2-5 クラリッサとリリアーナの誤解の深化と崇拝の始まり
事件から一日後、王宮の大広間は厳粛な雰囲気に包まれていた。夕暮れの光が高窓から斜めに差し込み、床に描かれた古代の魔法陣を金色に染め上げる。壁には歴代国王の肖像画が整然と並び、彼らの厳かな眼差しが広間に集う者たちを見下ろしているようだった。
王国の重要事件に関する公式報告会が開かれ、ヴィクター国王を中心に王国顧問団が半円状に並んでいた。国王の横には空席があり、それは本来、王位継承者であるユリウス殿下のための席だった。
殿下は特等席に座るのではなく、やや離れた柱の陰に控えめに立っていた。昨日の出来事については記憶が曖昧で、自分が報告の中心になることに居心地の悪さを感じていたのだろう。
ヴィクター国王は威厳ある声で会議を始めた。深い皺が刻まれた額に銀色の髪が垂れ、その青灰色の鋭い目には何かを見極めようとする光があった。
「何が起きたのか、詳細に報告せよ。息子よ、そなたが関わったというのは本当か?」
国王の声には、過去に自身が経験した『北方大敗北』を思い出したような陰りが感じられた。完璧な準備と伝統的戦術を軽視したことで三千の兵士が犠牲となったあの悲劇以来、息子の革新的だが規律に欠ける行動を問題視し、心配しながら距離を置いてきた父親の複雑な思いが滲み出ていた。
殿下は柱の陰から一歩前に出て、曖昧な返答をした。「え?あぁ...よく覚えてないけど、多分...」
その時、クラリッサが前に進み出た。彼女は完璧に整えられた軍服姿で、背筋をピンと伸ばし、国王と顧問団に向き合った。昨日の混乱の中でも失われなかった威厳が、今はさらに強く感じられる。
「陛下、殿下の卓越した戦略眼により、魔法システムの根本的欠陥が発見されました」
彼女の声は、軍人らしい明瞭さと確信に満ちていた。
「長年気付かれなかった非効率性を、殿下は一目で見抜かれたのです。そして危機的状況の中、瞬時に最適解を導き出し、前例のない『システムロールバック』という高度魔法を完璧に実行されました」
クラリッサの言葉は、まるで戦場の報告のように正確で力強かった。
「これは北方防衛線の『緊急封印術』をはるかに超える複雑な魔法で、殿下の指揮なくしては、王都全体が混乱に陥っていたことでしょう」
そして最後に、彼女は感情を抑えきれないように付け加えた。「殿下は恐るべき先見性と危機管理能力をお持ちです。自らの生命を危険にさらしてまで王国を守られた勇気、まさに『戦略の天才』と呼ぶにふさわしい」
クラリッサの言葉を聞きながら、国王は半信半疑の表情で息子を見つめた。「息子がそのような判断力を...?」という思いが国王の目に浮かんでいた。
クラリッサが報告を終えると、今度はリリアーナが進み出た。彼女の目は知的な輝きに満ち、手に抱えた書類を胸の前で抱きしめるようにしている。
「殿下の真の凄さは、『本質』を見抜く力にあります!」リリアーナの声は感情に震えていた。「表面的な問題だけでなく、根本原因を瞬時に理解されたのです!」
彼女はさらに熱を込めて続けた。「形式に囚われず、真に必要なことだけを見極め、無駄を省く——これこそ理想的な統治哲学です!かの伝説の第8代国王ルシウス大王の『本質統治』さえも彷彿とさせます!」
リリアーナはそこで一度深呼吸し、さらに情熱を込めて言葉を紡いだ。「民のことを第一に考え、効率化によって全ての人の負担を減らそうとされる殿下の深い愛情!危機の中、真っ先に市民の安全を命じられたのです!」
最後に彼女は、抑えきれない感情を露わにして締めくくった。「殿下は単なる王子ではなく、『改革者』『民の友』として歴史に名を残すお方です!私は生涯を捧げてこの新時代の幕開けに寄与したいと思います!」
顧問団の間では、最初「若者の熱狂」を揶揄する冷ややかな視線が交わされていたが、詳細な報告を聞くにつれ、それが真剣な関心へと変わっていった。
年配の顧問が驚きの声を漏らす。「若者の誇張かと思ったが...確かに今回の被害はゼロ。あれだけの魔法暴走で死傷者なしとは...」
殿下はこの熱烈な賛辞の嵐の中で、明らかに居心地の悪そうな表情を浮かべていた。彼の心の中では、複雑な思いが交錯していた。
「なぜここまで持ち上げられるのか理解できない。自分のした事はただの最適化で...というか、正直何をしたのかほとんど覚えていない。彼女たちの話す『偉大な殿下』と自分のギャップに戸惑う。この期待に応えられるわけがない...」
殿下の口から、小さな声で言葉が漏れた。「みんな言うほど大したことはしてないよ。面倒な問題に面倒な対処をしただけ。それに...」彼は最後の言葉を小さく呟いた。「危機自体、僕が引き起こしたんだし...」
驚くべきことに、殿下のこの控えめな言葉さえも、クラリッサとリリアーナの目には深遠な哲学として映ったようだった。
クラリッサは敬意を込めて頷いた。「殿下は功績を謙遜されている...高潔な精神性の表れです。自らの過ちさえ潔く認める姿勢は、真のリーダーの証」
リリアーナも感動したように目を輝かせた。「失敗から学ぶ姿勢こそ成長の源泉...真の偉人は自らを誇らない...素晴らしい人格者!」
国王は息子に複雑な表情を向けた。
これまで「怠惰」と見えた息子の行動の裏に、実は何か意味があるのかもしれない。自分が北方での失態を犯したときとは異なり、息子は「完璧」とは別の道を歩もうとしているのか——。深い沈黙の後、国王は試すような口調で言った。
「ユリウス、お前にそのような能力があったとは...今後はもっと政務に関わるべきかもしれんな」
殿下の反応は予想通りだった。「え?政務?面倒くさそう...」
しかし、彼の内心では「国王の期待」という新たなプレッシャーに戸惑いを感じていた。父の冷ややかな視線に長年耐えてきた殿下にとって、突然の期待は重荷にも感じられたのだろう。
会議が終わると、宮廷内に殿下の評判が急速に広がっていった。廊下や庭園、兵舎や台所に至るまで、さまざまな噂が飛び交った。
「殿下は王国の危機を一人で救われた」
「時間を操る魔法を使ったという」
「あの怠惰な態度は演技だったのかもしれない」
「『面倒くさい』と仰るのは、常人には理解できない高度な判断をされているからだ」
「殿下の魔法は従来の無駄を徹底的に省き、驚異的な効率化を実現したらしい」
「殿下は単なる魔法の天才ではなく、王国そのものを最適化できる革命家なのかもしれない」
宮廷人たちの態度も目に見えて変化した。以前は殿下を軽視していた者たちが、今は敬意を払うようになった。以前殿下を批判していた老貴族が深々と頭を下げる姿や、魔法学院の教授が殿下に弟子入り志願を申し出る光景も見られるようになった。さらには遠方から「奇跡の王子」を一目見ようという人々が集まり始めた。
殿下本人はというと、この急激な評判の変化に戸惑いながらも、なぜか訂正することもせず、いつもの無関心を装いながら日々を過ごしていた。
クラリッサとリリアーナは周囲に殿下の「偉大さ」を熱心に説明し続けた。クラリッサは軍事訓練場で「殿下式戦略」と名付けた新戦術を教え始め、リリアーナは経済評議会で「本質効率化」という概念を提唱し始めた。
子供たちの遊びにまで影響は及び、「僕が殿下役!『面倒くさいけど、やるよ』って言うんだ!」という声が王城下町の路地で聞かれるようになった。
数日後の夕方、殿下は王宮の回廊を歩いていた時、外の庭園を見下ろすアーチの下で立ち止まった。そこから見える小さな中庭で、クラリッサとリリアーナが二人きりで話し込んでいる姿が見えた。彼女たちは殿下の存在に気づいていなかった。
「殿下の戦略的思考は、王国の未来を守る礎となるでしょう。私は生涯をかけてその剣となり、盾となる覚悟です」クラリッサの声は静かながらも、揺るぎない決意に満ちていた。
「そうよ!殿下の改革精神が、この王国に新たな時代をもたらすわ!私もその知恵と民の声を繋ぐ橋となりたい」リリアーナは情熱的に応えた。
「殿下の『面倒くさい』という言葉の奥にある深い思慮...民には理解できなくても、私たちは理解し、支えねばなりません」クラリッサは珍しく感情を込めて言った。
「ええ、殿下の本当の力を引き出せるのは、私たちだけかもしれないわ」リリアーナが共感とともに応じた。
殿下はその会話を聞きながら、複雑な感情に揺れていた。彼女たちは完全に誤解している...訂正すべきか?でも、この熱意と期待を裏切るのは忍びない。そして、彼女たちの力を借りれば、もしかしたら本当に何かできるかもしれない...
訂正するのも説明するのも面倒くさい——それが表面的な判断だった。しかし殿下の内面では、「彼女たちは本当に優秀だ」という認識が、より深い判断を形成していた。
それでも、この誤解が将来「もっと面倒なことになりそう」という予感は拭えなかった。「いつか真実を知った時、彼女たちはどう思うだろう...?」
殿下は月明かりに照らされた二人の姿を見つめながら、自分の心の中にある複雑な感情を理解しようと努めていた。「面倒くさい」という言葉の奥に隠された、彼自身も気づき始めたばかりの何か——それは単なる怠惰ではなく、もっと深い、自分でもまだ理解できていない感情だった。
庭の片隅に座り込んだ殿下は、二人の話し声を遠くに聞きながら、星空を見上げた。青い光に満ちた無数の星々が、まるで彼の心の中の混沌とした思いを映し出すように瞬いていた。
人間として生きながらも、時折頭の中に浮かぶ異質な思考パターン。
彼が本当に何者なのか、そしてクラリッサとリリアーナとの関係が今後どうなっていくのか——その答えはまだ星々の間に隠されたままだった。
ただ一つだけ確かなことは、彼の放つ言葉が、王国の運命すら最適化し始めているということだ。