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心の中でなんとかしなくてはと思うのだが、頭はぼうっとして、一瞬ふっと意識が落ちそうになる。飲みすぎたのか、急にアルコールがまわってきたようで、身体に力がはいらず思うようにならない。それでも澪は、はっと我にかえって、もう一度、倉元の腕からすり抜けようと力を入れようとした。その瞬間、急に体が軽くなった。
「倉元さん、ちょっと冗談がすぎませんか。」
聞き覚えのある声と同時に、倉元が押しのけられ、澪の目に流星の姿が飛び込んできた。
「りゅう…せ…い?」
澪は思わず、ふらついて倒れそうになった。流星がすかさず、腕を掴むと澪を自分の方に抱き寄せた。その時に見た流星の顔は今までに見たことがないくらいに綺麗で精悍な顔が険しく恐ろしいほどに凄みを増していた。
倉元は流星に押しのけられてよろけかけた体制を立て直すと、流星をじろっと睨んで挑むように微笑んだ。
「冗談のつもりはないが…。君には関係ないだろう?腐れ縁の春日君。」
不敵に倉元は笑う。
「ところが関係あるんでね。澪は俺のものだから。勝手に人のものに手をつけないで欲しいな。倉元さん。」
流星が静かに冷たく笑って返した。
「えっ?」
澪は流星の言葉に耳を疑った。
「ほお、でも、彼女はそう思ってないみただけど?」
二人はじっと互いに鋭い目つきでにらみ合っている。しばらくは何も言わずに沈黙していた。二人の間に緊迫してピリピリした空気が流れはじめ、一発触発の感じを察知した澪はとっさに声を上げた。
「すみません!倉元さん!ごめんなさい。」
突然,澪が強引に流星の腕をすり抜け流星と倉元の間に割って入った。
「あなたはステキな人だし、本当に憧れます。でも、ごめんなさい。私好きな人がいるんです。私がはっきり言わないから…。本当にごめんなさい。私はあなたとはいい仕事したいと本当、そう思ってて…。ごめんなさい。」
澪は腰まで深々と頭を下げると、倉元の顔を見ずに流星の腕を引っ張って走りだした。しばらく走って海の傍まで来ると、流星が強引に腕を引き、澪を引っ張って引き止めた。
「ちょっとまてよ!澪!誰だよ、好きなやつって!」
流星がむっとしてかなり機嫌悪そうに突っかかってきた。澪はアルコールの所為か、走ったことで心臓が煽られて息が上がっている。胸をさすりながら少し中腰になってつらそうに息をしていた。それでも呼吸をすばやく整えると、澪は負けじといつものように突っぱねた。
「そんなの…誰でもいいじゃない!」
そう言って流星に振り返った。
「それより、いつから私はあなたのものになったわけ?人前で適当なことを言わないでよ!」
「適当なんかじゃない!」
流星が真顔で澪をじっと見つめる。澪は瞬間、息を飲み込んだ。そして…沈黙が続く。何か言わないとけないのに言葉が出てこないのがひどくもどかしい。澪の鼓動は痛いぐらいに胸を打ちつけ、その音が体中に響き渡る。体の中の熱い血がざわざわとどよめくように全身を駆け巡った。
「俺は…おまえのことがずっと好きだったんだ!」
流星が堰を切ったように声を荒げた。その瞬間、その吐き出された言葉に息が止まりそうになる。
「えっ?うそ…。いつもそうやって私をからかうんだから…。いい加減にしてよね!」
「嘘なんかじゃない!」
流星は澪をぐいっと強く抱き寄せて唇を強く押し付け、激しく性急に舌を絡ませてきた。澪は驚いて目を剥いた。そして瞬間、流星の胸にあった手に力をこめて少しだけ抗おうとしたが、流星の懐かしい香に包まれると諦めたように力が抜けていき、澪は次第に目を閉じて流星にされるがままに身を任せた。
流星はその様子に気付くと、一瞬唇を離してもう一度今度は優しく大事そうに唇を重ねる。そして澪の細い腰を優しく抱き寄せ、ゆっくりと唇を離して澪を愛しむような目でじっと見つめた。澪も流星の目をじっと思いつめたように見つめ返してくる。
「俺はおまえが好きで好きで、おまえしか俺の興味の持てるものなんてないんだ。俺はすべてがおまえ中心に回ってるぐらいおまえにイカれてるんだ。おまえが他の男に抱かれるなんて考えられない。そんな男は殺してやる!」
流星が真顔で怒ったように言う。
「流…せい…?」
「俺がどんな思いでおまえの傍にいたと思ってるんだ!俺は28年間、おまえしか見てない!」
流星が苦しそうに心のうちを吐き出す。
「うそ…。だって、流星はいつも綺麗な人と一緒にいたじゃない!」
「あんなのカモフラージュだ。おまえと離れたくなかった…。ずっと仲のいい幼馴染としてでもおまえの傍にいたかったんだ。こんなにおまえにイカれてることがわかれば、おまえが遠ざかっていくかもしれないって…。そう思うと怖くていえなかった…。だから、それなら、幼馴染でずっと傍にいるほうがいいと思ったんだ。でも…ダメだ。やっぱり…。あんなやつに持っていかれるくらいなら、俺は死ぬほうがいい。」
「流星?」
「俺はおまえが好きだ。28年間おまえばかり見てきた。これから先もおまえしかない。こんな俺は嫌か?澪?」
澪は潤んだ目でじっと流星の顔を見上げると、流星の背中に手を回して自分から体を持たれかけてしっかりと抱きしめた。そして流星の胸に頬を摺り寄せると、肩で大きく息を吸った。
「澪?」
「…私、ずっとあなたが好きだった。でも、あなたにとって私なんてただの幼馴染でまったく女として見られてないと思ってた。あなたの周りにはいつも綺麗な人がいて…。わたしなんかと違って明るくて話が上手でかわいくて…。私はいつも悔しかった…。流星の隣は私の場所のはずなのに…って。だから好きになっちゃだめって…。私、あなたが急に抱きしめてきたり、キスしようとするのも、からかってるんだとばかり思ってた。それでも、そんな風にあなたが傍にくるだけでどっか期待してる自分がいて…。そのたびに私は、ただの幼馴染なんだからっていつも自分をセーブすることで精一杯だった。」
澪は流星の胸に顔をうずめたまま、搾り出すように低い声で言った。身体は小刻みに震えている。流星は少し戸惑いながらも自分の腕の中で小さく震える背中を優しくそっと擦ってやった。その瞬間、澪は堪えていた涙が溢れだした。
「流星のばかっ!なんでもっと早く言ってくれないのよ!私はあなたしか…あなたしか見てなかったのに!私だってどんな気持ちであなたの傍にいたと思ってるのよ!」
澪は泣きながら顔を伏せたまま流星を必死に叩く。流星はその手を掴んで受け止めるともう片方の手で澪の頬を伝う涙をぬぐってやった。
「澪…、わかった…、ごめん…。澪…、もう泣くな。」
流星は自分の額を澪の額にくっつけて優しくなだめるように声をかける。そして今度は愛しむように軽く唇を甘噛みして大事そうに唇を重ねた。それはやがてお互いを確かめ合うように深く甘い口づけに変わっていった。澪は流星の甘い香に包まれて、流星の体から響く心臓の音や少し熱っぽいぐらいのぬくもりを感じているうちに、いつの間にか心がおだやかに満たされてく。澪はずっとここに帰ってきたかったのだ。流星の傍に…。
しばらくして流星が耳の傍で囁いた。
「帰ろう。澪。」
澪は黙って頷いた。
帰りのタクシーの中で、二人は何も話はしなかったが、流星はずっと澪の手をしっかりと握っていた。つながれた手から流星の熱っぽさが伝わってきて、澪はどうしようもなく、どきどきして体が火照って落ち着かなかった。お酒の所為じゃない。流星の所為だ。体の中心から湧き上がる熱に澪はぼうっとしていた。
二人は家の傍でタクシーを降りて歩いた。澪はなんだか今日は流星と離れたくなかった。それでも、家の前まで来ると、
「ありがとう…。おやすみ…。」
そう言って名残惜しそうに流星の手を離そうとした。その時、流星が強引に澪を引き寄せて抱きしめた。
「やっぱりダメだ。今日は離したくない。」
流星の体が熱を帯びて鼓動が早くなるのが伝わってくる。
「流星…。」
「澪…。もう誰にも渡さない…。」
二人はその夜、それまでの想いを埋めるかように何度も何度も抱き合った。
朝方、まどろむ意識の中、やや明るくなってきた部屋の中をぼんやり眺めた。そういえばもう10年以上流星の部屋をおとずれていなかった。さすがに子供の頃とは様子は違っている。それでもどこかなつかしさを感じる流星の空気感はかわっていなかった。
ふと、澪は流星のベッドの脇のテーブルに目をやって驚いた。自分の高校卒業の時の写真が飾られていたのだ。
「これ…。卒業式のときの…。いつの間に…。」
ふと気付くと本棚やデスクにも澪の写真がある。大学のときだったり、最近のだったり…。
「おまえの写真なんかいくらでもあるぞ。28年も一緒にいるんだ。それこそ、赤ん坊のときからずっとおまえだけを見てたんだ。きっと世間じゃストーカーって言われるぐらいにな。」
流星が照れながらぼそっと言う。
澪もずっと流星が好きで好きで仕方なかった。流星以外の人は考えたことがなかったのだ。同じ思いを流星も持っていてくれたかと思うと澪は本当に嬉しくて心にじんと熱いものがこみ上げてきた。
澪はもう一度振り向いて流星の胸に顔をうずめると、流星のぬくもりを確認した。暖かく懐かしい思いで胸が一杯になる。そしてそこが、どんなことがあっても澪の安心できる唯一の場所であり、ずっと帰りたかった場所だったのだとあらためて感じて、今その中にいられる幸せを噛み締めた。そしてその傍らで流星は大事そうに澪を抱きしめて、同じくその幸せなぬくもりを実感していた。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
本当はこの話は書きあがっているつもりではじめたのですが、書いているうちにどんどん書きたいことが出てきて結局なんどもなんども書き直すはめになりました。笑
それでようやくここまできたのですが、ようやく次回が最終話です。