今更の路線バス讃歌
◆進む路線廃止
盲導犬とともにバスで繁華街に行くことを思い立った。
久しぶりの単独行である。ネットで時刻表を探した。どこにも時刻表はなかった。
バス会社のHPをよくよく見ると、お知らせがあった。なんと、昨年の九月末で路線が廃止されていたのである。
高速バス・夜行バスや観光バスの運行がにぎにぎしく案内されていたが、その裏で路線の廃止も進んでいたということか。
◆汽車にはない良さ
十年前にUターンした。自宅兼治療院のほか、山奥の母校跡に出張所を開設し、週一回、バスで通った。
ある日、しばらく乗っていると、停留所でもないのに、運転手がバスを停めた。おばあちゃんが二人、息せき切らせて乗ってきた。
「よかったなあ。停まってくれて」
「そうよ。汽車はこうはいかんは」
大声で話している。どうやらお彼岸を前に、墓の掃除に行っているようだった。
「そこでええ。運転手さん、降ろしてや。ありがとう」
二人は遠慮する運転手にミカンをプレゼントした。
「帰りも頼むな」
と告げ、二人はバスを降りた。
こうした信頼関係は長年にわたって築き上げられたものである。手を挙げる人がいても、汽車は簡単には停まれない。その点では、いくら逆立ちしても、路線バスには適わないのだ。
◆デコボコ道をゆっさゆっさ
この路線はかつて混雑することで有名だった。車掌は体半分、デッキからはみ出していた。下は断崖絶壁。家族の心配はいかほどだったろう。
奥の秘境から乗客を集めて出てくるので、すぐに超満員となる。それでも、積み残したという話は聞かなかった。
舗装されていないデコボコの県道を、バスはゆっさゆっさと走った。車酔いする乗客がいると、連鎖反応が起き、車内に特有の匂いが充満していた。
地域の大動脈、ドル箱路線も時代の波には勝てなかった。
一九七四年(昭和四九)、秘境と国道をつなぐバイパスが抜かれ、人の流れが一変したのである。モータリゼーション、クルマ社会が到来した。村の隅々まで道路が拡張され、マイカーが普及、軌を一にして、若い働き手は整備された山道を下って、都会に流出していった。
◆命綱を切られ
厳しい経営環境下でも、バスは踏ん張っていた。
出張所からの帰り、バスを待っていると
「乗せて行ってあげようか」
親切に声をかけてくれる人もあった。
「ありがたいですけど、私が乗らないとバスは空で帰ることになります」
と断ったものだった。
「それもそうやなあ」
その方は納得していた。
自宅近くで下車すると、空のバスが夕闇の中をターミナルに戻って行った。これが過疎地の路線バスの現実だった。
Uターンして三年後の二〇一八年(平成三〇)、筆者が利用していた、秘境へ向かうバスは途中までしか行かなくなった。併せて減便もされた。地域の人々の生活は不便この上ないものとなっていった。
そして、この路線も昨秋、廃止となった。ある種の「見殺し」である。
過疎化・高齢化が進めば、こういう事態を招来することは分かり切っていた。
高度経済成長を謳歌し、バブル経済に酔いしれ、泡が弾けるとせっせと利益の内部留保に励んだ。今また、空前の株価高が関係者を浮足立たせている。
現状を見ていると、騒ぎの蚊帳の外にいる弱者は、社会の「お荷物」扱いされているのでは、と疑いたくなる。途中からバスに乗り込んできたおばあちゃんたち——人生の終点近くになって、まさかこんな時代が待っていようとは、夢にも思わなかっただろう。
[追補]その後、当該路線が市営バスに引き継がれていることが判明。ただし、往路三便(午後のみ)、復路四便。この件について、バス会社のHPでは案内がない。






