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普通、家の中にある部屋をイメージするなら、きっと大半の人たちが個室になると思う。ましてや問題の部屋が二階にあるのだから、居室以外の間取りはほとんど思い浮かべないだろう。
なのに目の前には、年代を感じさせる屋敷が建っているのだ。空は快晴で、枯れ果てた生垣の外側には住宅が密集して軒を連ねている。
もちろん縮尺した模型であるはずがなかった。玄関口はあたしの等身大ほどもあるし、左側に回り込むと、縁側に繋がっている中庭を一望することだってできる。飛び石のある地面やアーチ橋のある池、おそらく洗濯物を乾かすための竿竹と、もう命の息吹が感じられない草花も、当時の名残を漂わせる程度にはまだ現存していたりして。
「な、なんじゃこりゃあ……」
少なくとも十年以上は経過している、ただしとうに没落した一家の邸宅だと考えるのが妥当のようだった。砂の上を歩くと足の裏が痛み、そこでようやく、自分が靴下のままであることに気づき、慌てて飛び石に移る。
「あ、ありえない……」
感覚は本物。つまりこの敷地内にある全ての物が本物で、現実だという証明が立てられた。夢を見ているわけじゃなく、新田家の二階にある部屋の中に一歩踏み込んだ瞬間に、さながら瞬間移動の如くに別の場所へと放り出されてしまったのである。
そんな、どう考えても常識では説明できない超常現象の体験は、あたしの脳裏に『能力』の二文字をよぎらせるのにそう大して時間をかけなかった。そもそも、家の中に等身大の家がある、なんて常識があってたまるもんですか。
飛び石にずっと立っているのも足裏が冷えてくるので、とりあえず玄関口まで引き返した。舗道から入口の表札を確認しようと思ったけれど、外に出る前に、目に見えない力で弾かれて鼻が痛んだ。透明の壁が敷地外への移動を阻むように立ち塞がっているようなのだが、だとすると単純に、国内のどこかに移動させられたわけでもないのだろうか。今の時点でわかっていることは、ここが出入口ではなさそうだということだけで。
「もしかして先輩、この屋敷の中をさまよってる?」
出口がないのなら、敷地内のどこかにあると信じて探索するのが当然だ。あまりに幽霊屋敷然とした建物の中も、その例に漏れるはずがない。
――正直に言うと、唐突すぎて、ちょっと遠慮したい気分ですけどね!
しかし、あたしも出口を探さないと『能力』から避難できないので、ここはおとなしく腹をくくるしかあるまい。荒廃した玄関口の引き戸に指先を引っかけると、これが思いの外すんなりと開いてくれてげんなりする。まるで、いらっしゃいませ、という亡者どもの歓迎の声が聞こえてきそうな脱力感。そして埃とかびの微かな臭い。
ああ、いやだいやだ。
ここは絶対に『何か』が出る、とあたしの直感が告げている。
沓脱からは一直線に廊下が伸びていた。玄関ホールはそこかしこに蜘蛛の巣が張っていて、靴箱の天板の隅っこのほうにも見て取れる。長方形の額縁に入った花瓶の絵、真下に並べた七福神の人形も色褪せて、ちょっと触っただけでも指先が黒ずむほどの埃が溜まっているから、ひどく心細い気分になる。
その時、つんざくように鋭い悲鳴が耳を打った。ひぅ、とあたしの声も裏返る。そして大慌てで廊下の突き当たりにある敷居から飛び出してくる子供たちが四人、鬼気迫る表情でこちらに近づいてきた。
咄嗟に身を隠そうとしたけれど、その必要は全くなかった。子供たちはあたしに眼もくれないどころか、あっという間に体をすり抜けて、玄関口を後にする。
慌ただしい足音と、その全力疾走の必死さを物語る床面の震動。沓脱で転んだ女の子も――その時ものすごい音がした――すぐさま起き上がって泣きじゃくりながら屋敷を出ていこうとする。その横顔は、ちらりと見えただけだけど、黒木女史の面影が残っているような気がした。
「あー、やな予感がぷんぷんする」
足許には、いつの間にか霧とも煙ともつかない正体不明の冷気が漂っていた。廊下の床面を覆い尽くすように確実に、静かに、ゆっくりと。それは一つの流れに従って、廊下の奥側から這い出してきている。そして同時に、鼻の奥を突き刺すような強烈な腐臭もまた、辺りに充満し始めていた。
おそるおそる振り返る。
ぐるり、と敷居の手前の空間がねじれていた。
そこに突如として現れた、黒い穴。
漆黒のフードを被った髑髏の体には、無数の人の顔が霧状に蠢き、耐えがたい苦痛にずっと喘ぐかのように苦悶の表情を浮かべていて――。
あたしも悲鳴を上げた。戦おうなんて微塵も思わなかった。さっきの子供たちと同じように玄関を出て、敷地の入口を踏み越える。目に見えない壁が行く手を阻むことはなく、代わりに視界一面を白く染め上げる光に包まれる。
ゆるやかに色彩が戻った時、あたしはまた違う場所に立っていた。廊下の真ん中、その先には生活感の漂う玄関があり、三人の男女が立ち尽くしている。
沓脱に立っているのは男性のようだった。ただし引き戸からの逆光があるため、その容貌は影に覆われて窺い知ることができない。唯一わかっているのは、その服装がスーツのようで、じつに現代的だということだけ。
逆に廊下側の玄関マットで、あたしに背中を向けて男性に応対しているのは、大人の女性と小学生くらいの女の子だ。おそらく親子なのだろうが、注目したのは女の子の右腕を覆っている三角巾である。彼女の顔を見ることは叶わないけれど、なんとなく、やっぱり折れていたんだと思うと少し胸が苦しくなった。
「申し訳ありません、先生。この子ったら、自分で転んで骨折してしまったみたいなんですよ。ええ、明日にはきちんと学校に行かせますから」
あなたも謝りなさい、と女性が女の子を叱りつける。けれど女の子は拒んでいた。なぜ事故で怪我をした自分が怒られているのか、理解できないからだろう。
「あの屋敷には入っちゃいけないって、よくよく言いつけてありましたのに。本当に、先生がたにはご迷惑をおかけしました」
女性は恐縮そうに頭を下げ続ける。対する男性は居心地悪そうに頭を掻いた。そんな空気に耐え切れなくなったのか、女の子が途端に踵を返してこちらに走り寄ってくる。
「ちょっと、凛!」
凛、と呼ばれた少女は脇目も振らずに走り、あたしの体をすり抜けて、すぐ左側にある階段を駆け上がっていく。きっと二階に彼女の部屋があるのだろう。あたしは当然のように追いかけようとして、当たり前のように光に包まれた。
次の場所は教室だった。あたしは黒板の前に立っていて、教室にいる小学生たちの誰もが入口のほうを見て笑っている。
開いた戸と壁の間で、凛ちゃんは赤いランドセルを背負ったまま呆然としていた。呪いだの祟りだの、そういう侮蔑と嘲笑が混じった言葉の暴力が次々と彼女に投げつけられている。そして見て見ぬふりを決め込むグループの中には、あの屋敷で一緒だったはずの子供たちの姿もあった。
「……ちがうもん。あたしが勝手に転んだだけだもん」
彼女の反撃は、とても弱々しかった。ランドセルの帯をぎゅっと握りしめる手はひどく白んでいる。
けれど、だからだろう。相手の抵抗が弱ければ弱いほど、クラスメイトが浴びせかけてくる言葉の暴力は余計に勢いづいてくる。
「たたり女! たたり女! あいつに近づくと呪われるぞ!」
「ちがうもん! あたし、呪われてなんかないもん!」
「だったらなんで骨折したんだよ! あの家に入って、お化けを見たからだろ! それもお化けに足を引っぱられたから転んだんだ!」
「ちがうよ! あたしだけじゃないもん! お化けを見たのは、あたしだけじゃない!」
彼女は急いで、あの時に一緒だった友達のもとへと駆け寄った。
その表情は、本当に、とても真剣そのもので。
「ねえ、見たよね? いっしょにお化けを見たんだよね」
「……見てない」
一瞬の沈黙。凛ちゃんが息を呑んだのが、はっきりと伝わってくる。
「……うそ。あの家に入ろうって言い出したの、トモくんじゃない」
「そんなこと、おれ、言ってないよ」
「うそ! トモくんが言い出しっぺなのに、どうしてそんなこと言うの!」
「だから、おれは言ってないってば! おまえこそ変なうそをつくなよ!」
たぶんトモくんは、その時、悪気があって突き飛ばしたわけじゃないんだろう。
でも凛ちゃんは尻餅をついた。見上げる者と見下ろす者との、絶対的な隔たりを感じて。
「……いっしょに、あの家に入って、お化けを見たのに」
「おれは、行ってないよ。あの家なんか、一度も入ったことなんてない」
「ちがう! ちがうよ! おねがい、本当のことを言ってよ!」
「うるさいな! おれは何も見てないって言ってるだろ! そもそもおれたちはあの日、おまえみたいなうそつきなんかと、いっしょに遊んでないんだからさ!」
今度こそ、彼女は言葉を失ったようだった。そして追い打ちをかけるように、周囲から遠慮のない言葉の暴力が飛んでくる。祟られた女、呪われた女、嘘つき女――どこにも居場所がない凛ちゃんが教室を出ていった瞬間、また光が襲いかかってきた。あたしは甘んじて、その強烈なホワイトアウトを受け入れた。
凛――黒木、凛。
子供の頃の先輩は、薄暗い部屋の中で泣いていた。どうして友達が嘘をつくのか、なぜ自分だけが嘘つき呼ばわりされるのか、本当に訳がわからないからだろう。
無論、その理由には論を待たない。友達は本当に『お化け』を見て、だからこそ彼女の骨折を知り、半信半疑の『祟り』や『呪い』を笑えなくなったのだろう。もしかしたら自分も祟られ、呪われてしまうかもしれない。たとえ凛ちゃんの怪我がそういう類の代償でなくても、自分の不幸には『お化け』の力が作用して、一生付きまとってくるかもしれない。そんなのは絶対にいやだ。けれど、一度作用してしまったら、どうすればいいのかもわからない。近所のお坊さんに『お化け』を祓う霊能力があるだろうか。とてもじゃないけど信用できない。だからといって、誰を頼ればいいのかもわからない。――だったら、初めから『お化け』なんて見なかった。むしろ、あの屋敷にも行かなかったことにすればいい。
あるいはもっと単純に、屋敷に忍び込んだことが露呈して、先生や両親に怒られてしまうのが嫌で、懸命に嘘をついたのかもしれない。
トモくんたちが実際に、どういう理屈の末に先輩を見捨てたのかはわからない。だけど、黒木先輩はそうして友達に裏切られてしまった。先輩は正直に告白して、友達だけが嘘をついた。痛い思いをした彼女だけが笑われて、逃げた友達は口裏を合わせたように他人のふりをして、やがて目に見えるように先輩だけが避けられて。
怪談話や肝試しなんかに本気になれるのが子供の頃なのだ。信じる信じないの問題ではなく、ふとしたきっかけで生まれる好奇心だけで夢中になれる時期、だからこそ刺激的で楽しいだけで良かったはずだった。なのにそれで済まなくなったのは、現実に『本物』と遭遇したせいか、はてまた反道徳的と知りながらも自分が助かりたい一心からなのか。
机に突っ伏して泣いていた少女が、少しずつ女子高生の――あたしの知っている先輩の後ろ姿を取り戻していく。




