05:逃避行
謁見の間を後にしてからのマリアンヌの記憶は、どこか夢の中のように朧げだった。
ヘンリーはマリアンヌの身体が誰にも触れられぬよう、まるで壊れ物を抱きかかえるようにして神殿を抜けて、予め手配していた隣国の紋章を掲げた豪奢な馬車へと優しく導いた。
重厚な扉が閉められ、車輪がゆっくりと石畳の上を転がり始めた瞬間、マリアンヌは自分がもう二度とこの国に戻ることはないのだと漠然と悟った。
「さあ、行こう、マリアンヌ。君を傷つけた全てのものから、離れるんだ」
馬車の窓から流れていく故国の風景は、彼女の心を映したかのように重く、色褪せていた。空は常に薄曇りで、畑の作物もどこか元気がなく見える。
道端で王家の紋章とは違う馬車をいぶかしげに見る民の顔には、長年の困窮と抑圧からくる諦めの色が濃く浮かんでいた。この国は、聖女である彼女自身の生命力と共に、ゆっくりと活力を失っていたのだ。
灰色に染まった風景を見て、マリアンヌは知らず、体を震わせた。
「寒いかい? 毛布を」
隣に座るヘンリーが、肩にそっと柔らかな毛布をかけてくれる。
マリアンヌの過去について、深く尋ねることはしない。物静かな態度のままに、傍らに寄り添っていてくれる。
「喉が乾いただろう。果実水を飲んで」
「いえ、私は」
「遠慮の必要はない。君の助けになりたいんだ」
ヘンリーの優しさは、献身的だった。マリアンヌの心は戸惑いで揺れる。感謝と、見知らぬ男性にここまでされることへの言いようのない不安。感情が麻痺した心では、そのどちらも上手く整理することができなかった。
旅が始まって数日後、馬車は二国を隔てる国境の古い石門にたどり着いた。
何の変哲もない、ただの石造りのアーチ。だが、馬車がその下をくぐり抜けた瞬間、マリアンヌは息を呑んだ。それまで身体にまとわりついていた重苦しい空気が、嘘のように霧散したのだ。分厚い雲の切れ間から強い陽光が差し込み、ヘンリーの国の生き生きとした広大な森を照らし出す。
そして、マリアンヌの目にだけ、その奇跡は映った。
陽光の中を、無数の小さな光の粒がきらきらと舞い始めたのだ。この土地に満ちる穏やかな力を宿した、小さな精霊たちだった。精霊たちは馬車の周りを嬉しそうに飛び回っている。まるで、マリエンヌが故国から解放されたのを祝福するかのように。
(ああ、なんて……きれい)
幻想的な光景に、マリアンヌの瞳から涙がこぼれ落ちた。悲しみの涙ではない。長年、魂を縛り付けていた見えない枷が外れた、解放の涙だった。
「え!? どうしたんだい、マリアンヌ?」
ぽろぽろと泣き始めた彼女を見て、ヘンリーが焦っている。
「大丈夫です。ただ……陽の光がきれいだったので」
マリアンヌは少しだけ微笑んだ。笑うなんて何年ぶりのことだろうと、彼女は思った。
ヘンリーの国に入ると、風景は一変した。村々は活気に満ち、道行く人々の顔は明るい。彼らは隣国の紋章を掲げた馬車に気づくと、親しみを込めて手を振ってくれる。
土地そのものが、穏やかで優しい力に満ちているのがマリアンヌにも感じられた。
「見てごらん、マリアンヌ。あれが我が国で一番大きな川だ。秋には美味しい魚がたくさん獲れる」
ヘンリーは、自国の美しい自然や文化について熱心に語り聞かせた。話している間も、眼差しは常にマリアンヌだけに向けられている。あけすけなほどの好意と独占欲に、マリアンヌは感謝と共に、どう応えればいいのか分からない戸惑いを覚えるのだった。
長い旅路の果て、馬車が小高い丘を越える。
眼下に陽光を浴びて白く輝く美しい王都と、緑の森に抱かれた離宮が見えた。
ヘンリーはマリアンヌの手を優しく包み込む。
「ようこそ、僕の国へ。そして、お帰りなさい、マリアンヌ」
彼は離宮を指し示す。
「あそこが、今日から君の新しい家だ。君の新しい人生は、ここから始まる」
ヘンリーの言葉は力強い。
マリアンヌは希望と不安の入り混じった瞳で、これから始まる未知の生活の舞台を静かに見つめるのだった。