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黄金魂  作者: 天野東湖
プロローグ
1/65

九年前

 仙道彰が帰宅して自室に戻ると、ややあって窓ガラスを叩く音がした。重量感のある、どんどんという音だ。それで早速かと思って窓を開けると、神崎茜が向かいの窓から身を乗り出して竹刀を構えているのを目撃する。


 途端に呆れ顔をする少年をよそに、少女は悪戯っ気のある笑みを浮かべたまま、竹刀を背中に隠した。それでも後頭部あたりから天井に向かって竹刀の切っ先が露出しているのは、子供ゆえの身長だからだろう。


「おかえり。きょうはどこにいってたの?」

「べつに。どこだっていいだろ」


 そうして今日もまた、彼は素っ気なく背中を向ける。埃と塵と汗で汚れた私服を脱ぎ捨て、洗剤のいい香りがする部屋着に袖を通していく。

 だが、私服を脱ぎ捨てた場所がいけなかった。近場にある秘密の遊び場、無人のビルの内部を冒険していて付着したシャツの汚れが、くしゃくしゃのベッドシーツに細かい塵埃を落としていくのだ。げ、と彼が気づいた時にはもう遅い。


 窓枠からしっかり見ていた幼馴染が、ここぞとばかりに声を上げた。


「せんたくものは、すぐにせんたくきのなかにいれないといけないんだよ」

「う、うるさいな。どうしようとおれのかってだろ」

「だめだよぉ。あきらがねるところ、よごれちゃうじゃない」

「いいんだよ、しーつごとかえれば」

「……かいしょうのないおとこのこは、おんなのこからきらわれちゃうんだよ?」

「きらわれてけっこうだね。おれはおれでじゆうにいきるんだ。だからおまえもいちいちかまうなよ」

「もう、またそんなこといって。あしたはしょうがっこうのにゅうがくしきなんだから、もうちょっとあかるいこといおうよ」

「うっとうしいな。おまえにはかんけいないだろ」


 むっ、と下唇を尖らせる彼女に聞こえないよう、彰は小さく鼻を鳴らした。


 この、何かと世話を焼きたがる幼馴染の存在を、仙道彰はこころよく思ったことがない。記憶にない赤子の頃から、たまたま親同士の交流があったからこそ付き合うようになった程度の間柄なのに、彼女はなぜかしきりに気を使ってくるのだ。


 確かに、とても活発な女の子であることは、すでに誰もが認めているところではある。わずか六歳にして鉄棒で大車輪ができるほど運動神経が良く、二桁ならフラッシュ暗算も可能なほど頭も良い。それゆえにご近所からは天才少女と呼ばれ、そんな彼女の幼馴染をしているものだから、仙道彰は何かにつけて神崎茜と比べられる日々を過ごした。隣の茜ちゃんはしっかり者なのに、茜ちゃんを見習って好き嫌いをなくしなさい、茜ちゃんなら率先して家事を手伝ってくれるのにな、うちも茜ちゃんみたいな子が欲しかった――。


 うんざりしていた。

 自分には居場所がないと思った。


 だから彼は、暇があれば外出して足任せに近所を探索するようになった。日常にはない、もっと自分を必要としてくれる世紀の大発見を求め、まだ両親にも連れてもらった覚えのない場所まで遠出しては、日が暮れる夕方頃に家に戻って、一家団欒という退屈な時間を過ごすようになっていた。


 家事をそつなくこなす父親はいつも優しかったし、厳しいながらも愛のある言葉を投げかけてくれる母親はいつだって温かかった。父親は売れているのかどうかもわからない探偵業を営んでおり、母親はいつも疲れた顔で帰宅する刑事という職業に就いていた。世間一般から見れば少し特殊な家庭なのだろうが、だからといって二人に八つ当たりしたことは一度もない。ただ、なんとなく恰好いいと思っていた二人の職業に対する現実と限界を目の当たりにして、ふと肩の力が抜けるように憧れも尊敬もできなくなった、ただそれだけのこと。


 いつから両親を冷めた目で見るようになったのか、仙道彰は思い出すことができない。五歳の頃までは神崎家に預けられるほど多忙だった母が突然結婚して、いきなり父親を名乗る男と同じ家の中で住み始めるようになってから早一年――きっと、気がつけば幼馴染を疎んじるようになったように、両親に対する親近感も抱けなくなってしまった程度のことなのだろう。そのように馴染めない環境に対する偏見を軽視したまま月日が経てば、孤立する理由ですら、もう必要ではなくなっていた。むしろ自ら進んで周囲との関係を断ち、もっと別の居場所を探すことに楽しみを見出すようになっていったのである。


 そういう日がしばらく続いて、彼はやがて『ある発見』を楽しむようになった。今日も行った無人のビルで、誤って階段から転げ落ちた時に気づいた出来事だった。わかりやすく『能力』とでも言えばいいだろうか。運命そのものをがっしりと掴んだような手応えに、少年は興奮のあまり一晩を寝ずに過ごしたものだ。


 だから仙道彰は、毎日のように顔を見せてくる神崎茜に対して、わずらわしくはあるが二度と感情的にはならないと心に決めた。彼女だけにではなく、両親に対しても以前より言葉を交わして会話を弾ませるようになった。それもこれも、自分だけの『とっておきの秘密』があればこそ為し得た『変化』である。しかもその力は、無人ビルで何度も実験を繰り返した通り、たまたま不幸中の幸いに恵まれただけの偶然の産物ではなかったのだ。


 目の覚めるような実感だった。

 目に見えない何かに選ばれた快感が体中を支配した。


 ――これでもう、こいつと比べられても痛くも痒くもない。


「……そんないいかたしなくてもいいじゃない。あたしたち、おさななじみなのに……」

「べつに、すきでおさななじみになったわけじゃないしな」


 その一言が、感情に走らせたのか。


 少女は弾かれたように窓を離れ、何もかもを拒絶するかのように強く扉を閉めて部屋を出ていった。窓は開いたままなので、幼馴染の女の子らしい室内が見て取れる。

 いい気味だ、と思った。なんの罪悪感もなく、心の中でそう呟く。


 とりあえず茜のことは放っておいて、お気に入りのハーフパンツに着替えた時、慌ただしく階段を駆け上がってくる足音が聞こえてきた。今、仙道彰の他に家にいる人間は父親しかいない。茜に冷たくしたことを早速聞きつけてやってきたのかと思うと、何もかもが億劫になる。

 そんな彼の思いとは裏腹に、部屋の扉は乱暴に開け放たれた。


「彰! 今すぐ茜くんの部屋に飛び移れ!」


 一瞬、父が何を言ったのかわからなかった。まさか、他人の家に忍び込んでまで謝りに行けと言うわけではないだろう。


「は? なんで――」


 そこから先は何も言えなかった。振り返った瞬間に絶句するほど、父親の異変は凄まじかった。


 父の顔は、まるで猫の爪にしゃにむに引っ掻かれたように傷だらけだった。そして普段から野暮ったく着こなしているセンスのない私服も、今までどこを転げ回ってきたのかと思案を巡らすほど擦り切れている。


 父の身に何か、ただごとではない異変が差し迫っているのは明白だった。しかし少年は何も言えず、ただ黙って硬直している。おそろしい何かが父を追い詰めている、だが、そのおそるべき正体不明があまりに唐突すぎて謎だらけなのでひたすら混乱して、身動きがとれなくなっているのだ。


 そして彼は、確かに聞いた。

 こつりこつりと耳に届く、不穏な靴音の接近を。

 まるで地の底から踏み上がってくるかのように、ただ冷然と、ゆっくりと階段を上ってくる。

 凍りつく父の顔。

 しんと静まり返る夕暮れ時。

 父の背後の暗闇に、口元が裂け上がった白い狐の面妖が浮かび上がる。


「――絶望する。それは人が、自分の無力さを憎んだ瞬間にこそ、初めてその身に沁みるもの」


 その面妖に、仙道彰は恐怖した。

 お祭りの屋台でよく見かける、気安い仮面のはずなのに。

 今はそれが、醜悪な妖怪の象徴に見えて体が震えてしまっている。


 父が、機敏な動作で『彼』と対峙した。


「狐憑き……ッ!」

「では、その瞬間とはどのようにして訪れるのか。君の眼を見れば嫌でもわかるよ、仙道恭一郎。きっと、君の奥さんの眼を見ても、今と同じ『もの』が映るんじゃないかな」


 途端、父が懐から銃を取り出して、躊躇なく発砲した。三発もの弾丸が、至近距離から『狐憑き』と呼ばれた男に食い込み、その体を廊下の壁面に激突させる。崩れ落ちた仮面の男は、当然だが起き上がる気配を見せない。


「な、え、あ――」


 そんな、まさか、ありえない、父が人を殺したなんて――そう思い込む間もなく、仙道彰はやがて、奇妙な笑い声が室内を反響するのを耳にした。父のものではなく、間違っても自分のものでもない、第三者の不気味な笑い声。


 倒れたはずの狐憑きが、頭から起き上がってくる。


「彰! 早く茜くんの部屋に移るんだ! 今すぐに!」

「で、でも」

「逃げるなら逃げたまえ。だが行く先には気をつけろよ少年。君が逃げた先にいる人間が、これからも生きていけると思うなら」


 それで、仙道彰は決定的に動けなくなった。

 父が叫び、仮面の男に突進する。

 だが狐憑きは微動だにせず、むしろ自然体のまま、父を押し返して前進し始めた。

 彼は父を見ていない。

 ただ、少年だけに目を向けている。

 それは、彰にもわかっていた。

 狐憑きの目的は、自分なのだ。

 日常を地獄に変える恐怖が、おそろしい人間の形をして近づいてくる。

 逃げねばならない。

 しかし、逃げる場所がない。

 声帯が震え、怯える心が、体を極度に緊張させている。

 頭が混乱しきっていた。


 逃げなければ、自分が死ぬ。

 逃げ続ければ、他人が死ぬ。


 疑問すら許されずに突きつけられた選択肢。

 どちらが正しいのか、あまりに理不尽すぎて、少年にはわからない。


「彰を殺させるものかッ!」

「それでこそ家族だな、恭一郎。楽しかったか? 嬉しかったか? 日々の何気ない思い出こそが、かけがえのない人生の宝物だと心の底から実感できたか? ああ、だからこそ余計にかわいいね、君の子供は。まるで恭一郎の生き写しのように優しい心を持っているようだぞ。素晴らしいじゃないか。他人の命を駆け引きにはできない正義の味方。正しいからこそ美しいのか? ――なら、子供にもわかるように正しく説明してやらないとな」


 狐憑きが、距離を開けたまま、あっさりと立ち止まる。


「自殺しろ、少年。そうすれば君の家族と、幼い友達の命だけは助けてやる」


 仙道彰の目尻に、大粒の涙が浮かび始めた。

 それほどまでに、狐憑きの言葉は単純明快だったのだ。


 ――どちらが正しいのか、あまりに理不尽すぎて、少年にはわからない。


「貴様は、貴様という奴は!」


 怒気で声を荒げる父の言葉がくぐもり、その足が地面から浮き上がっていく。

 狐憑きが、片手だけで彼の首を絞め、その体ごと持ち上げているのだ。

 拳銃で負ったはずの傷をかばう素振りすらなく、自分の腕時計をすら見やる余裕ぶり。


「一分だ。それが、君の父親が死ぬまでの時間だぞ少年。あと五十八秒、五十七秒……」


 刻限が、きりきりと胃を締めつけるように迫ってくる。

 なんとかしなければならない。

 だが、どうすればいいのだろう。

 少年が隠し持つ能力では、今の状況を打開することはできない。

 それは即ち、誰も救うことができないことと同じ意味を持つ。

 父親も、友達も、そして自分自身さえも。


「良い顔だ、少年。君の心を支配する絶望が、ひしひしと伝わってくる」


 仙道彰は答えない。途轍もない哀しみで、無力感を背負い込む肩が息をする。

 そして、世界が歪むような眩暈と、若干の吐き気。


「でもね、それは仕方がないことなんだ。私は無敵だから、誰も私の前では、希望を持つことができない。ないものは無意味だ。そして無意味なものは、どうしても価値がない」

「かちが、ない……?」

「自分の力では変えられない未来。それは起こるべくして起こる運命だ。私は無敵で君は無力。ほら、どう頑張ったって運命は変えられないだろう? ゆえに変えられないものは、考える価値もない」


 変わらない運命。

 定められた結末。

 それは死だ。

 理不尽な死。

 自分が死ぬか。

 他人が死ぬか。

 たった六歳の少年に託された、残酷な運命に踊らされる命の天秤。


「迷うことはないさ。自分の命が惜しければ、ただ黙って目をつぶっていればいい。あと二十六秒、二十五秒……。心配するなよ。その間に私が全てを終わらせてあげるから」


 父親が死ぬ。

 友達が死ぬ。

 それを黙って、見て見ぬふりをしろという。

 優しい誘惑。

 少年はふと考えた。

 今まで居場所を奪ってきた面倒くさい連中に、吐き気がするほど悩む価値が、本当にあるのだろうか。

 連中がいなくなって困ることは、じつのところ何一つないのではないか。

 むしろ邪魔者が全ていなくなれば、新しい居場所ができるのではないか。


 狐憑きが、目を閉じている間に、全てを終わらせてくれるから――。


「……ほんとうに、おれがしねば、みんなをたすけてくれるんだな」


 仮面の男が、にやりと笑ったような気がした。


「ああ、本当だとも。私は勇気ある君の行動を評価する」


 仙道彰は、息を切らして窓枠に足を乗せた。

 卑怯者にはなりたくない。

 奴と同じ悪党にはなりたくなかった。

 しかし、三階の窓から見下ろす地面までの距離は、かなり遠い。

 落ちたら痛いだろうか。

 足から落ちたら、死ぬに死ねないだろうか。


「残り十秒。九、八」

「わかってる! わかってるよ!」

「六、五、四」


 目をぎゅっと閉じて、何もない空中に歩いた。

 足場がなくなり、体が宙に浮いて、その余韻に浸る余地なく即座に落下する。

 血の気が引いていく感覚。

 真っ逆さまに落ちていくというのに、意外と頭の中は冷静だった。


「だめーっ!」


 だからだろう。

 なんの衝撃もないのに落下が止まった違和感に、すぐさま気づくことができたのは。


「なっ」


 彰が驚くのも無理はない。

 彼の自殺を止めたのは、神崎茜が必死に手を伸ばして、少年の腕を掴んでいるからだ。

 しかも下手をすれば、体の半分も窓枠から乗り出している彼女まで落ちてしまいそうなほどの、危うい体勢で。


「ばかやろう! はやくてをはなせよ!」


 しかし幼馴染は首を振る。


「いや! あきらがしんだら、あたしもういきていけない!」

「なにいってんだ! おまえまでいっしょにしぬつもりかよ!」

「いいもん! あきらがしんだら、あたしもいっしょにしんでやる!」


 その時、こいつはばかだ、と思った。

 馬鹿で莫迦で、本物のバカだと思った。

 しかしそう思った途端、なぜだか涙が溢れて止まらなくなった。

 一体こいつのどこが天才少女なのだろう。

 唐突に部屋を出ていったと思ったら、今度はひょっこりと現れて、頼んでもいないのに勝手に手を差し伸べてくるのに。

 何がそんなにも悲しいのか、目を真っ赤にさせた不細工な泣き顔で、それこそ支離滅裂な言葉ばかりを口にするのに。


 仙道彰が死ねば、神崎茜は助かるのに。

 神崎茜は、仙道彰に死んでほしくないという。


「うるさい! おれは、おまえ、おれが――、ッァァァアアアああああ!」


 涙が、どうしても止まってくれなくて。


「――それでいい。よくやったぞ、茜くん」


 遠くから、父親の声がする。


「バカな、お前、まだ生きて!」

「彰! よく覚えておけ! 絶望など怖れることはない! 重要なのは戦う心だ! 戦い抜く意志こそが肝心なんだ! 戦って、戦って、そうして生きて悪と戦い抜く! それが男にとって一番大切なことなのだ!」


 茜の細身の体に、一体どれほどの潜在能力が秘められているのか。

 仙道彰は、彼女の渾身の力でなんとか部屋に引き上げられ、死の憂き目を拭っていた。

 しかし父は、変わらず狐憑きと対峙している。


「なぜだ! 恭一郎、喉を潰されてなぜ死なない!」

「僕にも、正確なことは、わからないが……どうやら『変えられない運命を変える』のが、僕の能力らしくてね」

「――運命を、変える能力、だと……ッ!」


 狐憑きが、激しく狼狽(ろうばい)している。

 父を追い詰めている悪魔が、逆に父に追い詰められている。


「茜くん。わがままなお願いだが、息子をよろしく頼む」


 その父が突然、自分の衣服の胸元を引き裂いた。

 狐憑きが、息を呑む。


「恭一郎! 体に巻きつけている、それはッ!」

「とうさん!」


 初めて、父のことを、とうさん、と呼んだ。


「泣くな」そうして振り返る父は、あくまでも笑顔のままで。「僕たちは男だろ」


 刹那、父の体が一気に膨れ上がり、炎と煙と光の風をともなって爆発した。

 すさまじい熱風が少年にも直撃して、暴力的に吹き飛ばされる。

 しかし直前に神崎茜が覆いかぶさり、仙道彰は無傷のまま立ち上がることができた。

 後に残ったのは、無残な灰燼と化して崩壊した、少年の部屋が覗けるばかりで。


「そんな、うそだ、こんなことって」


 父と狐憑きの姿は、もう、どこにも見当たらない。


「とうさァァァァァァァァん!」


 無常の叫びが、立ち昇る炎と、今頃やってきた津波のようなサイレンとともに、黄昏の空に溶けていった。


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