水化粧
『水化粧』と言えば和装の結婚式で花嫁のするものが有名だが、うちの郷では違う。
未婚の女性が亡くなったときに施す、魔除けの化粧のことを言う。
しかも使うのは白粉ではない。神主しか製法の知らない、白く濁った水。
それを全身に塗る。儀式用の特別な刷毛で。
そんなの許せなかった。
耐えられなかった。
姉の屍体に触れられることも、見られることすらも。
神主は男で、水化粧の儀式に参加するのも村の古老――全員、男と定まっている。
誰かが言った。
儀式の水化粧に使う液体の製法がなぜ秘密なのかと。
なぜ男だけで密室で行うのかと。
その言葉が私を不安にさせる言い伝えがこの郷にはあるから。
水の子。
それは、生まれてはならない子供。
『水化粧をしなかったら、死んだ娘は水の子を孕む』という、言い伝えが。
誰かが言った。
死んだ娘が孕むのではなく、孕んだ娘が死んだのではないかと。
いやむしろ死んだのではなく殺されたのではないかと。
その理由は、何かを知ってしまったから?
この郷で『秘密』と言ったら水化粧の儀式をおいて他にない。
絶望の疑念。
水化粧の儀式が始まる前に、私は姉の屍体を背負い、こっそりと郷を出た。
だがどこへ行けばいいというのだ。
いくあてなどどこにもない。
山の中を無闇に歩き続けるだけ。
ただ少しばかり、私の体温が姉の屍体へと馴染んでゆく、それは、密かに姉へ懸想していた私にとって、この上ない僥倖であった。
しかし結局は、それも長くは続かなかった。
常々馥郁たる香りをまとっていた姉らしからぬ腐敗臭が、私たちに次第にまとわりつきはじめる。
誰かが言った。
姉を穢しているのは他ならぬお前ではないのかと。
ふと私は気付く。
『誰か』とは誰なのだ、と。
今にしてみれば、私に何かを吹き込み続けた『誰か』が誰なのか、思い出せない。
その『誰か』の顔も声も。本当に居たのかさえも。
先ほどまで『儀式を行う連中』へ向けていた猜疑が、侮蔑が、慨嘆が、そのまま私自身へと還る。
思わず片膝をつく。
立ち上がる気力が湧かない。
このままここで姉と一緒に朽ちてゆけるのであれば、それはそれで佳いかも、と――そんな妄執が、今度は私自身の心のなかに揺蕩う。
残る片膝もついてしまった。
全身に力が入らない。
私は顔から地面へと倒れ込み、姉の重さを背中いっぱいに感じた。
うるさいな、と思った。
赤ん坊の泣き声が。
しかもかなりの近さ。
最初に脳裏に浮かんだ言葉は、水の子。
だとしたら、その母親は誰だ?
まさか、姉が?
では儀式は――幾つもの問いが流れ星のように脳裏を過るが、その答えについて考えようとしても思考はまとまらない。
まるで自分の頭ではないかのようにも感じる。
誰かの声がした。
今度の誰かは、聞き覚えのある声。
郷の人の――神主?
「いたぞ!」
「こっちや!」
赤ん坊の泣き声の奥に、神主たちの声が近づいてくるのがわかる。
「水の子だ」
すぐ近くで聞こえた声。
やっぱり、と私は頬をゆるめようとして、違和感を覚えた。
その違和感の正体が分かる前に、私の眼前に光が広がった。
強烈な眩しさ。
赤ん坊の泣き声がとても近い。すぐ此処から聞こえる――これは、私の声?
眩しさに慣れた私の視界に映る自身のものとは思えぬ体と、姉の変わり果てた姿とを結ぶ、一本の臍の緒。
「あぁ、水化粧せんかったからなぁ」
<終>




