02:孤立無援
翌朝、マリアンヌは重い身体を起こした。
その瞬間、世界の空気が昨夜とは決定的に違うことを感じ取る。陽光はいつもと同じように窓から差し込んでいるはずなのに、まとわりつく空気がひどく澱んでいた。まるで、世界から色彩が一つ失われてしまったかのようだ。
昨夜の亀裂は、気のせいなどではなかった。
その確信は、王命の使者が彼女を召喚しに来たことで、より一層強固なものとなる。
父と妹と共に通されたのは、神殿に併設された王族専用の謁見の間。磨き上げられた大理石の床が、居並ぶ人々の姿を冷たく映し出している。
玉座には国王と王妃、その傍らには婚約者であるジュリアス王太子が、腕を組んで苦虫を噛み潰したような顔で立っていた。ずらりと並んだ重臣たちの視線が、値踏みするように責め立てるように、マリアンヌ一人に突き刺さる。
(これは、私を裁くための場なのだ)
そう理解するのに、時間はかからなかった。
重々しい沈黙を破ったのは、妹のアニエスだった。彼女は一歩前に進み出ると、その美しい顔を悲痛に歪め、今にも泣き出しそうな声で訴え始めた。芝居がかった動きだが、誰も気づいた様子はない。
「陛下、並びに皆様。まことに、まことに申し上げにくいのですが……昨夜、お姉様は祈りの最中に、お倒れになりました」
場がざわつく。
アニエスは濡れた瞳でマリアンヌを振り返り、慈しむような眼差しを向けた。一見すれば優しげな目だったが、マリアンヌにはわかる。優しさとは程遠い、蔑みと嘲笑の色がちらついている。
「そして、その直後……聖女の血を引くわたくしには、確かに感じられたのです。我が国を守る大結界が、か細い悲鳴を上げるのを!」
待っていましたとばかりに、ジュリアスが床を靴音高く踏み鳴らした。
「聖女ともあろう者が祈りの最中に倒れるなど、前代未聞! これは聖務に対する怠慢であり、国家への裏切りに等しい!」
怒りと侮蔑を込めて、彼はマリアンヌを指差した。
「結界の揺らぎは、マリアンヌ、お前の力不足が原因ではないのか! この期に及んで、何か弁明はあるか!」
高圧的な声が、広い謁見の間に響き渡る。
マリアンヌは顔を上げることができなかった。俯いた視線の先には、自分のつま先が見えるだけだ。
意識を失ったのは、事実。
結界に異常が生じたのも、事実。
だが、その原因が長年の奉仕による疲弊であると、今ここで誰が信じてくれるだろう。それはただの言い訳、無様な自己弁護にしかならない。疲れ切ってすり減った心では、反論の言葉を探す気力すら湧いてこなかった。
何を言っても、無駄だ。
ただ、血が滲むほど唇を強く噛みしめる。それが彼女にできる、唯一の抵抗だった。
国王も並み居る重臣たちも、王太子の言葉を制止しようとはしない。誰もが眉をひそめ、役立たずになった道具を見るような冷たい視線を彼女に投げかける。父ガルニエ侯爵もまた、沈黙という名の刃で娘の心を突き刺している。この場に、マリアンヌの味方は一人もいなかった。
(どうして、こうなったのだろう)
マリアンヌはぼんやりと考えた。
聖女の守護は古来より続くもの。王も貴族も民衆たちですら恩恵に慣れきって、当たり前のものとして扱っていた。
あって当たり前。不具合が生じれば、マリアンヌのせい。
そもそも守護がなくなれば、何が起こるのか。
大きな厄災を封じるため、と言い伝えられている。けれどそれはあまりに不明瞭で、伝説の域を出なかった。
伝承は既に風化して、正しい内容を教えてくれない。聖女本人でさえ知らない、遠い過去に消え去った物語。
何のための守護なのか不明であれば、軽んじられるのも当然だった。
彼女の沈黙を、罪の肯定と断じたのだろう。ジュリアスは嘲るように鼻を鳴らした。
「答えられぬか! やはり図星ということだな!」
勝利を確信したように声を張り上げる。
「もはやお前は聖女ではない! その責務を全うできぬばかりか、我々を欺いていた偽りの聖女だ!」
マリアンヌの存在そのものを否定する、あまりにも残酷な宣告だった。
「偽りの聖女」――。
その言葉が、マリアンヌの胸に突き刺さった。身を削り、心を殺し、ただ国のためだけに捧げてきた日々。そのすべてが、この一言で音を立てて崩れ去っていく。
アニエスがここぞとばかりに涙を流し、王に向かって跪いた。
「そうですわ、陛下! このままでは、いつ厄災が蘇るか分かりません! この国が、危うございます!」
四方八方から突き刺さる非難と侮蔑。信じていたはずの婚約者からの、あまりにも無慈悲な断罪。家族にすら見捨てられて、マリアンヌは完全な孤立無援の闇に突き落とされた。
絶望の色に染まっていく彼女の瞳に、冷酷な決意を固めたジュリアスの姿が映る。
彼が次に口にする言葉は、彼女から最後の拠り所さえも奪い去る、最後の宣告となるだろう。