6#
朝は流星のモーニングコールより、一時間早く起きた。朝食はいらないと母に告げると足早に会社に出かけた。昨日深夜まで残業したが、まだ仕上がってないのだ。だから今日の午後の検討会までに完成させようと早く出社することにしたのだ。いつもなら、早出する時には前日に流星に一言断っておくのだが、昨日のことがあったので、バツが悪くてそのまま無視していた。
とはいえ、流星が怒るのは目に見えていた。
その不安を抱えながらも、流星は関係ないんだからいちいち断らなくてもいいのよ、子供じゃあるまいし。もういい年の大人なんだから。そう思いながらもつい流星のことを考えてしまう。
いつから、こんな風になってしまったんだろう?昔はもっと楽しくいられたのに。大人になるほどに流星が遠くなっていくような気がした。流星は幼い時から、憎まれ口をたたきながらもいつも傍にいて澪をあらゆるものから守ってくれた。
5歳の頃、父が肺炎で入院ことがあった。その時に3日間、澪は流星の家に預けられた。その前もしょっちゅう流星の家に遊びに行っていたが、夜、両親の元から離れて泊まるのは、その時が初めてだった。一度は眠ったものの、夜中に目が覚めて、寝ぼけていたのかまわりの見慣れぬ景色に怖くて不安で泣き出した。その時、流星が澪の声にすぐに気付いて隣の部屋からやってきて、一緒に寝てくれた。その時ずっと手を握っていてくれたのだ。澪は流星が傍にいれば、なぜか安心できて、それからは夜中に起きることはなく、ぐっすり眠れた。
こんなこともあった。小学校の高学年だったと思う。春先、川原で同級生と遊んでいた時、お気に入りの帽子を風で飛ばしてしまい、追いかけてついうっかり足を滑らしそうになったとき流星がかばってくれて、澪は川に落ちずにすんだ。しかし、流星は澪を助けた反動で冷たい川に落ちて、その後3日間熱をだしてしまった。澪はひどく心配したのだが、流星は、気をつけろよ、おまえはなにかに集中すると周りが見えなくなるからなと怒りはしたが、代わりに川に落ちたことを責めることはなかった。
流星はいつもからかうように接してきたり、澪に決して優しいことをいったりすることはなかったが、本当はいつも澪に優しかった。いつも、澪のために怒ってくれたり、さりげなく助けてくれたりするのだ。流星は普段、澪に憎まれ口をしっかりたたくので、その時澪は、売り言葉に買い言葉で突っぱねてしまうことが多かった。だからいつも澪は流星のやさしさに後から気付かされるのだ。澪はそんな流星を自分には特別な存在だと徐々に思い始め、中学の頃になると流星の存在は幼馴染から澪の中で一番大切な人に変わって行った。
それから10年以上が経つ。あいかわらず澪に憎まれ口をたたくものの、なんだかんだやさしいのも変わらない。変わったことと言えば、澪以外の女の人を連れて歩くようになったことだ。はじめはショックだった。何日も気がめいった。それでも、流星はそれまでと同じように澪の傍にいたので、何も変わらない現実にいつしか慣れて、気にはなるものの、わずらわなくなった。それでも、目の前で他の女と一緒にいるところを見せられると心が痛かった。
「そうよ、流星とは幼馴染なんだから、特別な感情をもったらだめよ。」
そう独り言で自分に言い聞かせると流星への思いに蓋をして仕事モードに切り替えた。
澪はパワーポイントで美しい資料をサクサク作り上げていく。V誌とのタイアップでクノチアキVS森川クリスで当初より増ページでいけること、V誌のみの企画でクノチアキブランドオリジナルブラシセットの携帯申し込みでの限定販売企画のこと、結城ななえの表紙の獲得などをまとめた。よし、完成!といきまいたところで、この企画だけでは、店頭販売を支援する施策が手薄なことに澪は気付いた。
前回は発売日を前倒しにされたことだけが敗因ではなかった。目立つ敗因ではあったが、本当のところは店頭販売を支援する斬新な仕掛けが不足していたため、結局現場の販売力のおかげでなんとか3位をキープできたのである。
このまま行くとまた、今回も現場の販売力だけに頼らねばならなくなる。澪はほとほと自分の甘さに嫌気がさした。しかし、そんな泣き言は言ってられない。でも、時間がない。どうするか?
店売を伸ばすために何ができるのか…。
澪は商品開発部で先日試作品を見せてもらった時のことを思い出していた。本当に、ステキに仕上がっていて、パッケージデザインから新アイテム、色揃えなど今まで以上に自信がもてるものばかりだった。それだけにうまく企画をのせることで大ヒットにつながるはずだ、これで万年3位を抜け出せるかも…と、澪は胸が高鳴ったのだった。澪はしばらくその時のことを回想していた。そして、急にはっとして時計を見て、慌てて受話器をとった。
「おはようございます。上野さんはもういらしてますか?」
上野がちょうど姿を見せたらしく電話を取り次いでもらえた。澪は商品開発担当者の上野に相談を持ちかけた。
「アイシャドウと口紅のケースを特別仕様として追加できないでしょうか。」
澪は、人気ブランドとのコラボでケースを作り、それを予約者のみ購入できるサービスを提案した。しかも、価格設定を同じ中身の定番となる予定のものより、高く設定すると言う内容だ。 毎回予約得典にはオリジナルの化粧小物などをプレゼントしていたが、今では定番のようにどこもが実施していて、最近では当たり前になってきている。高感度の消費者は、はなからプレゼント品に期待を持ってない。ついていればラッキーぐらいで、ありがたみはさほど感じていない。それではたいして店売のバックアップにならなかった。それよりも、商品そのものが欲しいという気にさせることが大切だ。
澪が考えたのは、高感度層は多少デザイン料など上乗せしても、魅力のあるものなら喰らいついてくるはず、ということだった。販売個数を伸ばすには、商品そのものを手に入れたいと思わせることが大切である。もちろん、中身にも自信があるので両方の相乗効果で予約だけでヒットに持ち込めるはずだと踏んでいるのだ。しかも、予約数しか作らないので、お客様にとってはプレミアム商品になる上、こちらも在庫をすべてはけるというメリットもある。そして、もともと準備している商品は見た目のデザインもとてもいいので、その後、定番として店頭にならんでもさらに発売後の盛り上がりを十分期待できると澪は読んでいた。
はじめは上野は渋ったが、候補として考えているブランドを列挙すると、その契約が取れたらなんとかすると約束してくれた。
電話を切ると、早速そのブランドの選定に入った。いくつか検討したが、結局デザインは、海外も含め、今大人気になっている、クリスタルのブランドシンシア社とのコラボで交渉してみることにした。シンシアはどの雑誌にも毎月取り上げられている上、デパートからの積極的な誘いで次々とショップがオープンし、どこも盛況で話題になっていた。澪も好きでよく身につけている。
とにかくこの企画は今日の午後には仮提案として持っていくしかないが、OKをもらえればなにがなんでも絶対に契約を取ろうと澪は心に決めた。澪がその内容をさっとまとめたところで、そろそろ本来の始業時間が近づいてきた。
8割方プレゼン資料を作成し終えると、澪はやっと切羽詰った緊張感から解放された気分になった。やはり、仕事をするなら疲れがたまっている夜よりも朝の方が頭の回転がいい。そう思いつつサンドイッチをかじりながら調子よくキーボードを打っていると、飯田がやってきた。
「おはようございます。やっぱり、来てましたね。流星先輩から電話がありましたよ。今日は早出っていう話だったのかって。不気味なぐらいぐらい怒ってましたよ。あとでなんとかしといてくださいね。俺は関係ありませんからね。先輩。」
すっかり仕事にどっぷり浸かって恍惚としていたところを飯田に邪魔されて、超不機嫌な顔で飯田を睨みつけた。
「ちょっと!せっかくいいところだったのに、流星の話なんてもちださないでよ。ひらめきがどっかにいっちゃうじゃない。流星なんか勝手に怒らせとけばいいのよ。あんな我がままな女たらしなんかに文句言われる筋合いはないわ!」
飯田はしまったと思った。どうやら地雷をふんだらしい。やっぱり、昨日から怒っているのだ。澪は怒っている時はひたすら仕事に逃げ込むタイプだった。この二人はほんとどこまでいっても意地っ張りで一向に進展しない。
この先にこの二人にハッピーエンドはあるのだろうか…。
飯田は澪も流星のことを意識しているのはわかっているだけにもどかしく思ってまた、深くため息をついた。
午後の検討会では、澪がまとめた新製品のMK計画は絶賛され、そのためのバックアップはいとわないと幹部からのお墨付きをもらった。逆境にたたされると澪は驚くほど勇敢に仕事をする。飯田はその姿に流星とは違う尊敬の念を抱いていた。
この人も才能豊かなひとだからな、流星先輩もたいへんな人に惚れてますね、とふと流星を思いやった。飯田がそんなことを考えてぼんやりしていると、急に澪が話しかけてきた。
「飯田君、クノチアキの件、うまくまとめてくれたわ。あれがうちの切り札だから確約してなかったらかっこつかないとこだった。ほんと、あなたは頼りになるわ。ありがとう。」
嬉しそうに顔を蒸気させている。飯田は澪のめったにみせない無邪気な嬉しそうな顔を見て一瞬ドキッとした。
澪は飯田にとっても魅力的な女だった。近くにいると時々その魅力にいかれそうになる。そのたびに流星の恐ろしい睨みを思い出して、セーブするのだが…。流星先輩、早くなんとかしてくださいね。そうじゃないと俺のほうが我慢できなくなるんだから。澪の隣でキーボードを打ちながらまた、小さくため息をついた。
夕方めずらしく定時で帰ろうと会社を出たところで、澪は流星に呼び止められた。流星は怒っている。声を荒げたりはしないがむっとして怒っているオーラが立ち込めていた。澪はため息をつく。
「なに?今日はもう疲れたから帰ろうと思ってるの。用事があるなら、早くして。」
それは流星の神経を逆撫でしたようだった。綺麗な顔のこめかみが一瞬ピクッと動いたのだ。澪は嫌な予感がした。
「じゃあ、帰ろう。」
そう一言いって澪の腕を掴んで歩き出した。
「ちょっと離してよ。誤解されるじゃない!」
澪は流星の手を振り払おうとして流星と視線が絡み合った。流星は悲しそうな瞳を澪に向けてきた。澪ははっとして思わず固まってしまった。二人はしばらく睨みあっていたが、すっと流星が手を話して歩き出す。それから家に着くまで結局、一言も話をしなかった。そんなことは初めてだった。
最近、流星がおかしい…。
あなたはいったい何を考えてるの?
澪は流星の背中をじっと見ながら不安で押しつぶされそうだった。
次の朝、澪は部屋の内線電話で母親に起こされて驚いた。朝食のとき流星は?と聞くとしばらく忙しいから早出だから食事はいらないっていってたわとあっさり言われた。
なんだ、忙しいんだ、そう思ったが、いつも電話してくる声がないのはひどく寂しかった。早出のときでも、今まで電話はくれていたのに…と、ふと昨日の悲しそうな目を思い出して胸が痛くなった。なんだか今朝は胸焼けしてほとんど朝食を食べられない。母が調子でも悪いの?と心配そうに聞いてきたが、胃の調子がよくないだけと言い訳して早々に家を出た。
その日はあまり仕事にならなかった。流星の姿がどこにもみあたらないのだ。いつもは意識して避けているのだが、今日はどうしても目で追ってしまう。一日会議にでもはいっているのだろうか。何度もため息をつく姿に飯田がたまりかねて声をかける。
「どうしたんですか、今日は何度もため息をついちゃって。流星先輩となにかあったんですか?」
痛いところをつかれて澪は黙り込んでしまった。図星だったのか、まずいことを言ってしまったなと飯田はしきりに反省した。
しかし、同時に二人して落ち込んでる様子に首をかしげた。
今朝、出社したらもう既に流星が来ていて珍しいですねと声をかけると、黙ってじろっと睨み返された。飯田は朝から流星の機嫌が悪いのがわかってやばいと思ってかまうのをやめたのだ。
そう言えば、今朝は別々に来てたし、いつもなら流星は必ずこっちのエリアを時々観察するために視線をとばしてくるのに、今日はずっと姿をみせない。おそらくあのあと別室にこもったのだろう。飯田はやれやれとまた、大きくため息をついた。