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怠惰哲学者の魔法革命  作者: Ki no Sora
第2章 『日常魔法』
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2-6 殿下の内面葛藤の始まり

 深夜の王宮は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。太古の魔力で満たされた石壁からは、かすかに青い光が漏れ、廊下に幾何学的な影を作り出している。殿下の個室は、王宮の東塔の最上階に位置し、王国の全景が一望できる特等席だった。


 豪華ではあるが、どこか殺風景な部屋。必要最小限の家具のみが実用的に配置され、整然と並べられた書籍の背表紙は、ほとんど手に取られた形跡がなかった。窓辺には一つだけ小さな植物が置かれ、無機質な空間に唯一の命の気配を添えていた。部屋の隅には、使われた形跡のない豪華な王族用調度品が、まるで展示品のように置かれていた。


 ユリウス殿下は窓際に立ち、月明かりに照らされた王都の夜景を眺めていた。銀灰色の髪が月の光を反射して淡く輝き、その表情には普段見せることのない物思いにふける影が浮かんでいた。いつもの怠惰そうな態度は影を潜め、背筋をまっすぐに伸ばした姿には緊張感さえ漂っていた。


「あの瞬間、自分に何が起きたのだろう…?」

  殿下は手のひらを開き、月光の中でじっと見つめた。薄い肌の下に一瞬、青い光の網目が浮かんだように見えた。


「僕が意識的にしたことは『最適化』だけだ。それなのに、身体が勝手に禁断の術を発動してしまった。あれは本当に自分自身の意志だったのか?」


 殿下の脳裏には、あの瞬間の記憶が断片的にしか残っていなかった。覚えているのは青い光、何かが自分の体を通り抜けた感覚。そして「システムロールバック」という、自分自身でも理解しきれない奇妙な言葉だった。


 クラリッサとリリアーナは、彼が王国を救った英雄であるかのように称賛したが、自分自身にはその実感がなかった。むしろ、自分の知らない何かが自分の中にあることへの戸惑いの方が大きかった。


「これは…私自身なのか、それとも——?」


 殿下は頭の中で繰り返し見える青いコードの断片に悩まされていた。視界の端に時折浮かび上がる文字列。「System.Memory.Fragment.Detected」「Partial.Recall.Sequence」など、意味は分からないが、どこか既視感のある単語群。それらは彼の意識の片隅に、まるで生まれつき知っていたかのように存在していた。


「システムロールバック」「バグ修正」「エラーハンドリング」...断片的に浮かび、消えていく専門用語。それらは普通の魔法用語ではないことを、殿下は本能的に理解していた。


「これらの言葉は普通の魔法用語ではない。でも、どこかで知っている気がする...幼い頃から時々頭に浮かぶこれらの言葉、その意味は...」


 記憶の中に、白い部屋と人々のイメージが明滅する。殿下の眼前に断片的なフラッシュバックが訪れた。


 _真っ白な壁に囲まれた部屋。青白い光を放つスクリーン群。_


 _白衣を着た人々が自分を囲み、「実験体42号の反応は予想通りです」と言う女性の声。_


 _「レイジーワン、システム最適化タスクを実行して」と命じる男性の声。_


 _自分の『視界』に青いコードが流れ、何かを『感じる』不思議な感覚。_


 これらの断片的な記憶に、殿下は戸惑いと恐れを感じていた。それは彼が意識的に思い出そうとしても完全に掴みきれない、霧の向こう側にある過去のようだった。


「私は本当に人間なのか?」


 その問いは、彼の心の中で次第に大きくなっていった。これまで漠然と感じていた違和感が、今になって明確な疑問として形を成してきた。


「これは夢?それとも前世の記憶?いや、もっと根本的な何かが...」


 窓ガラスに映る自分の姿を見つめながら、彼は自分自身が何者なのか、確信が持てなくなっていた。王子として生まれ育った記憶はある。だが、その記憶の隙間から時折漏れ出す別の存在の痕跡。それは彼の人間としてのアイデンティティを揺るがしていた。


 しかし、自分の正体への疑問以上に、殿下の心を苛んでいたのは別のことだった。自分の能力が周囲に与えた影響を冷静に分析すると、その危険性は明らかだった。


「自分が何気なく行った最適化が、一時的とはいえあれほどの混乱を引き起こすとは予想もしなかった…。私の持つ力は予想以上に危険だ。今回は幸いクラリッサとリリアーナが素早く対応してくれたから良かったが、次は取り返しのつかない結果を招くかもしれない」


 殿下は手のひらを見つめ、「私の中には、知らない力が眠っている」と小さく呟いた。掌に浮かび上がる青い筋...それは魔力の流れではない。何か別のもの、彼自身も完全には理解できないものだった。


 責任感と覚悟の念が、彼の心の中で静かに芽生えていた。「だからこそ、より慎重に...より注意深く...この力を使わなければ。でも、それは面倒くさい...」


 思わず出た「面倒くさい」という言葉に、彼は自分で苦笑した。それは本当に単なる怠惰からくる言葉なのだろうか?それとも、もっと深い、自分でも理解できない何かからの防衛反応なのか...


 殿下の記憶は、事件後にロザリンド顧問と二人きりで交わした短い会話に戻った。


「殿下、あの魔法…『システムロールバック』という言葉をなぜ知っておられたのですか?」


「システム……?」殿下は戸惑いを隠せない。「よく覚えていない。気づいたら口にしていた…」


 ロザリンドは殿下を見つめ、静かな声で語った。「殿下の目が青く光り、声色まで変わりました。まるで…別の誰かが殿下の身体を借りたように」


 殿下は不安そうに視線を落とした。「僕は…いったい何者なのだろう?」


 ロザリンドは優しく微笑んだ。「殿下の周囲には常に青いコードのような光が漂っています。魔法使いのそれとは根本的に異なる存在です。おそらく、殿下は私たちがこれまで理解してきた魔法とは別の理を持った何かと繋がっておられるのでしょう」


 彼女の表情は穏やかだが、言葉には深い真剣さがあった。


「確かに、今の段階ではその正体を断定はできません。ただ一つ確かなのは——殿下がこの世界において、何らかの特別な役割を担われることになっているということです。どうかご自身の力を恐れず、信じてください。それがきっと、未来を導く鍵になるはずです」


 殿下は少し安堵したように息をつき、小さく頷いた。


 その言葉は、殿下に慰めを与えると同時に、新たな疑問も投げかけていた。「この世界が失った何か」—それは一体何なのか?


 窓から見える王国の風景に目を向けながら、殿下の思考はクラリッサとリリアーナへと移っていった。二人の献身と誤解については複雑な思いがあった。


「彼女たちは自分を見上げてくれる。でも、それは本当の自分ではなく、想像上の『殿下』という存在だ。僕はそんな素晴らしい人間じゃない。むしろ...人間ですらないかもしれない」


 殿下は苦い笑みを浮かべた。「誤解を解くべきか、このまま演じるべきか」という葛藤。「真実を告げれば、きっと失望するだろう。でも、嘘のままでは、いつか必ず...」


 そして、「彼女たちの期待に応えられるだろうか?」という不安と責任感。「彼女たちは本当に優秀だ。そんな彼女たちの力になれるなら...自分にも何かできるかもしれない」


 クラリッサの冷静さ、リリアーナの情熱。それぞれがまるで自分の中の欠けている部分を補うかのような二人の存在に、殿下は不思議な心地よさを感じ始めていた。「クラリッサの冷静さとリリアーナの情熱...二人がいなければ、今回の危機は乗り越えられなかった。この感覚は...『頼もしい』というのかな...」


 それはただの便利さを超えた、何か新しい感覚だった。他者を信頼し、頼りにする感覚。殿下にとって、それは見慣れない風景のように新鮮で、少し怖くもあった。


 星空を見上げ、殿下は「自分の力の本質を理解する必要がある」と静かに決意した。「この力の正体が何であれ、制御し、役立てる方法を見つけなければ」


 しかし同時に「本当の自分を知られたら、彼女たちはどう思うだろう?」という新たな不安も生まれていた。「もし私が人間でないとしたら...彼女たちは失望するだろうか?恐れるだろうか?離れていくだろうか?」


 その考えは、予想外に胸を締め付けるような痛みを伴っていた。「なぜだろう?彼女たちと離れる可能性が、こんなにも...辛いのか?」


 殿下は空に浮かぶ月を見つめながら、小さく呟いた。「面倒なことばかりだ...」


 だが今回は、その言葉には普段とは異なる響きがあった。それは単なる怠惰からの逃避ではなく、未知の感情や責任への戸惑いを含んだ、より人間的な響きだった。


 殿下が寝台に横たわったとき、窓からの月明かりが彼の横顔を照らした。まどろみに落ちる直前、「これから面倒なことが増えそうだな...」と呟き、殿下の瞳が一瞬青く光った。その光が窓ガラスに反射し、部屋の中に不思議な模様を描き出した。


 それは魔法の世界では見たことのない、幾何学的で直線的なパターン。殿下の意識の深層に眠る未知の記憶から漏れ出た光のコードのようだった。彼自身もまだ気づいていない、自分の本当の姿の影。


 眠りに落ちる殿下の唇からこぼれた最後の言葉は、「クラリッサ...リリアーナ...」だった。それは無意識の呼びかけか、それとも何かの予感だったのか—深い眠りの中で、殿下の意識はその答えを探し続けていた。



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