないでくれ」
「え?」
「父さんみたいに、死なないでくれ……」
その、すがるような告白の中に、天を衝くような昔の彰の絶叫が脳裏によみがえった。初めて彼が、恭一郎さんを『父さん』と呼んだ悪夢の日。
おそろしい運命の落日。
ああ、その日を思い出すだけで胸が張り裂けそうになる。なんだか無性に切なくなって、あたしは彰を抱きしめた。彼もあたしを抱きしめて、その温かさに眼の奥が熱くなる。
……全てを犠牲にして、君に何が残るだろう。
いつだって苦しくないって顔をして。
いつだって夢を見ないって顔をして。
そのくせ、他の誰よりも人一倍涙もろいのに。
「――だったら、少しはあたしにも彰の重荷を背負わせなさいよ! 心配ばっかりかけて、都合のいい時だけ恰好つけて現れないで!」
だから彰は、卑怯なのだ。
あたしたちを結ぶ絆は、何が起きたって途切れたりなんかしないのに。
たとえ運命や神様が敵に回っても、きっとあたしは、彼のそばにいたいと思うだろう。
この、高鳴る胸の鼓動が教えてくれる、ありのままの衝動に涙をこらえて。
彼はもう意識が朦朧としているのか、あたしに体を預けたまま、抱きしめてくれる腕の力が抜けていくのがわかった。だからあたしは、玄関のすぐ脇にある壁際に彼を寝かせてあげることにした。脂汗まで浮かぶ彰の顔色は青く、心なしか唇の色も変色しているように見える。かなりの重傷だ。本当は今すぐ病院に送ってあげたいけれど、光の速度で追いかけてくる誰かにつきまとわれるのも面倒だ。
「……お前、よくも彰を傷つけたな」
あたしはアステリアを睨んだ。顔面蒼白の彼女が何を考えているのかは知らない。ただ、もう手加減してやる理由もなくなったので、ここから先は思う存分に戦える。
「お前は彰を傷つける悪い奴だ。悪い奴は彰にいらない。神崎家の長女Aを舐めるなよ」
段階的に力を解放してやるつもりも毛頭ない。あたしは宿敵を指差して、自分の能力を全開にした。




