3-2 混乱の拡大と揺れる社会
アップデート発表から数日が経ち、王都アルカディアは前例のない分断状態に陥っていた。殿下の簡潔すぎる宣言は、王国の隅々にまで伝わり、社会の各層で熱烈な支持と激しい非難の両方を巻き起こしていた。
王立魔法学院の古い石造りの校舎では、昼夜を問わず若い魔法使いたちの熱気に満ちた議論が続いていた。中央講堂のかつては厳格な学問の場だった空間は、今や革命的アイデアが飛び交う活気ある場に変わっていた。蝋燭の光が揺れる中、学生たちは輪になって座り、新しい魔法体系の可能性について熱心に語り合っていた。
「これはただのアップデートじゃないんだ」若手教授のマルコスが黒板に複雑な図を描きながら興奮した声で語る。「これは『魔法の民主化』の始まりなんだ!今まで貴族の特権だった高等魔法が、すべての才能ある者の手に届くようになる」
学生たちは目を輝かせて頷き、黒板には次々と新たな魔法パターンの仮説が書き加えられていく。壁には「魔法を万人の手に」という大きな横断幕が掲げられ、誰かが「オープンソース魔法運動」という言葉を熱っぽく書き加えていた。
講堂の隅では学院長のヘレナ・リフォームが静かに若者たちの様子を観察していた。彼女の瞳には懸念と希望が入り混じっていた。
*このエネルギーを建設的に導く必要がある。* 彼女は思いながら、若者たちの熱気を感じていた。*変化は必要だが、混乱は避けねばならない。両者のバランスをどう取るべきか…*
一方、貴族院の重厚な会議場では、まったく異なる光景が広がっていた。何世紀も前から変わらない木製の壁に囲まれた厳かな空間に、怒号が飛び交っていた。
「我々の家系は何世代にもわたり王国の魔法秩序を守ってきた!」ドミニク議長の声が響き渡る。「魔法体系を安易に変えることは、先人の知恵を軽んじるだけでなく、王国の安全そのものを危うくするものだ!」
集まった貴族たちの多くが同意の声を上げ、木製の机を打ち鳴らした。白い貴族用ローブを着た彼らの顔には怒りと恐れが混在していた。議論の熱が高まる中、奥まった席で年配の貴族たちが小声で会話を交わしていた。
「本当の問題は『特権』ではなく『安全』だということを強調すべきだ」老貴族がささやく。「魔法の民主化などと言えば聞こえはいいが、訓練を受けていない者に強力な魔法を与えれば、王国は混乱に陥るだろう」
ドミニク議長は公の場では伝統と安全を訴えていたが、その内心は複雑だった。彼は窓際に立ち、誰にも見られないことを確認して深いため息をついた。
*私の家系の影響力は魔法知識の独占に支えられている。それが崩れれば…* 彼は不安を振り払うように頭を振った。*いや、これは個人的な問題ではない。伝統には意味があるのだ。秩序のためだ。*
王都の石畳の市場では、一般市民たちの間でも様々な噂や期待、不安が飛び交っていた。パン屋の店先、井戸の周り、酒場のテーブルなど、人々が集まるあらゆる場所で「魔法OS」についての会話が交わされていた。
「魔法が誰でも使えるようになるなら、私の子どもも魔法学校に行けるのかい?」パン職人が希望に満ちた声で尋ねる。彼の手は小麦粉まみれだが、その目は未来を見つめていた。
「新しい魔法で病気が治るって本当かい?それとも今の治療魔法が使えなくなるのかい?」年老いた女性が不安そうに問いかけた。彼女の孫は複雑な治療魔法に命を救われたばかりだった。
「魔法が安く使えるようになれば、鮮度を保つための冷却魔法や輸送効率の改善も簡単になる。うちみたいな商売人にとってはありがたい話だが…とはいえ、急激な変化には混乱や損失もつきものだな」魚屋の親方が実務的に述べる。
子供たちは市場の隅で、新しい魔法の真似事をして遊び始めていた。一人の少年が「僕も魔法使いになれるの?」と目を輝かせて質問する。彼らの無邪気な笑い声が、大人たちの複雑な議論の中に混じっていた。
情報不足による誤解と噂の広がりは市民層の不安を増幅させていた。ある通りでは「すべての魔法が使えなくなる」という誤った噂から小さなパニックが発生し、魔法照明オイルの買い占めが起きた。別の地区では「貴族の魔力が民に分配される」という誤解から、小規模な祝賀会が自然発生していた。
この混乱の中心にいる殿下の私室には、膨大な量の手紙や請願書が山積みになっていた。賛否両論の意見が国中から殺到し、書記官たちは整理に四苦八苦していた。
殿下は窓辺の長椅子に横になり、天井を見つめていた。一見すると無関心な様子だったが、時折手に取る文書には目を通し、重要なポイントに注目していた。
「全部読むのは面倒だな…」殿下は呟いたが、その言葉とは裏腹に、民衆からの率直な反応には真剣な関心を寄せていた。
窓の外に広がる王都の景色をぼんやりと眺めながら、殿下は小さく息を吐いた。
*たった一言で、こんなに世界が動くなんて……ちょっと予想外だったな。面倒なことは避けたいのに、なぜか面倒なことが増えている気がする。でも、もう止めるわけにはいかないよね……*
殿下は自嘲気味に小さく笑い、自分の発言で混乱する街並みに視線を落とした。
ふと閃いたように、殿下は身を起こした。「両派を直接話し合わせるのが一番だな」彼は小さく呟いた。窓からは保守派のデモ行進と革新派の集会が別々の場所で行われている様子が見えた。二つの主張の間に共通点を見出せば、解決の糸口があるのではないか—そんな考えが浮かんでいた。
その頃、王宮の別々の場所で、クラリッサとリリアーナはそれぞれの任務に没頭していた。彼らの内面では、殿下の発表と自身の価値観の間で静かな葛藤が続いていた。
クラリッサは北防衛塔の一室を臨時の作戦本部として使い、緊急時対応計画を練っていた。壁には王都の詳細な地図が貼られ、潜在的な衝突ポイントが赤い印で示されていた。彼女は軍人らしい精緻さで計画を立てていたが、時折遠くを見つめるように黙り込むことがあった。
「北部での魔法騒乱の記録によれば、急激な変化は必ず混乱を招く」彼女は部下に説明しながらも、自分自身に言い聞かせているようだった。「秩序は段階的に進めるべきもの」
しかし彼女の内心は揺れていた。*殿下の変革への意欲は理解できる。だが、安全なしには自由も意味をなさない。北部の国境近くで育った私には、外敵の脅威が身に染みている。急すぎる変化は防衛体制の隙を生む。それでも…殿下の構想には確かに未来を見据えた何かがある。*
一方、リリアーナは王宮図書館の中央テーブルに大量の書類を広げ、「市民向け魔法OS解説書」の草稿を熱心に執筆していた。彼女の周りには若い学者や教育者が集まり、新しい魔法体系をどのように一般市民に説明するかについて議論していた。
「最も重要なのは、この変化がもたらす解放と可能性を伝えることです」彼女は情熱的に語った。「南部の村々では、基本的な治療魔法へのアクセスすらない子どもたちがいます。この改革がそれを変えるんです!」
しかし発言の合間に、彼女もまた静かな懸念を抱えていた。*理想を急ぎ過ぎれば反発を招く。クラリッサの言う「安全性」にも一理ある。私は急進的すぎるのかもしれない。でも、南部の生まれ故郷で見た不平等を思えば、一刻も早く変化を…*
二人の価値観の対立は、王国全体の分断を縮図のように映し出していた。クラリッサが代表する「伝統と安全」の視点と、リリアーナが体現する「革新と平等」の理想——その両極の間で、王国社会は揺れ動いていた。
そして誰も気づかないところで、殿下の何気ない言葉の裏に隠された真意が、少しずつ周囲に浸透し始めていた。それは怠惰でも逃避でもなく、社会に根付いた価値観を静かに問い直す、穏やかだが確かな波となって広がりつつあった。「魔法OSアップデート」の波紋は、社会の構造だけでなく、人々の心の中にまで及び始めていたのである。