01
サイレンの音が、踏切の遮断機めいた警報に変わっていく。まるで接近する壁を隔てた向こう側から聞こえているみたいに、それは徐々に音量を上げていく。
「――もう、いつまで寝てんのよ。早く起きなさーいッ!」
仙道彰はたちまち目が覚めた。頭から冷水を浴びせかけられたように、激しい金属音に起こされる。
そんな彼を見下ろす悪縁の幼馴染は、なんとも涼しい顔をしていた。フライパンと包丁を叩き合せていた手を止め、目が合うと、何食わぬ顔で白い歯を見せる。
「おはよう。やっと起きたな、この寝坊助め」
とりあえず体を起こしてから、彰はかぶりを振った。まだ疲労を自覚する倦怠感が、頭の奥で渦を巻いている。
「……やっとも何も、茜のせいで目覚めは最悪だ」
「何を言ってんの。朝の弱いアンタに、最悪もくそもないでしょ。ほら、早く着替えて顔を洗って、歯もきちんと磨いてリビングに来るの。あ、歯磨き粉は切れてたから、新しいのに替えておいたからね」
「今度は何を買ったんだ?」
「ジェルタイプ。結構人気があるみたいだから、試してみようかなって思ってさ」
楽しそうに語る彼女を、彰は寝ぼけ眼で見上げた。チェックスカートを穿いた幼馴染は、真新しいキャメル色のカーディガンの上に白いエプロンを着用している。
「茜、なんで制服を着てるんだ?」
「……アンタって、ほんっとに筋金入りよね。今日は四月二日で、高校の入学式を迎える日でしょうが。全く、彰のせいで初登校なのに一緒に遅刻なんて恥ずかしい真似、あたしは御免だからね」
「だったら、俺のことなんて放っておけばいいのに」
「……なんか言った?」
ころりと笑顔になる幼馴染の手許で、音もなく、しかし飴細工のように簡単に掌サイズの球体へと変形した包丁が、その哀れな姿で掛け布団の上に落ちてくる。
それが、もう二度と台所の主役になれないだろうことは、火を見るよりも明らかだった。
「いえ、なんでもございません」
「そう。じゃあこれ、早く着替えてきてね」
そう言って問答無用で新しい制服を渡し、神崎茜は堂々と部屋を後にする。肩にかかる程度に伸びた黒髪が揺れて、ほんの少しの馥郁とした石鹸の香りを残していった。
「……全く、いつも強引だな、あいつは」
だがここで不貞寝の二度寝をしようものなら、後で待っているのは震度を観測しそうな鉄拳制裁だ。実際それをやられて、一日中とれなかった拳の痣を残したまま小学校に登校したことがある。
お節介焼きの悪癖は、今もまだ直っていないのだ。
「仕方ない。茜の言うとおりにするか」
あまり思い出したくない夢のせいか、びっしょりと寝汗をかいている。まずは脱衣所に向かい、それから浴室でシャワーを浴びるのもいいかもしれない。
枕元のiPhoneを手に取る。母からの連絡に変わりはない。今日も家に戻れそうにない――。
廊下に出て螺旋状の階段を下り、突き当たりで左右に分かれている二階廊下で、足先を左に向ける。そのすぐ先が脱衣所になっていて、ガラス戸を隔てた奥が浴室だ。仙道彰の場合、シャワーの温度はぴりぴりと熱いくらいが丁度よく感じるので、設定は基本操作ですぐ切り替わるように記録してある。
眠気にまどろむ顔に、降り注ぐシャワーの雨を打たせていく。
父親が死んだ夢は、実際に起きた過去の再現だ。幼い頃、突如として土足で踏み込んできた謎の男を道連れにして、仙道彰の昔の部屋で爆死した。どちらの遺体も発見されてはいないが、あの状況と爆発規模で、五体満足で相手の生存を信じ続けることは難しい。
サイレンの音は、狐憑きと呼ばれる凶悪犯を追跡してきたパトカーの接近を知らせる音だった。その中には彼の母親である仙道麗子も同行していたが、何が起きたのかを薄々は察していたのか、事件現場に到着しても涙を見せずに現場保存に努めていたことに、彼は一度なれども不満を覚えたものだが。
ただ、葬儀も狐憑きの事件も、何もかもが終わった後。
静かすぎる部屋の中で一人、父の遺影を抱いて肩を震わせていた母の背中を目撃して、仙道彰は心に誓った。
――生きて悪と戦い抜く。
それを再確認するという意味でなら、今朝の悪夢も、あながち無意味ではないだろう。
「……そろそろ出るか」
シャワーにも感傷にも、充分に浸った。
脱衣所で体を拭き、制服に着替えながら歯を磨く。
三面鏡には寝癖のついた黒髪が映っているが、直すのも面倒なので今日はオールバックにした。もとより彼は、あまり流行にこだわらないタイプの人間だ。どちらかといえば、神崎茜のほうが流行にうるさいほうである。
「彰ー。ご飯用意できたわよー」
「わかった。今いく」
父親が死んでから、母親は以前にも増して精力的に事件に取り込むようになった。その結果、必然と家を留守にすることが多くなったので、家事手伝いの名目で茜に仙道宅の鍵が渡されたのが、もう六年も前のこと。
今ではすっかり家人そのものを気取って、調理道具の置き場だったり、押入れの荷物の細かい配置までを、彰よりも熟知している有様だ。そのことを神崎夫妻もこころよく認知しているあたり、彼女の暴走に歯止めが利かないのも事実だが。
「へえ。今日はまた、いつにも増して適当な髪型ね」
「似合わないか?」
「ノーコメント。それじゃ、いただきまーす」
お互いに両手を合わせて、普段と変わらぬ二人きりの朝食が始まる。
神崎茜は、家事全般をそつなくこなす。凝った趣向の洋風料理などはまだ口にしたことはないが、和風の家庭料理なら間違いなく絶品の域に達しているだろう。将来は居酒屋の女将なんて似合いそうだが、あいにく彼女は酒にめっぽう弱いので可能性としてはあまりない。――無論、どうでもいい話ではある。
今朝は真っ白いふかふかご飯に、油揚げの入った味噌汁、表面を軽く焦がした厚焼き玉子とウインナー、市販の激安納豆、茜お手製のポテトサラダといった献立だ。二人の付き合いも長いもので、どちらが先に醤油を取るか、緑茶を温めた薬缶に手を伸ばすかは、暗黙の了解でとうの昔に決まっている。
「ねえ。今朝のニュース、見た?」
開口一番、神崎茜は厚焼き玉子に箸を伸ばしながらそう言った。
「見てない。ついでに言うと、お前に叩き起こされてから食卓に座るまで、新聞やテレビに眼を通す時間は一秒たりともなかった」
「昨日も流れたニュースみたいだったよ?」
「そんなもの、該当するものが多すぎて大雑把に言われてもわからん」
「まあ、そりゃそうよね」彼女は小さく笑みをこぼす。熱く湯気が立っているマグカップを口元で傾けた。「この前に見た映画の主演俳優、憶えてる? 二之宮士郎って名前なんだけど」
「ああ、憶えてる。確かジョニーズのアイドルグループ『DIAMOND』のメンバーで、最近ではドラマや舞台にもよく抜擢されているとか。まだ二十代後半だったかな」
「そうそう。その二之宮士郎がね……なんと結婚したのよ!」
「ふうん」
すぐさま興味が失せたように――実際失せている――彰は味噌汁に箸をつけた。将来に手に入れたい車種の話題なら、きっと目の輝きも違っただろう。
「実際に式を挙げるのは、今年の夏になるらしいんだけどね。でももう役所に婚姻届は出してて、今は相手と同居してるんだって。めでたい話よね」
「確かに、おめでたい話だ」
「ねね。四月に結婚発表って、なんだか珍しいとは思わない?」
「そうか? 月9ドラマの発表ぐらい、大差ない話題だろ」
「だって、発表したら芸能界のビッグニュース間違いなしの結婚報道じゃない。ファンには衝撃的でしょうけど、本人たちは絶対この時期を狙ってたと思うわ」
「だったら、それこそ珍しくもない話だ。結婚するなら誰だって、本人たちにしか通じない意味合いのある日付を選ぶものだろう」
「そうよ。だからこそ面白そうなんじゃない。どうしてこの日に結婚発表を決めたのか、それを考えるだけでもいろいろ妄想できて退屈しないね」
「……とりあえず、お前が良からぬことを考えているのはわかった」
最後に二人ともお茶漬けご飯でしめて朝食を平らげ、リビング奥の台所に向かい、食器を洗っていく。
茜もまたすぐに横に続いた。
「あたしの考えじゃ、やっぱり子供ね。大人の責任ってやつで発表したのよ」
「ありきたりだな」そこで不意に、仙道彰の脳裏に一つの閃きがよぎった。「その発表、確か昨日だって言ったな」
「うん。けど、それがどうかしたの?」
「昨日は四月一日。エイプリルフール。つまり嘘、どっきりってこと」
「ええーっ!」
食器を洗う彼女の手が止まり、強烈な表情で口を開けたまま固まってしまった。
くすっ、と仙道彰が微笑する。
「というのは、さすがにありえないか」
「……アンタ、今のは結構ポイント高い意表だったわ」
「そりゃどうも」
互いに食器を洗い終え、電気の消し忘れと鍵のかけ忘れなどを再確認して家を出る。
「あー、ちょっと待って。はいこれ、お弁当」
「すまん。助かる」
「ついでに作ってるだけだから、気にしないで」
青い風呂敷に包まれている弁当箱は、彼女が持っている赤い風呂敷の弁当箱より一回り大きい。
それを通学鞄に入れ、彰は今度こそ家に鍵をかけた。
結局、幼稚園から高校に至るまで、こうして彼女と通学路を行くのは変わりない。
「さてさて。それじゃ心機一転、入学式に参るとするでござるか!」
「茜、楽しそうだな」
「そりゃあもう! ねね、あたしたち何人の友達が作れるかな?」
「お前はまず、犠牲者を増やさないことを考えたほうがいいと思う」
「な、なァんですってー!」
早朝から走り回る二人が元気なのも、いつもの如くなのである。




