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01:疲弊した祈り

 しんと静まり返った神殿の最奥、至聖所。

 高い天井から差し込む月光が、床に刻まれた巨大な魔法陣を白銀に照らし出している。その中央で、マリアンヌは独り跪いていた。


 月光を集めて編んだような、緩いウェーブのかかった銀髪。その輝きは今や色褪せ、痩せた肩にかかる様はひどく頼りない。祈りのために固く組まれた指は、骨が浮くほどに細い。伏せられた睫毛の奥にある、冬の空を思わせる青い瞳は虚ろで、何の感情も映してはいなかった。


(また、今日が始まる)


 唇から紡がれるのは、神への賛美でも民への慈愛でもない。ただ、古の契約に従い、自らの生命力を捧げるための詠唱。足元の魔法陣が淡い光を放ち、マリアンヌの体から魔力と生命力――マナをゆっくりと、しかし確実に吸い上げていく。全身の血を少しずつ抜き取られるような、鈍い苦痛を伴う儀式だった。


 吸い上げられたマナは、目に見えない奔流となって天蓋へと注がれる。王都全体を覆い、かの「古代の厄災」を封じる大結界。その封印の「蓋」を維持することこそ、聖女である彼女に課せられた唯一の使命である。


 もう何年、こうしているだろうか。

 聖女として見出されたあの日から、マリアンヌの世界はこの至聖所だけになった。かつて抱いていた民を思う心や、聖女としての誇りは、終わりの見えない奉仕の中でとっくに摩耗しきっていた。


 ――私は、国という器にマナを注ぎ続けるだけの、ただの道具だ。反抗する気力など、もうどこにも残ってはいない。

 諦めだけが心を支配している。


 長い祈りが終わりを告げ、魔法陣の光が収まる。ぐらりと傾いだ身体を、控えていた侍女が慌てて支えた。


「マリアンヌ様、お疲れ様でございます」


 その声すら、どこか遠くに聞こえる。侍女の肩に体重を預け、鉛のように重い足を引きずって回廊を進む。その先に、見慣れた二つの影が待ち構えていた。


「マリアンヌ」


 父であるガルニエ侯爵の、氷のように冷たい声だった。娘の体調を気遣う言葉はない。ただ値踏みするように、その全身を一瞥するだけだ。


「今日の祈りはどうだった。近頃、結界の輝きに揺らぎが見られるとの報告だが、お前の力が衰えたわけではあるまいな?」


「……問題、ありません。お父様」


 かろうじて絞り出した声は、自分でも驚くほどにか細かった。


「本当ですの? お姉様、お顔の色が優れませんこと」


 父の隣で、妹のアニエスが心配するふりをしながら、その目に怜悧な光を宿している。


「やはり傍流の、しがない伯爵家から来たお母様の血では、聖女の重責は荷が重いのではなくて? わたくしでしたら、この侯爵家の血にふさわしい、もっと力強い祈りを捧げられますのに」


 その言葉に含まれた棘が、唯一、マリアンヌの心にかすかなさざ波を立てた。アニエスは本流たる侯爵家の娘、マリアンヌは傍系伯爵家出身の母を持つ。

 実際のところ、聖女の血筋がどこにあるのかはもうわからない。遠い古代から続く聖女の血は散逸している。ただガルニエ侯爵家から比較的多く聖女が輩出されているというだけだ。それゆえに世間も、そしてアニエス自身も、侯爵家こそが聖女の家系だと信じ込んでいた。


 家族からの言葉は何一つ、今のマリアンヌには届かない。感情の波はとうに凪いでしまっている。侍女の腕にすがり、ただ無心で自室を目指した。鉛のような疲労だけが、彼女の唯一の現実だった。


 その夜。

 マリアンヌは再び、至聖所の魔法陣の中央にいた。

 日中の祈りで消耗した身体は限界を超え、意識が何度も明滅する。侍女たちが祈りを中断させようとするが、マリアンヌは微かに首を振った。ここでやめれば、父に、アニエスに、何を言われるか分からない。


(早く、終わらせないと……)


 最後の力を振り絞り、マナを天蓋へと送る。

 その瞬間だった。

 ぷつり、と意識の糸が切れ、マリアンヌの世界が完全な闇に包まれた。


 ――ピシッ。


 ガラスが割れるような、鋭い音が脳内に響く。

 それは他の誰にも聞こえない、彼女だけが感知した破滅の音。

 王都の上空を覆う光の結界。その一部に、黒い稲妻のような亀裂が走ったのを、マリアンヌは意識の闇の底で確かに見た。


 亀裂の向こう側から、冷たく、飢えた、名状しがたい「何か」の気配が、ほんの僅かに漏れ出してくる。それは、古代より封じられてきた「悲しみ」と「怒り」の気配。マリアンヌは全身を襲う悪寒に、無意識のうちに身を震わせた。


「マリアンヌ様! しっかりなさってください!」


 侍女の声に現実に引き戻される。いつの間にか祈りは終わっており、彼女は床に倒れ伏していた。


「……大丈夫。少し、疲れただけです」


 そう言って侍女に身体を預けながらも、マリアンヌの心は言いようのない不安に支配されていた。


(今、何かが……取り返しのつかない何かが、壊れた……)


 彼女が感じた小さな亀裂と不吉な予感。

 それが、彼女の運命を根底から覆し、国全体を揺るがす破滅の序曲となることを、まだ誰も知らなかった。




お読みいただきありがとうございます。

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