09:初めての町
離宮で迎えた、何度目かの朝。
侍女たちはマリアンヌのために、聖女の装束ではない、柔らかな若草色のドレスを用意してくれた。歩きやすくそれでいて優雅さを失わない、彼女が初めて身に着ける種類のものだった。
鏡に映るマリアンヌはまだどこか頼りなく、見慣れない。胸には未知の世界への期待と、小さな不安が入り混じっていた。
「たまには外の空気を吸うのも悪くないわね。退屈しのぎに付き合ってあげるわ」
準備を終えたマリアンヌの肩に、ルナが軽やかに飛び乗る。ルナの体重は軽くて、負担にならない。かえって少しの重みが、不思議と心を落ち着かせてくれた。
ヘンリーが迎えに来た時、彼はマリアンヌの姿を見て、心から嬉しそうに目を細めた。
肩の上のルナを認めて一瞬だけ眉を寄せるが、すぐに笑顔に戻る。
「とても、きれいだ」
まっすぐな称賛に、マリアンヌは頬を染める。彼が優雅に差し出した腕を、おそるおそる取った。
リーンハルト王国の城下町は、活気と色彩にあふれていた。
商人たちの威勢のいい声、子供たちの屈託のない笑い声、焼きたてのパンの香ばしい匂い、露店に並ぶ色とりどりの果物や布地。五感に飛び込んでくる情報の全てが、神殿の静寂しか知らなかったマリアンヌにとって新鮮で、胸が高鳴るほど刺激に満ちていた。
「大丈夫、僕がそばにいる」
人の多さに少しおびえるマリアンヌの手を、ヘンリーは優しく引いて庇ってくれる。
彼は屋台で一つ、蜜で煮詰めた林檎の菓子を買い、マリアンヌに手渡した。恐る恐る口にして、甘さに驚いて目を丸くするのを見て、ヘンリーは本当に幸せそうに微笑んだ。
マリアンヌは思う。ただ菓子を食べるというだけの行為が、これほどまでに心を温かくするなんて、知らなかった。
市場を抜け、少し開けた噴水のある広場を歩いている時だった。
一人の身なりの良い青年貴族が、マリアンヌの類い稀な美しさに息を呑み、思わずといった様子で彼女の前に進み出た。
「失礼、ご婦人。あまりの美しさに、思わずお声を……。まるで月の光を集めたようなお方だ」
その言葉に悪意は感じられなかった。純粋な称賛と憧れと、少しばかりの恋心が見える。
だが、その瞬間。
ヘンリーの柔和な雰囲気が完全に消え失せた。笑みは凍りつき、普段は理知的な輝きを宿す緑の瞳が、底冷えのする冷たい光を放つ。
彼は何気なさを装って、マリアンヌと青年の間に割って入った。隠しきれない強い威圧感に、青年はひっと息を呑んで言葉を失う。
ヘンリーは氷のように冷たい声で、低く告げた。
「彼女に気安く声をかけるな。不快だ。二度と我々の前にその姿を現すな……失せろ」
静かな声だったが、それはどんな怒声よりも恐ろしく響いた。
肩の上で一部始終を見ていたルナは、呆れたように「ふんっ」と小さく鼻を鳴らす。
青年は血の気の引いた顔で何度も頭を下げ、逃げるように去っていった。
マリアンヌは、その場に凍りついていた。青年の無礼よりも、ヘンリーの豹変ぶりが衝撃的だったのだ。彼の深い愛情は知っている。けれどその裏側にある、底知れない激情に触れたのは初めてだった。それは彼女を守る力であると同時に、ひどく恐ろしいもののように感じられた。
(怖いなんて思ってはいけないのに。守ってもらっているのに。……守ってもらってばかり、なのに……)
「君に気安く声をかける輩は、万死に値する」
青年が去った後、ヘンリーはまるで独り言のように呟いた。それからマリアンヌの怯えた表情を見て、彼女を怖がらせてしまったと気づいたのだろう。先ほどの冷徹さが嘘のような優しい声で、彼女の手を取った。
「すまない、忘れてくれ。……そうだ、次はもっと美しい場所へ連れて行ってあげよう。誰にも邪魔されない、僕たち二人きりになれる場所へ」
「二人きり……」
甘い響き。同時に、彼の独占欲の強さを改めてマリアンヌに意識させた。
海辺への小旅行。魅力的な提案に、マリアンヌの心は高鳴る。先ほど垣間見たヘンリーの激情に不安を覚えながらも、楽しい時間に思いを馳せるのだった。