12
不思議と眩しいとは感じない光の中を進んでいくと、白が弾けて、ようやく元の世界に戻ることができた。そう断言できるのは、天井や壁の一面に貼られている美少女アニメのポスターと、ベッドに立てかけてある抱き枕、それから書棚に所狭しと置いてあるアニメキャラクターの人形といった、とても黒木女史の趣味とは思えない異色の飾り物が随所に見られるためである。
六畳一間の部屋だった。カーテンのかかった真正面の窓際には机があり、大きなデスクトップパソコンが鎮座している。床面には足の踏み場もないほど無造作にゴミが散乱して、とても不衛生だ。そして悪臭。あたしと先輩がいの一番にしたことは、とにかく鼻を塞いでしまうことだった。
「なにこれ、臭い、吐きそう……」
そう呟いて黒木先輩が顔を背ける。その気持ちもわからなくはないのが複雑な気分だが、あたしは目を背けなかった。
机を背に、一人の男子が床に座り込んでいた。あの子が新田新一くんなのかな。髪も髭も伸び放題でまとまりがなく、なぜかトランクス一丁のまま、ずんぐりと肥えた三段腹をこちらに向けている。
表情こそ怯えた様子だが、顔色そのものは悪くなかった。でも少し神経質そうな顔立ち。
「君が、新田新一くん?」
あたしが尋ねると、彼は途端に我に返ったように後ずさった。どうやら確かに、噂の不登校生で間違いないらしい。
「な、なんだよ……。勝手に人の部屋に入ってきて、なんなんだよお前らは!」
他人の家に、ではなく、自分の部屋に、と限定するあたりでいろいろな自覚が足りていないことにはひとまず触れずにおいて。
事情はどうあれ、能力を使ってむやみに人を傷つけるのは良くないんだぞとたしなめようとした瞬間、あたしの体を押し退けた女性が間に割り込んできた。新田家を訪問した際、玄関口で応対に出てきたあの女性だった。
「シンちゃん! シンちゃん!」
彼女はヒステリックな声で叫びながら新田くんを抱き寄せる。けれど彼はすぐにしかめっ面をして、女性を突き放した。
「ババア! 僕に近づくな!」
「シンちゃん、大丈夫よ、何も怖くないからね。ママが守ってあげるからね」
「うるさいな! あっちいけよ! 僕に触るな!」
惨憺たる光景。複雑な家庭問題の一端を目撃してしまったぞ、ううむ。
なんて唸っていると、腕の袖を引っ張ってくる感触があった。黒木女史と眼を合わせる。
「ねえ、とにかく早く出ましょうよ。臭いし不潔だし、こんなところ頼まれたって長居したくないわ」
「――なんだよ、それ」
先輩の言葉を耳ざとく聞きつけた新田くんが、あたしたちを睨みつける。
「勝手に入ってきて勝手に評価して、勝手に見限って……。お前らは一体どれだけ偉いんだよ! お前らが、お前らのせいで僕は、僕の部屋が……」
彼は悔しそうに下唇を噛みしめた。
あたし自身の状況としては、当初の目的はすでに達せられているので、もうこの部屋に留まる必要はない。けれど、だからといって精神的に不安定なまま『能力』を使っている人を無責任に放置するのは、また別問題ではないか。
――あたしは直感する。この子は決して無感覚になっているわけじゃない。
こほん、と咳払いを一つして一歩近づくと、女性――やはり新田くんの母親らしい――が彼を庇うように抱き寄せた。今度は彼も母親を突き放そうとはしない。
「怖いの? あたしが言うのもあれだけど、女に追い詰められる男って、ちょっとばかり滑稽に見えるよ」
「ちょっと、何してるのよ。早くここから――」
「先輩は黙ってて。あたしは今、新田新一くんと話をしてるの」
名指しされて身構えたのか、彼は不安でたまらないという眼であたしを見つめ返してくる。母親の腕に力が入った。
「あなた、私のシンちゃんになんの用? 言っておきますけど、そこから一歩でも近づいたら、すぐに警察を呼ぶから!」
こういう手合いは当然無視だ。今の母親では何も変えられない、手に負えないからこそ、新田新一は部屋に閉じこもっている。
「……さっきの能力、すごいね」
一瞬、あたしの言葉の意味がわからなかったせいだろう。新田くんは迷子のような目付きになった。
「この部屋に入ろうとしたら、全く別の世界に飛ばされた。現実の中にもう一つのリアルな世界を作り出すのって、本当にすごいと思う。――あれはなんて名前の力なの?」
「……なんで」
「あたしも能力者なの。つまり新田くんと同じってわけ。だから『もう一つの世界』から脱出できたし、こうして君にも会うことができた」
不安ばかりだった彼の眼に、もう一つの感情の光が宿ったのをあたしは見逃さない。
それは好奇心の眼差しだ。能力者は一人ぼっちじゃない。
「……ライン」
「え?」
「あの力は『神経衰弱』っていうんだ。この部屋に入ろうとする連中に、そいつ自身の醜い過去をぶつけてやる、特別な力の呼称だよ」
「いつから自覚したの? 自分に特別な力があるってこと」
「……そんなの、わからない。こんなすごい力が使えるってだけで舞い上がってたから、いつから使えたかなんて正直どうでもよかった」
「他人の心の力を利用して異世界を作る能力かあ。まるで魔法みたいだね」
「すごいだろ? ……でもね、この力は所詮『他人』がいないと使えない。だからこれは欠陥品なんだ。それこそ僕のように」
――僕のように?
そう首をかしげると、赤ん坊の泣き声が階下から響いてきた。女性は弾かれたように部屋を飛び出し、階段を駆け下りていく。
新田くんは薄く笑った。
「僕は出来損ないの子供なんだよ。いろんな高校を受験してみたけど全て落ちた。手応えがあったはずの滑り止めの受験すら落ちたんだ。それを知った父さんは耐えかねて、なんとか東高だけは口利きで入れてもらえるように勝手に手配した。きっと、懇意にしている試験の担当者がいるんだろうね。でも、それは僕のためじゃない。自力で高校に進学できなかった息子がいると面目を失うから、だから禁じ手を犯してまで力を尽くしたのさ。他でもない、自分が築き上げてきた名誉と威信が失墜しないためにね」
「それは考えすぎじゃない? むしろ子供のためにあれこれ手を尽くして」
「僕は、今年で十八になるんだよ」
絶句したあたしの反応を吟味するように、彼は一拍置いた。
「笑っちゃうだろ? 僕は二浪してるんだ。普通はありえないよね。誰だって笑っちゃうよ。だから出来損ないなんだ。父さんだっていつも口にしてた。情けない奴、お前は本当に俺の息子か――ってね」
「お父さん、厳格な人なんだ」
「弁護士さ。法律家だから、細かいことに一々うるさいんだ。それに僕の存在そのものが無様で、人生の汚点だって母さんと話してたのを聞いたことがある。どうせ、期待外れの子供は見限って、次こそ自分の後継者にふさわしい最高傑作を作り出そうという腹積もりなんだろ。実際、あいつが家に来てすぐの内緒話だったから、絶対そうに決まってる」
「あいつって?」
「さっき泣いてた赤ん坊だよ。養子なんだ。ほら、笑えよ。僕は血の繋がりのない赤の他人からも居場所を奪われたんだ。それが僕の心にどれほど深い傷をつけたのか、あいつらはまるでわかってない。わかろうともしないんだよ。きっと、僕のことはもうどうでもいいから、眼中にすらないのさ」
あたしは何も言えなかった。
血を分けた子供がいるのに養子を引き取るという親の行為を知って、素直に喜べる子供が何人いるだろう。おまけに親の愛情が、少しずつ、けれどはっきりと感じ取れるほど養子の子供に注がれていることに気づいた時、血を分けた子供は一体どう思うだろう。
結果、見捨てられた――そのように感じてもあまり不思議とは思えない。
「だけど僕は、何をやってもうまくできないんだな。今こうして好き勝手やってるけど、現実は父さんを安心させているだけなんだ。出来損ないを外に出して自分の評判を落とすよりは、部屋に閉じ込めさせて外出させないほうが、恥の上塗りをしなくて済むからね。最悪だよ。笑いたくても笑えない皮肉の完成だ。父さんの奴隷になりたくなくて反抗したつもりだったのに、引きこもってるほうが逆に、養子に悪影響を与えないからと父さんを喜ばせるんだ。それが余計に僕の心を傷つける。傷つけるのに――それしかできない自分自身がとても憎い! 憎くて憎くて、いっそこの世から消えてしまいたいんだ!」
「学校はどうするの? 方法はどうあれ、せっかく入学できたのに」
「東高は僕の憧れだった。それがあっさりと、父さんだけの力で入学できたんだ。なら、僕のこれまでの努力は一体なんだったんだ? 僕はなんのために、必死で勉強して何度も落ちたんだ? 僕は――僕はただ、親から見捨てられるためにこの世に生まれてきたっていうのか!」
学校に行けば、その背後にお父さんの影が見え隠れしてしまう。
部屋にいても、養子の赤ん坊と両親の眼にびくびくしてしまう。
だから、新田新一は許せなくなった。他の誰でもなく、そういう状況に自分を追い込んだ、自分自身にこそ怒りを覚えて憎悪して、だからってどうすればいいのかもわからずに途方に暮れている。
彼は自嘲ぎみに笑みをこぼした。
「僕は無価値な人間だ。僕の人生にはきっと意味なんて存在しないんだ。誰からも必要とされず、むしろ軽蔑されて生きていかなきゃいけないなんて、そんなのあんまりだ。地獄だよ。僕は何も悪いことしてないのに、どうして一方的に傷つかなきゃいけないの? 僕が欠陥品だからいけないの? 欠陥品はどうしたら純正品になれるの? ねえ、教えてよ。僕には何もないんだ。友達もいない、親からも見限られたこの僕に。ねえ、誰か助けてよ。お願いだ。誰か――誰か助けて……」
心からの悲鳴。
ぽろぽろと涙をこぼす新田くんの悩み、ぜひともなんとかしてあげたい。だけどあたしだけじゃ丸っきり力不足だ。悩みを理解してあげることはできても、肝心の打開策がまるで思い浮かばない。あたしじゃ彼の力になってあげられない。
――こんな時に頼りになるのは、あたしの知る限り一人しかいない。
「ねえ、新田くん」
手を伸ばせば、すぐに触れ合える位置であたしはしゃがみ込む。
彼は、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになりながらも顔を上げてくれた。
「友達、紹介してあげよっか」
新田くんは、狐につままれたような顔をした。




