17
老紳士は、自らをアルフレッドと名乗った。手入れの行き届いた銀髪に、片眼鏡がよく映える西洋系の温和そうな顔立ち。全体的に痩せ型だが、その立ち居振る舞いからして、すでに尋常ではない知性と品性を兼ね備えた老君であることが窺い知れる。
「ようこそ、おいでくださいました。これから殿下の屋敷へとご案内いたします。どうか、わたしから離れませぬよう、ご注意くださいませ」
「殿下、だと?」
「左様でございます。しかし詳しい話は、わたしの口から申し上げることはできません。わたしはあくまで、ただの案内役でございますゆえ」
詰問した国雄くんが肩をすくめる。とりあえず老紳士の後に続くしかなさそうだ。
鉄格子の門扉からは、やはり道の両端に森が広がっていた。ずいぶん途方もない敷地であるらしく、砂利道のせいで足腰に相当の負担がかかる勾配が先まで続いている。
あの、とあたしは質問してみた。疲れ知らずの老紳士はともかく、道に慣れないあたしたちは無言のまま足を進めるのも息苦しいのだ。
「代行オフィスに残した連絡から返信してくださったのは、あなたですか?」
「左様でございます。しかし、先の電話の主は、どうやら神崎様ではなかったようですね。今この場にいらっしゃる神崎様とは声質が異なります」
「あたしの先輩です。ここの連絡先がわからなかったので、協力して探してもらっていたんです」
「機転の利く素晴らしいご友人をお持ちのようですね。その行動力と胆力には敬意を表します」
「ありがとうございます」
そこで一旦会話が途切れた。彼の背中に向けて、今度は国雄くんが質問した。
「こんな山奥に、本当に屋敷があるのか?」
「ごもっともな指摘でございます。ここは『地図にない私邸』――言わば、地元の住民でなければ虚実が膨らむこともない別荘でございます。それゆえ、此度の秘密裏な渡日の際には、この土地を利用することを予め取り決めておりました」
「なんでわざわざ、こんな辺鄙なところに決めたんだ?」
「最も重要な点は『気づかれない』こと。アステリア様が、人目を忍ぶ休養の拠点が必要だと判断なされたからこそ、この地が選ばれたのでございます」
「ふん、大層な連中だ。だったらどうして、当のオレたちを親切に案内するわけだ?」
「全ては隠密に。今回の件でアステリア様が判断された、最も重要な点でございます」
国雄くんは呆れ返っているようだが、あたしは少し異質な風合いを感じていた。ここなら確かに何が起きても仔細を隠し通せそうだけど、それであたしたちの眼をごまかすためだけにこの土地を利用したとは、到底思えないからだ。
殿下、英国の姉弟、そしてあたしと仙道彰を結ぶものの正体は。
まさか、いやしかし、現実にそんなことが――そう疑問を振り払おうとすると、道筋の向こう側に、ぽつんと立っている人影を発見した。輝くような金色の髪に、深い緑の眼、そして定番の白いシャツに黒のジーンズといった私服姿で、弟のアシュレイくんが静観している。
彼はあたしを見て、頭を下げた。
「よく、お越しくださいました。神崎茜さん、姉様が屋敷でお待ちです。そのままアルフの誘導に従い、この道なりを進んでください」
「おいおい、冷てえ待遇だな。オレは招いてくれねえのかよ」
「黙れ、下郎。お前は姉様の客人でもなんでもない。屋敷に向かうのは神崎茜さん、ただ一人だけだ。お前のような汚らわしい野蛮人は、ここから一歩も通すわけにはいかない」
汚らわしいときたか、と国雄くんは苦笑した。彼はすっかり気炎を上げている。
「汚ねえのがお気に召さないってんなら、門前払いしてくれても良かったんだぜ」
「せっかくここまで辿り着いたんだ。手ぶらで帰すのは失礼だろう? 君たちの国では、これをなんの土産と言ったかな」
「生意気な口を利くじゃねえか。澄ました女みてえな顔しやがって。そんなんじゃとても『漢の勝負』ができるとは思えねえなァ」
「フッ。そんなくだらないものに妙な拘りを見せるから、君の価値が下がるんだ。もっとも、底辺にいる君の価値を量ったところで、世のためにも人のためにもならないが」
「ご大層な演説どうもご苦労。そんな背伸びをしても大人にはなれねえぞ。特に漢ってのは、這い上がる生き物だからな」
途端、アシュレイくんの目付きが鋭く据わった。それを合図にして空気がひやりとする。
「アルフレッド。神崎さんを連れて、早く屋敷へご案内しろ。姉様を待たせるな」
「かしこまりました」
「国雄くん、あの子は」
「わかってるよ。ちィとばかり『漢の戦い』ってやつを見せつけてやるだけだ。ちょっとしたつまみ食いさ。それもすぐに終わる」
複雑な思いを抱いて進もうとした時、唐突に国雄くんから声がかかった。あたしはすぐ振り返った。
「前々から訊こうと思ってたんだが、神崎はなんでそんなにも彰に執着するんだ?」
「そんなこと、今さら聞くの?」
「大事なことだ。お前さんの覚悟のほどを知りたいのさ」
「別に隠すつもりはないよ。彰はあたしの命だからに決まってるもん」
「命?」
「そう、命。彰が死んだら、あたしはもう生きていけない。彰が死んだらあたしも死ぬ。だけどあたしが死んで、彰が生き延びるのは良い。それがあたしの『誓い』だから」
それが良いか悪いかは関係ない。
あたしの誓いはあたしのものだ。
他の誰が何をしようと、あたしを止めることは決してできない。
「……悪ィ、愚問だったな。お前さんに勝てる女はこの世にいないよ」
「そう? じゃあ、国雄くんはどうなの? 誤解とはいえ喧嘩までした間柄なのに、どうして彰のために自分の体を張ってくれるの?」
「ああ、あいつはオレの『誇り』だからな。あいつと出会ってなきゃ、オレはクズのまま自分を見失ってただろうぜ。あいつは金儲け主義の親父とは違う。だからオレは、自分の誇りを見失うわけにはいかねえんだ。彰と一緒にいると、それを見つけられる気がする。こんなオレでも、確かな『光の未来』を手に入られるんだって、安心するのさ」
国雄くんはまっすぐな眼差しで、あたしを見つめてくる。その眼の輝きはとても力強く、何よりも純粋そのものを湛えていた。
「……そっか。じゃあ尚更、決着をつけないとね」
「ああ。神崎はがつんと一発、ぶちかましてこい」
あたしはアルフレッドさんの誘導に従い、アシュレイくんの脇を通りすぎた。その時、金髪の美少年は、この世の物とは思えない綺麗な顔立ちで会釈してくれた。
彼もまた悪い男の子ではないのだ。ただ、ほんの少しだけ、彼自身の高い自尊心が表に出ているだけの話で。
二人の男子が見えなくなった頃合いを見計らい、あたしは再び訊いてみた。
「アルフレッドさんは、アシュレイくんを止めないんですね」
「止めても無駄でございましょう。逆上したアシュレイ様を止められるのは、国内ではアステリア様ただ御一人のみです。しかしそれも、あそこまでプライドを傷つけられたとあっては、難しいかもしれませんが」
「お二人のこと、よく御存知なんですね」
「神崎様が仙道様を深く御理解なされているのと同じくらい、わたしもまた、あの方々を理解していると信じております」
老執事はそうして、優しい笑顔を向けてくれた。その瞬間なんとなくだけど、この人と心を通わせることができたような気がする。きっと、お互いがお互いの信じる人のために生きている似た者同士だからだろう。――確証はないけれど、この人はたぶん、そういう気質の持ち主なのだ。
道筋はようやく終着点に辿り着いた。だが建物は、屋敷というよりも廃棄された城館に近い外観をしていた。外壁にまんべんなく苔や蔓が覆っていて、前庭も雑草が生い茂り、とても寂れた様相を呈している。ただしこれもアルフレッドさんの言を信じれば、全ては『隠密』のための偽装工作として、時の許す限りに荒れるがままを放置しているのかもしれない。
石段をのぼり、車でも入れられそうな巨大な玄関が開いていく。把手の金具は重厚感のある獅子の頭の形状で、その金轡をアルフレッドさんが口内へと押し込めることで、観音開きに動くのだ。
自動的に開いた扉の先は、広大なエントランスホールだった。思わず感嘆の声が出るほど贅沢な眺めで、床や柱のほとんどが大理石っぽい模様を描いている。真正面の奥には階段があり、途中の踊り場から左右に分かれて、こちら側に折り返す形で二階の廊下を作り上げている。
なので、ホール自体は二階まで吹き抜けになっているようだ。他にも中世の騎士が着用するような全身鎧が数か所に飾られていたり、目映いシャンデリアが天井から吊られている。本当にお城の一部分を忠実に再現したようなワンシーンの風景に、あたしは為す術もなく眼を奪われていた。
だからその分、異物が動く気配を察知するのは早かった。
「アステリア・A・ランクルージュ……」
二階の左側の廊下から踊り場へ、金髪碧眼の美少女は手すりに掌をかけながら、時間をかけておりてくる。
私服姿だ。フリルブラウスにティアードスカートを着こなして、モデル顔負けの美しい足取りでこちらに近づいてくる。一階の上り口からは、赤絨毯があたしの手前まで敷いてある。その薔薇色の花道を、さも当然の如くに踏みしめて彼女はやってきた。
靴はブーツだ。相手のことだから、きっとよく履き込まれて踏ん張りがきくように調整してあるのだろう。
「アステリア様。神崎茜様をお連れしました」
「御苦労様です、アルフレッド。あなたは下がってください」
「御意に」
応じるやいなや、本当に、ほんの一瞬でアルフレッドさんが視界から消えてしまった。吹き抜けの、見渡す限りの視界のどこにもあの老紳士さんの姿が見当たらない。もちろん普通の人間には真似できない芸当だ。一階にある最短距離の部屋までは、約十メートルも離れている。
度肝を抜かれて混乱するあたしをよそに、アステリアは微笑みさえ浮かべながら、その憎たらしい碧眼で見つめてくる。お互いの距離は、もう三メートルもない。
「茜さん、ようこそお越しくださいました。ここでお会いできる日を楽しみにしていたと言えば、あなたは信じてくださるでしょうか」
呑み込まれるな、と強く念じた。すでに心理戦が始まっている。
「あたしの気持ちはどうでもいいの。そしてあなたの気持ちも聞く気はないわ。あたしの要求はただ一つ、彰を無事に返すこと。それさえ守ってくれれば誰にも手出しはしない。約束は必ず守ってあげる」
だが彼女の反応は、当然冷ややかだった。冷笑さえ見て取れる。
「もちろん、彰様を傷つける真似はわたくしも許さない。あの方は将来、わたくしの夫となるべき男性。それに今は、わたくしの部屋でぐっすりと眠っておいでです。彰様の健やかな眠りを妨げる者は、醜悪極まりない悪徳な害虫として、ただちに排除せねばなりません」
誰が、醜悪極まりない、悪徳な、害虫だと?
それに誰が、誰の部屋で眠っているだって?
怒り心頭で吊り上がりそうになる眼の奥の筋肉をなんとか抑え込み、あたしはひとまず深呼吸をしてから相手を見据えた。
「冗談じゃない。誰がアンタの旦那になるって? 生涯の相手っていうのはね、お金とか外見とか、名誉とか地位だとかで決まるものじゃない。お互いがどれだけ相手を理解しているかで自然と決まるものなの。だからこそ人はそれを『運命』と呼ぶ。十五年も出遅れてる鈍感な人は、彰にとってお呼びじゃないってわけ。わかる?」
「あら、それを言うならわたくしたちの運命は、まさに生まれる前からお互いを引き付け合っていましたわ。御婆様を命懸けで守ってくださった男の英雄譚。そのご子息の写真を拝見した時、わたくしは確かに自分の心臓の音を聞いたのです。ゆえにお互いへの理解とは、何も行動だけで全てが決まるものではありません。見えざる神の配慮によってお互いを引き寄せ合う、最後の一押しこそが『運命』なのです。あなたの出会いとはただの偶然で、わたくしたちこそ祝福の必然によって正しく巡り逢った。この聖なる結び付きこそ完璧なる理解。ならばこそ、部外者がわたくしたちの運命に、勝手に土足で踏み込まないで頂きたいものですね」
――今、正しく理解した。
こいつは『敵』だ。きっと、お互いが同じ理解を示したことに、アステリアもまた気づいている。
目の前の女が『宿敵』で、こいつに勝たなければ、この世で最も欲しい『宝物』は手に入らないのだと。そういう意味では間違いなく理解し合っているのに、悲しいかな、この二人の世界では勝者は一人なのだ。他の事柄では肩を並べても、今この瞬間に賭けている『宝物』に関してだけは、絶対に相手には譲れない。妥協もできない意地がある。
だからこその宿敵。きっとアステリアは、向こうがあたしのことをそう思っているように、ある一点の事柄に関してだけは永遠に仲直りできない間柄になるだろう。あるいは、ひょっとすると――。
「もう一度だけ言うわ。彰を引き渡すつもりはないわけね」
「引き渡すも何も、彰様がお休みになられるべき場所は、わたくしの隣以外のどこにもありません。ただの伝言であれば、将来の妻であるわたくしが承っておきますが」
「……やっぱり駄目だ。勘が外れることもあるのね。アンタとは友達になれる気がしない」
「意外ですね。わたくしもその点だけは、どうやら同じ考えを持ち合わせているようです」
途端、光があたしの眼の前に浮かんだ。なんてことはない、ただの小さな球状の光。
しかし、それが弾けた。強烈な閃光が鋭い痛みとなって眼を焼き、あたしは慌てて腕で眼を覆う。それでも瞼の裏は真っ白く、数秒間は身動きとれずに立ち尽くした。
この一瞬で、遠く離れた位置から敵の声が届いてくる。
「彰様を支えるべき『真の理解者』は誰か。ここで決着をつけるとしましょう」
眼が、ようやく閃光のダメージより回復する。
真正面の奥、階段の上がり口の手前にアステリアはいた。その距離およそ五十メートル。
「さっきの光、それがアンタの『能力』か」
「神崎茜。あなたはわたくしに指一本触れることなく、やがて跪くでしょう」
少しも眼を外せない睨み合いが、始まった。




