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夏休みが目前に近づいた七月。あたしの通う岸沢東方高校の全生徒は目下、二週間後に差し迫った期末テストのために、どんなに短い休み時間でも緊張を強いられていた。
この時期に限らず、体育祭や文化祭でも、直前の公式試合などでどうしても練習が不可欠な場合を除き、全ての部活動は一時的な休みを強制されるらしい。クラスメイトの麗人、渋沢遊さんは、そうして水泳部の活動が休止にされたことを不満そうに話してくれた。
「全く、生き甲斐を奪われるのは息苦しいね。勉強は学生の本分だと頭ではわかっているつもりだが、心なしか肩こりがひどくなった気がする」
言って、渋沢さんは首を回して肩をもみもみ。
くそう、嫌味か、嫌味ですか、そうですか。どうせあたしは肩こりなんてしない貧相な体ですよ、しくしくしく。
「……そういえば渋沢さんって、いつから水泳を始めたの?」
「スイミングスクールに通い始めたのは、幼稚園の頃からだったな。私はその時、じつは全く泳げない子供だったのだよ」
「え、そうなの?」
「負けず嫌いで始めたんだな。ほら、最初はプールの淵を掴んだり、板を持って足で水を蹴る練習から始めるだろう? ところが私は、それすらできずに水中に沈んでしまうんだ。それが不細工だから嫌で、意地でも自力で泳げるように早く上達したかったのさ。それが水泳を習い始めたきっかけだね」
「ほほう、意外と単純ですのな。渋沢さんのことだから、てっきり世界で活躍している達人さんに憧れて、とか言うのかと思ってた」
「ああ、憧れの選手も全くいないわけじゃないぞ。それに、この東高は水泳に力を入れているとはお世辞にも言えないから、うっかりしていると同世代のライバルたちに追い抜かれてしまうしね」
「去年の全国大会では、確か二位だったんだよね?」
「惜しいことに、指先の一関節分ほどの差で、優勝を持っていかれてしまった。だけど、その時に優勝した子とは今でも友達だ。時折メールでやりとりするし、たまに電話もしている。お互いの調子や、まあ他愛のない世間話なども含めてな」
おおっと、話題から大物が引っかかってくれましたぞ! 机の上に置いてあるお菓子の袋からチョコを咥え、あたしは身を乗り出した。
「ねね、その優勝した子って、どんな人?」
「なんだ。神崎は興味津々か」
「そりゃもう、いつでもどこでも乙女センサーが食指を伸ばしておりますから」
「くく、おかしな奴だ。手当たり次第に飲み込むと、そのうち腹を壊すぞ」
「へへーんだ。食あたりが怖くて、好奇心が抑えられますかってんだ」
今度こそ渋沢さんは笑い崩れた。そして自分もチョコを頬張る。
「そこまで彼女に興味があるなら、今度の夏休みを利用して直接会いに行こうか。確か、私の部活の休みが八月の上旬に予定されているはずだから、今から連絡しておけば向こうも予定を組み立てやすいだろう」
「向こうって、どのあたり?」
「大阪だ。観光名所の説明は必要ないだろう?」
おお、なんかすごい流れになってきたぞ! テンション上がってきた!
思えば、中学水泳の全国大会で活躍した二位が目の前にいるのだ。そのうえ一位の人とお近づきになれるなんて、これはもう一生の思い出になるよね。
「行く行く、絶対に行く! ねね、どうせだったらみんなで行こうよ!」
すぐ隣の席に眼を配ると、黙々とノートとにらめっこをしていた天使さんが顔を上げて頷いてくれた。同じクラスメイトの清水菜月さんは、どういうわけか吃音症という珍しい疾病を抱えているらしい。
原因はわからない。本人にも家族にも心当たりがないそうだ。けれど脳神経だとか声帯だとかの体内器官に異常があるわけではないので、先天性か心因性の問題だろうと医者は診断しているのだとか。早く治ってくれることを願うばかりだ。
決まりだな、と向かって右側の席に腰を下ろす渋沢さんも頷いた。
「三嶋はどうする? 家の手伝いでは休みも取りにくいとは思うが、今の時期なら機会もあるんじゃないか?」
あたしの真正面の席には三嶋さんが座っている。老舗料亭の次期女将として家を手伝うお嬢様だ。日本史の教科書を読む姿が本当に似合いすぎている。
「一応、訊いてみる……。もし無理だったら、ごめんなさい」
「やっぱり、家は忙しいか」
「それもあるけど、おもてなしが大変、かな。予約は半年も先まで続いているし、著名なお客様から突然の予約をいただくこともあるから、粗相をしないように常に気を配るのがすごく辛くて……」
「三嶋さんの料亭に通うお客様って、結構すごい人たちばかりなの?」
「ほとんど、お忍びで来られる方が多いかな。議員の先生がたや、役者さんとか俳優さんとか、芸能人の方もよくお見えになられますし……」
「わっひゃー。それって無人島で配膳係を勤めるようなものだよね。あたしなら人恋しい病にかかって、通りがかりの船を襲っちゃうかも」
そう言うと、三嶋さんは肩透かしを食らったみたいに眼を丸くした。そしてひとしきり大笑いして、目尻の涙を指先で拭う。
「神崎さん、それ、おもしろい」
「そ、そうかな?」
「そうですよ。わたし、ちょっと嬉しかったです」
「ほえ?」
「わたし、こうして学校の中でみんなとおしゃべりする時間が、一番幸せなんです。家の事情はもちろん承知してるけど、わたしは、今こうしてみんなと一緒にいる時間も大切にしたい……」
あたしはすぐさま三嶋さんの手を掴み、両手で握った。感動したのだ。こんな良い子が友達になってくれるなんて、世の中まだまだ捨てたものじゃないよね。
「か、神崎さん……?」
「あたしたち、友達だからね。困ったことがあったら、いつでも相談に乗るからね」
「は、はぁ……」
何が何やらわからないといった風の三嶋さんだが、それでもいいのだ。これはあたしのお節介――彼女がどうしようもなく追い詰められて逃げ場を失った時の、最後の拠り所として支えてあげられるように布石を打っただけなのだから。新田くんのように心の負担を内側に溜め込むばかりじゃ、健やかな元気も少しずつ病んでしまうというもので。
忍び笑いをこぼしていた渋沢さんが、ふと真面目な眼になった。
「神崎。君は変わっているな」
「ふに?」
「達観というより、卓越している。君はどうも、最初から強い人間のようだ。私たちとは立っている土俵が違うというべきかな」
「……なんか、変なの。強いとか弱いとか、そういうことを一度言い出したら、どちら側に立ってもやりきれないと思うんだけどな」
「ああ、だから君は強いんだ。弱い人間が高い壁を眼の前にすれば、そんな悠長なことを考える余裕すら失ってしまう。ではその時、弱者はどうするか? 行き場を見失って八つ当たりするか、さもなければ、ただ途方に暮れるだけだ」
……うーむ。渋沢さんが何を言いたいのか、あたしにはよくわからないぞ。大体あたしなんかより、ずっと努力を続けてきている渋沢さんのほうがよっぽど強い人だと思うんだけどな。
そんな風に困っていると、制服の袖を掴む気配があった。清水さんが問題のわからないところを教えてほしいように、濡れた眼で見上げてくる。そんな反則的な上目遣いをされたら、あたしは張り切って頑張っちゃうぞ!
「……要するに、私はただ、勉強に疲れただけだ」
身も蓋もないが、同意に一票。しかし期末テストの脅威が近づいているので、手を抜くわけにもいかないのだった。
翌日。
朝一番の教室に登校すると、いつもと違った雰囲気を感じ取った。期末のことで誰もが追い立てられる時期なのに、緊迫しているのではなく、妙にそわそわしている。
「あ、神崎さん」
三嶋さんが手を振っている。その隣には清水さんの姿もあった。
「二人とも、おはよー」
「おはようございます。遊ちゃんは、今ちょっと職員室に行ってます」
「職員室に? どうして?」
「これは、あくまでも噂なんですが……。どうも、わたしたちのクラスに編入生がやってくるみたいなんです。しかも相手はイギリスの方らしくて、それで、みんなも落ち着きを失って……」
そりゃ、七月の期末テスト前でわざわざ編入してくる珍妙な同級生がいたら、誰だって噂にするに決まってる。浮き足立つのも致し方なしだ。
「もしかして、渋沢さんは編入生の噂を確かめるために職員室に?」
「そうなんです。遊ちゃんは自分の眼で見ないと気が済まないから、もやもやと手をこまねくよりは――なんて言って走っていっちゃいました」
「あはは、渋沢さんらしいなあ」
噂をすればなんとやら。当の渋沢さんは、廊下からあたしたちの姿を見つけて教室内に入ってくる。
「おはよう。神崎も聞いたか?」
「うん、編入生の噂でしょ。それで、どうだったの?」
「手強い奴がやってきた、という感じかな。美人の別称には羞花閉月なんて言葉があるが、あれはそんな生易しいタイプじゃない。皮惑いの表面に甘んじて邪念を抱くと、たちまち痛烈なしっぺ返しを食らわせるだろうね。あれはそういうタイプの国色だよ、間違いなく」
絶賛だか酷評だか、よくわからない感想である。だけどそれが、渋沢さんの肌で感じた相手の過不足のない人物像だというのなら、むしろ逆に興味が湧くというものだ。
花も恥じらい、月が隠れるほどの絶世の美人だが、不用意に近づくと火傷程度では済まないぞ――そんな感想を彼女に与える女の子とは、一体どんな人物か。
「おっと、そろそろお披露目の時間だな。ホームルームだ」
渋沢さんが言うやいなや、いつ聞いても耳にうるさいチャイムの音が鳴り響いた。三々五々と集まるクラスメイトたちが着席する中、あたしも自分の机に腰を落ち着ける。
やがて担任の先生だけが教室に入ってきた。焦れったい風に室内の空気が浮つく中で、担任の女性教諭はあくまでも事務的な口調で噂の編入生を紹介する。戸口に振り返り、当人を室内に招き入れる。
その瞬間、まず誰もが息を呑んだ。あたしもその例外にはならなかった。時間がひどく遅れて世界の全てがゆっくりと動くように、彼女はレッド・カーペットを歩くような優雅さで黒板の前に姿を現した。
光に透けて、黄金のように煌びやかな長髪が宙に舞い上がる。
窓から吹く風にたなびいて、金色の妖精が片羽を広げたよう。
背丈は高く、足はすらりと伸び、腰はくびれて、指先は細い。
輪郭鋭利な目鼻立ち、きめ細かい肌は見惚れるほど白かった。
そんな国外美女の理想めいた女の子が、黒板の前で深々とお辞儀する。
「皆様、初めてお目にかかります。わたくしは、アステリア・A・ランクルージュと申します。どうぞ、よろしくお見知り置きくださいませ」
金髪美人さんはすらすらと、気負いもない流暢な日本語であっさりと自己紹介を終え、おもてを上げる。
眼の色はラピス・ラズリの青色だ。吸い込まれるという表現がしっくりくる瞳に全てが射抜かれる錯覚。教室から一息で空気が消えた圧倒感。クラスメイトの誰もが身じろぎもせず、ただ黙って相手の思うがままに眼を奪われている。担任教諭からの説明さえ遠のくほどなのだから、その衝撃はある種の一体感すら漂っていた。
彼女は担任の指示に従い、あたしの列の最後尾の席に座る。
けれどあたしは、それからもずっと緊張しっぱなしだった。
横を通りすぎる際、彼女は確かに、あたしに聞かせる程度の声量で『御苦労様でした。今後はわたくしが彼を守ります』と言ったのだから。




