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08:甘やかな日々

 リーンハルト王国の離宮で迎える朝は、いつも柔らかな陽光と小鳥のさえずりで始まった。

 生まれ育ったダナハイム王国の、あの冷たく荘厳な神殿で迎えていた夜明けとは何もかもが違う。硬い石の床ではなくふかふかの寝台、祈りの義務ではなく侍女が運んでくる温かい朝食。マリアンヌは、自分が「聖女」という役割ではなく、一人の人間として扱われていることに、まだ慣れない心地よさを感じていた。


 昼下がり、公務を終えたヘンリーが離宮を訪れるのが、日課となりつつあった。

 その日、彼が手にしていたのは美しい装飾の施された小箱だった。開くと、可憐な旋律が部屋に流れ出す。オルゴールだ。


「君の国の音楽とは少し違うかもしれないが、気に入ってくれると嬉しい」


「何から何まで、ありがとうございます」


 ヘンリーが微笑む。

 マリアンヌが頭を下げると、いつの間にか足元で丸くなっていた白猫――ルナが、音楽に気づいたようにぴくりと耳を動かした。


 猫を見つけて、ヘンリーの表情が微かに曇る。


「マリアンヌ。その猫はどこの野良猫だ。侍女に言って、外へつまみ出しなさい」


 彼の声は穏やかだったが、猫に向ける眼差しは冷たい。侍女が困ったように一歩前に出たのを見て、マリアンヌは慌ててルナを抱き上げた。


「お待ちください、ヘンリー様。この子は……その、私にとって、心の慰めなのです。どうか、このままここにいさせてはいただけませんか?」


 必死に訴えるマリアンヌに、ヘンリーは抗えない。深くため息をつくと、不承不承といった体で頷いた。


「……君がそう言うのなら」


 マリアンヌはほっとして、腕の中のルナの毛並みを優しく撫でる。ルナの毛は柔らかく艷やかで、触っていると気持ちが良い。

 その様子を、ヘンリーがどこか羨望の入り混じった、複雑な表情で見つめていた。ルナはちょっと目を開けると、いかにも呆れた様子であくびをした。







 ヘンリーの優しさは、マリアンヌの心を確かに癒していた。けれど夜になり一人になると、故郷での記憶が悪夢となって蘇る。断罪された謁見の間の光景。父と妹、そしてジュリアスの冷たい瞳。


(私は、偽りの聖女……)


 美しい離宮の部屋は、一人きりではあまりに広く静かすぎた。ヘンリーが与えてくれる優しさは、かえって彼女の無力さを際立たせる。何もできない彼女を、この美しい「檻」に閉じ込めているよう。孤独感が胸を締め付ける。


 マリアンヌが膝を抱えて震えていると、ベッドの隅で眠っていたはずのルナが起き上がって、隣に寄り添った。ヘンリーたちの前で見せる、ただの猫の姿とは違う。知性と明確な意志が感じられた。

 ルナはマリアンヌの手に、自分の頭を擦り付ける。ゴロゴロと喉を鳴らす振動と、伝わってくる温もりが、マリアンヌの強張った心をゆっくりと解きほぐしていく。


 その喉を鳴らす音に混じって、マリアンヌにしか聞こえない声が響いた。


「今はただ休めばいい。アンタは一人じゃないわ」


 その言葉は、何よりの慰めだった。マリアンヌはルナをそっと抱きしめる。その夜は久しぶりに、悪夢を見ずに眠ることができた。







 翌日、訪れたヘンリーは、マリアンヌの表情が昨日よりも少しだけ明るいことに気づいた。その小さな変化が、彼にはたまらなく嬉しい。


「マリアンヌ、少し元気になったようだね」


「はい。ヘンリー様のおかげです」


 マリアンヌが微笑むと、ヘンリーはさらに顔を輝かせ、満面の笑みで提案した。


「では、明日は城下町へ行こう。君に、新しい世界を見せてあげたいんだ」


「城下町……」


 マリアンヌの心は大きく揺れた。生まれてから一度も自由に歩いたことのない、外の世界。ヘンリーと二人で出かけることへの、甘い期待。未知なるものへの小さな不安。

 彼女の冬の空のような瞳に、様々な感情が渦巻く。次の物語の始まりを告げていた。




読んでくださってありがとうございます。

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