病弱な幼馴染を優先する夫へ。あなたが三年買い続けた特効薬、うちの商会ののど飴ですわ
「すまない、イレーネ。コレットがまた発作を起こしたんだ」
結婚三年目の記念日。
前菜の皿が下げられたところで、夫は席を立った。
料理長が三日かけて仕込んだ鹿肉の煮込みはまだ運ばれてきていないし、燭台の蝋燭も半分も減っていない。
「お戻りは?」
「分からない。彼女には僕しかいないんだ」
ローラント・アッシュベリー伯爵。
私の夫は上着を掴み、振り返りもせずに出ていった。
玄関の扉が閉まる音を聞きながら、私は膝のナプキンを畳んだ。
三年前、私はベルク商会の娘としてこの家に嫁いだ。
伯爵家には古い名前と古い借金があった。
父の商会には金があって、足りないのは貴族とのつながりだった。
よくある政略結婚だ。
それでも婚礼の日、夫は「大事にする」と言ってくれた。
私はその言葉を、ほんの束の間だけ信じていた。
「奥様。煮込みは、いかがいたしましょう」
家令のハンスが静かに尋ねる。
「いただくわ。料理長に悪いもの」
一人で食べる鹿肉は、とてもおいしかった。
食事を終えて執務室へ移り、机の引き出しから伯爵家の帳簿を出す。
夫が数字に弱いので、この家の帳簿は嫁いだ日から私がつけている。
夫は月に一度、私が開いて差し出した頁に署名するだけで、そこに何が書いてあるかを読んだことはないはずだ。
最後の頁の余白に一行書き足す。
――四月十日。記念日。発作。
その上には同じような行がいくつも並んでいた。
私の誕生日。発作。
王宮の夜会。発作。
私の母が王都へ来た日。発作。
夫の幼馴染のコレット・ノークス男爵令嬢は、子どものころから体が弱く、胸の病でいつ倒れるか分からないのだという。
だから夫はいつでも彼女のもとへ駆けつける。
ノークス家の使いの少年はすっかり屋敷の顔なじみになった。
夫は少年の顔を見るなり、食事の途中でも来客の最中でも立ち上がる。
週に一度のお見舞いの日なら、夕方に花屋へ寄ってから出かけていく。
ただ、不思議なことに。
彼女の発作は決まって私に用事のある日に起きた。
◇
夫が帰ってきたのは、真夜中を過ぎてからだった。
執務室の扉が開く。
蝋燭の明かりに浮かんだ夫の顔は妙に晴れやかだった。
「起きていたのか。ちょうどいい」
夫は机の上に一枚の紙を置いた。
離縁届だった。
夫の署名はもう済んでいる。
「コレットに言われたんだ。わたしはもう長くないかもしれない、最後は好きな人のそばにいたい、と」
「まあ」
「僕は彼女を支えたい。妻として迎えたいんだ。君には悪いと思っている」
「この用紙は、どちらで」
「コレットが用意してくれていた。こういうことは早いほうがいいからと。優しい子なんだ」
発作で倒れたはずの人の枕元に、なぜか離縁届の用紙が用意してあったらしい。
それに本当に悪いと思っている人なら、記念日の夜にそんなものを持って帰ってはこない。
どちらも口には出さなかった。
「君は丈夫だから、一人でも生きていけるだろう。実家は大きな商会なんだし」
「ええ。そうですわね」
私はペンを取り、自分の名前を書き入れた。
イレーネ・アッシュベリー。
この名前を書くのもこれが最後だ。
夫が拍子抜けしたように瞬きをした。
泣いて縋るとでも思っていたのだろうか。
一年目なら泣いたかもしれないし、二年目なら理由を聞いたかもしれない。
でも三年目の私は、ペン先が乾くより先に紙を夫の前へ戻していた。
「承知いたしました。ただ、二つだけお願いがございます」
「なんだ」
「一つは、帳簿の引き継ぎです。三年分、私がつけてまいりましたので、締めてからお渡ししたいのです」
「……君はまた帳簿か。好きにすればいい」
「もう一つは、持参金です」
夫の眉がぴくりと反応した。
「王国法では、夫の側から申し出た離縁の場合、妻の持参金は全額返すことになっております。金貨二千枚。三十日以内に」
「ああ、それなら金庫にある。手をつけるなと、君がうるさく言っていたあの箱だろう。少し借りたが、まだ十分残っている」
夫は手を振った。
「明日にでも持っていけ。届けも、君が出しておいてくれ」
夫は離縁届を私の手元へ押し戻した。
「ありがとうございます」
私は深く頭を下げた。
夫がすれ違ったとき、上着からかすかに薄荷の匂いがした。
子どものころから嗅ぎなれた、よく知っている匂いだった。
◇
三年分の帳簿を締め終えたころには窓の外が白みはじめていたので、朝を待ってハンスに離縁届を預けた。
「王宮の戸籍局へ。受理の印をいただいてきてちょうだい」
「かしこまりました」
ハンスは何も聞かずに一礼した。
この老家令は、三年間いつも私の味方でいてくれた。
執務室の窓を開けると、春の朝の冷たい風が入ってきた。
私物は多くない。
衣装箱が二つと、実家から持ってきた算盤と、使い慣れたペンが一本。
侍女に指示して、昼までに実家へ発送する手はずを整えた。
実家の番頭のオットーにも使いを一人走らせた。
私は金庫を開け、持参金の箱を机に運んだ。
蓋を開ける。
金貨は底に薄く残っているだけで、数えてみると三百枚だった。
私は箱を机に置いたまま、帳簿を開いた。
そこへ、寝癖のついた夫が入ってきた。
「イレーネ、ハンスがいないんだが――なんだ、その箱は?」
「持参金の箱ですわ。旦那様が、明日にでも持っていけとおっしゃいましたから」
「ああ。持っていけばいい」
「三百枚しかございません」
夫は箱を覗き込み、絶句した。
「……そんなはずはない! 一度に五十枚ずつしか出していないぞ」
「その五十枚を、何度お持ち出しになりました?」
私は帳簿の頁をめくり、夫の前に置いた。
「こちらをご覧ください」
――六月。特効薬代、コレット・ノークス嬢へ。金貨五十枚。持参金の箱より。
その横には夫の署名がある。
次の月も。
その次の月も。
「結婚した年の六月から先月まで、毎月一度。三十四回。合わせて金貨千七百枚です」
「それは……仕方がないだろう。コレットの命がかかっていたんだ」
「ええ。旦那様は毎回そうおっしゃいました」
一度目のとき、私は止めた。
持参金は離縁のときにお返しするお金です、と。
夫は「離縁なんてするものか」と笑って、箱を開けた。
「ですから私は、持ち出すなら毎回ご署名をくださいとお願いしたのです。覚えていらっしゃいますか?」
「……覚えている。君はいつも、うるさかった」
「三十四回、一度も欠かさずご署名くださいました。旦那様の字ですわ」
夫の喉が鳴った。
「返すさ! 返せばいいんだろう。三十日あるんだ。領地の麦が売れれば――」
「今年の麦の売り上げは、金貨四百枚の見込みです。それも帳簿にございます」
「……」
「別邸と、王都の東の牧草地をお売りになれば、足りるかと存じます。買い手の当てでしたら、実家の商会にございますので、ご紹介できますわ」
夫の顔から血の気が引いていく。
だが、本題はこれからだった。
「旦那様。その特効薬がどこで買われていたか、ご存じですか?」
「どこって……コレットが、東通りの薬舗で買っていると言っていた。白い看板の」
「白百合薬舗ですわね」
「名前までは知らない。高い薬だから、名医の紹介がないと売ってもらえないんだと」
私はさっきの頁に指を戻し、特効薬代のすぐ下の行を示した。
――同月。白百合薬舗へ。ノークス嬢のお買い物、伯爵家の付け。銅貨八枚。
「白百合薬舗からは、毎月この請求が届きます。コレット様がお店で伯爵家の名前を出して、付けでお買いになるのです」
「銅貨……八枚?」
「二年と十か月、毎月でございます。どの月も、特効薬代のすぐ下に」
夫は頁をめくった。
次の月も、その次の月も、金貨五十枚の下に銅貨八枚が並んでいる。
「……なんだ、これは。銅貨八枚で、何を買っている」
「品名はお店の帳面にございます。白百合薬舗は、私の実家のベルク商会の店ですから」
夫が口を開けた。
「……は?」
「看板の下の小さな字までは、ご覧にならなかったのでしょうね」
そのとき、扉が叩かれた。
「奥様。ベルク商会のオットー様がお見えです」
戻ってきたハンスはそう告げながら、受理の印の押された離縁届の控えを私に渡した。
帳簿を睨んでいる夫はそれに気づきもしなかった。
◇
父の商会の番頭であるオットーは、私がおむつをしていたころから店の帳場に座っている。
「お嬢様。いえ、奥様。お呼びにより、参りました」
「もう奥様ではないの。今朝からね」
「さようでございますか」
オットーは眉ひとつ動かさなかった。
この人も大体のことは察しているのだ。
「伯爵様。本来、お客様の帳面はよそ様にお見せしないのが商会の決まりでございます」
オットーは抱えてきた分厚い帳面を机に置いた。
「ですが、こちらは伯爵家のお付けでございます。お代を払っておられるのは伯爵様。つまり伯爵様こそ、当店のお客様でございます」
オットーの指が帳面の一行を押さえる。
――コレット・ノークス様。滋養のど飴、薄荷。一瓶。銅貨八枚。アッシュベリー伯爵家お付け。
「毎月、一瓶ずつでございます。結婚なさった年の六月から、一度も欠かさず。お代は毎月、伯爵家からきちんと頂戴しております」
「のど、飴……?」
夫が繰り返した。
「特効薬だろう? 胸の病の。金貨五十枚の」
「当店で一番お高い薬でも、金貨二枚でございます。金貨五十枚の薬は、王都のどこにもございません」
「だが、コレットは……名医の紹介が……」
「旦那様」
私は帳簿を遡ってめくり、一年目の秋の頁を開いた。
余白には小さな字で書き込みがある。
――十月三日。コレット様の特効薬はのど飴であると、旦那様に申し上げる。
――旦那様のご命令により、以後この件は申し上げない。
「覚えていらっしゃいますか。結婚した年の秋に、一度だけ申し上げました」
あの日、私は白百合薬舗に寄った。
コレット様へ、私からもお見舞いの薬を贈ろうと思ったのだ。
店の薬師は首をかしげた。
あのお嬢様がお買いになるのは、のど飴だけですよ。伯爵様のお付けなの、と自慢しておられました、と。
私は店の奥でしばらく動けなかった。
帳簿の同じ頁に、金貨五十枚と、銅貨八枚。
どちらが本当の「特効薬」なのか、そのとき初めて分かった。
その夜、私は言葉を選びに選んで話したが、そのどれひとつとして夫の耳には届かなかった。
「旦那様は、コレットを疑うのかとお怒りになりました。嫉妬は醜い、二度とその話をするなと」
夫は無言で余白を凝視していた。
「ですから二度と申し上げませんでした。旦那様のご命令でしたから」
「……そんな、はずは」
「ただ、帳簿には毎月書きました。旦那様がご署名なさる、その頁に。禁じられたのは、口に出して申し上げることだけでしたもの」
夫の視線は銅貨八枚の行と、その横にある自分の署名とを何度も往復した。
三年間、読まずに書いてきた名前だった。
「お確かめになりますか?」
私は立ち上がった。
「今日は、ちょうどコレット様のお見舞いの日ですわね。いつもは夕方ですけれど、少し早めに参りましょう」
◇
ノークス男爵家の屋敷は王都の西にある。
いつもどおりのコレット様にお会いしたかったので、先触れは出さなかった。
夫は馬車の中で一度も口を開かなかった。
出がけに習慣で花屋へ寄らせた見舞いの花束を、膝の上で握りしめている。
向かいの席のオットーは帳面を抱えて目を閉じていた。
私は窓の外を流れる街並みを眺めた。
御者には、少し遠回りになる東通りを回るよう頼んであった。
白百合薬舗の前を通るとき、夫が窓に顔を寄せた。
白い看板の百合の花の印の下に、小さな字で「ベルク商会」と書いてある。
ノークス家に着いたのは昼を少し過ぎたころで、門をくぐると庭から笑い声が聞こえた。
芝生の上に白いテーブルが出ていて、若い令嬢が四人、焼き菓子をつまみながらお茶を飲んでいる。
真ん中で一番大きな声を上げて笑っているのが、コレット様だった。
淡い水色のドレス。
袖に真珠を縫い込んだ、新しい流行の形だ。
「それでね、ローラントったら、記念日の夕食を放り出して来てくれたのよ。奥様の顔が見たかったわ」
「ひどい人ねえ、コレット」
「この前の夜会の日も、呼び出したのでしょう?」
「お誕生日もね。あの人、奥様のご予定をなんでも話してくれるの。だから、呼ぶ日に困らないのよ」
「でも、そんなに呼び出して平気なの?」
「平気よ。だって、わたしは病弱なんですもの」
令嬢たちがどっと笑った。
夫の足が止まった。
コレット様がこちらに気づいた。
目が合う。
次の瞬間、彼女は胸を押さえて椅子に崩れ落ちた。
「ごほっ、ごほっ……ローラント、来てくれたの……苦しい……」
見事な早さだった。
令嬢たちが狼狽して扇で顔を隠す。
夫は駆け寄らなかった。
「コレット。特効薬は、どこだ」
「え……?」
「いつもの特効薬だ。今すぐ飲め。持っているんだろう」
コレット様は咳をしながら、手提げから小さな瓶を出した。
白いラベル。
百合の花の印。
――白百合薬舗、滋養のど飴、薄荷。
私が子どものころから見てきたラベルだった。
「一粒いただいても、よろしいかしら?」
私はコレット様の手から瓶を受け取り、一粒を口に入れた。
すっとする薄荷の味。
あとから蜂蜜の甘さが追いかけてくる。
昨夜、夫の上着からした匂いと同じだった。
「懐かしい味ですわ。子どものころ、風邪をひくと母がくれましたの」
「な、何よ。それは、わたしの特別な――」
「コレット様」
後ろに控えていたオットーが一歩前に出た。
「当店の、のど飴でございます。一瓶、銅貨八枚。毎月のお買い上げ、まことにありがとうございます」
コレット様の咳がぴたりと止まった。
「それと、そのドレス」
私はコレット様の袖に目をやった。
「袖に真珠を縫い込んだその形は、ベルク商会の仕立て部がこの春に出したものですわ。一番お安いもので、金貨九十枚」
夫はのろのろと首を巡らせ、コレット様を見た。
「……金貨九十枚?」
「ち、違うのよローラント、これは」
「僕が渡した金か」
「だって、くれたじゃない!」
コレット様は椅子を蹴るように立ち上がり、胸の病とは思えない大きな声を上げた。
「あなたが勝手にくれたのよ! 薬代だって言ったら、何も聞かずに毎月くれたじゃない! わたしが頼んだわけじゃないわ!」
「頼んだだろう! 苦しい、薬が買えないと、泣いて!」
「泣いたら勝手に出したのはあなたでしょう!」
お茶会の令嬢たちは一人、また一人と席を立っていく。
この話は明日には王都中の茶会に届いているだろう。
私はドレスの裾を軽く払った。
「旦那様。いえ、ローラント様。私はこれで失礼いたします」
「待て、イレーネ!」
夫が振り向いた。
声がかすれていた。
「離縁は取り消す! 僕が間違っていた。君しかいないんだ」
「離縁届は、今朝一番に受理されております」
ハンスが持ち帰った控えを差し出す。
戸籍局の赤い印がくっきりと押されている。
「ローラント様が署名なさって、私が署名して、王宮が受け取りました。もう、どなたにも取り消せませんわ」
「イレーネ……」
「箱に残っていた三百枚は、今朝いただいてまいりました。残りの千七百枚は、三十日以内にお願いいたします。牧草地の買い手は、オットーがご案内いたします」
オットーがうやうやしく一礼した。
「帳簿は執務室の机に置いてまいりました。三年分、すべて締めてございます。これからはご自分でおつけくださいませ」
夫は何か言おうとして、咳き込んだ。
叫びすぎたのだろう。喉が嗄れている。
コレット様から受け取ったままだった瓶を、私は夫の手に握らせた。
「お大事に。のど飴でしたら、白百合薬舗で一瓶、銅貨八枚ですわ」
◇
ひと月後。
私はベルク商会の帳場で新しい帳簿を開いていた。
アッシュベリー伯爵家からは期日の三日前に千七百枚が届いた。
東の牧草地は、オットーの見つけた買い手が適正な値で買い取り、足りない分はご親戚を回って頭を下げて借りたそうだ。
別邸にはまだ買い手がついていない。
ハンスからの手紙によれば、ローラント様は今ご自分で帳簿をつけていて、毎晩数字が合わずに唸っておられるという。
コレット様は、王都の茶会に呼ばれなくなったと聞いた。
お医者様に診ていただいたところ、胸はたいへん丈夫だったらしい。
「お嬢様。白百合薬舗から、今月の売り上げが届きました」
オットーが帳面を差し出す。
「のど飴が、先月の三倍売れております」
「あら。どうして?」
「伯爵様の特効薬、と呼ばれておりまして」
私は思わず苦笑して、ペンを取った。
――滋養のど飴、薄荷。来月より、店の一番前の棚へ。
↓番外編「署名の横で」(家令ハンス視点。三年間、インク壺を持って立っていた)
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