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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

葬送屋マツモト

作者: 入道雲

Twitterで投稿情報などを呟いています。


ID: @nyudogumo_narou

 革張りの真っ黒なソファーに座ったぼくは、天井で回るシーリングファンを眺めながら、死んだ祖父の言葉を思い出していた。


 ──いいか怜。人生は、死んだら終わりだ。


 そんなこと当たり前なのでは? と、幼少期のぼくは小首を傾げていたと思う。今となっては確かめる術も無いが、恐らく「だから後悔の残らないよう、一日一日を大切にしなさい」とかそんな感じのことを伝えたかったのかもしれない。なんにせよ、当時五歳の子どもに、そこまで汲み取れるわけもなかった。


 祖父は事あるごとに同じ言葉を繰り返していたけれど、ぼくがその真意を理解する前──六歳の誕生日を迎えた年に、彼の言葉はあっさりと覆された。


 ──死者が、生き返ったのだ。



 十四年前の夏。アメリカのアルバカーキ州でとある事件が起こった。銃撃を腹部に受けて殉職した警官が、死亡から四十七時間後に息を吹き返したのである。医者による死亡診断が済んでいたにもかかわらず、警官の心臓は再び鼓動を始めたのだ。


 それだけ聞くと、「そういう奇跡もあるだろう」と思うかもしれない。ただし、彼の“生き返り方”を聞けば話が変わってくる。


 蘇生した男は当然の如く精密検査を受けたのだが、そこで驚くべき事実が発覚したのだ。銃撃で破裂した筈の脾臓が、綺麗に再生していたのである。


 全米が、どころか世界中が世紀の大事件に注目したのも束の間、同様の事件が続々と報告され始めた。


 中国では車に撥ねられた二十二歳の男性が。フランスでは入院中だった四十五歳の女性が。日本では海水浴中に溺れた六歳の男の子が、死亡からきっかり四十七時間で息を吹き返した。


 しかも、全員漏れなく五体満足の健康体で、だ。死亡の直接的原因だけでなく、虫歯などのありとあらゆるケガや病気を完治した状態で生き返った。


 現代医学では到底説明のつかない現象であったため、当時は様々な流言飛語がまことしやかに飛び交っていた。


 人間は遂に死を克服しただの、この世界のどこかに神が顕現しただの。歓喜に沸いた人々で連日大賑わいだったのを微かに覚えている。


 日本のメディアはこの現象を“克死”と呼び、それは瞬く間に定着した。


 ──ところがそんなお祝いムードは、とある衝撃的なニュースによって一転する。


 生き返ったアメリカ在住の成人男性がある日、化け物に変貌したのだ。種々雑多な動物のパーツを無作為に切り貼りしたような、醜悪な造形をしたそれは、近くにいた人間を手当たり次第に襲い、家族や友人でさえも見境なしに手にかけた。寧ろ、化け物は真っ先に家族や友人を襲ったと記録されている。


 結局、元成人男性は近隣住民によって射殺された。体内に残っていたヒトとしての唯一の面影──脳を弾丸で貫かれたことが直接的な死因とされている。


 その悍ましい姿から、化け物は“イギョウ”と名付けられた。


 この事件がきっかけで、克死により甦った“克死者”は一夜にして恐怖の対象へと変わった。

 外見、性格、記憶。すべてが生前と寸分違わない克死者ではあったが、それは逆に恐怖を煽る要因となった。


 とはいえ、大切な家族や恋人、友人が克死者となってしまえばそうもいかない。いずれイギョウに成り果ててしまう可能性があったとしても、ほとんどの人は甦りを喜ばずにはいられない。


 結果として、克死者は世間で宙ぶらりんになった。

 

 そして、そんな状態は一年も続いた。けれど一年の間に、“克死”に関して実に多くの情報が集まった。


 まず、克死は寿命を迎えた者には起こらない。ここでいう寿命とは便宜上の表現であり、具体的な数値などは判明していない。あくまでも、世間一般でいう“大往生”をした人間は克死によって蘇生しない、という意味だ。


 次に、一度克死によって甦った者も、再び甦ることはない。誰が決めたのかは知らないけれど、コンティニューは一度きりらしい。


 更に、克死は首と胴体が繋がっていなければ起こらない。「繋がっている」の厳密な基準は定かではないものの、文字通り首の皮一枚で繋がっているだけならば、蘇生は起こらない。


 加えて、克死者がイギョウに変貌する割合は千人に一人程度である。この割合に地域差や人種の違い、性差などは現時点で一切確認されていない。日本の年間死亡者数は百万人をゆうに超えるため、仮にすべての死者が克死により蘇生した場合、千人がイギョウに化けることになる。


 これらの情報は世界中で発生したありとあらゆる死亡事例と、すべての克死現象の報告例から導き出された厳然たる事実であり、現段階で例外は無い。


 他にも様々な情報が収集され続けているが、特に重要なのはこの四点だろう。


 そして最初の克死発生から二年が経った頃、世間は克死者を生前のその人と同一視する「受容派」と、まったく別の”異形”であると見做す「排斥派」に二分された。


 双方の言い分は理解できるし、どちらが正解でどちらが不正解だと簡単に決められる問題ではない。


 事態をいち早く受け止めていたアメリカは、死後四十七時間以内であれば、死者は克死が起こらぬよう特別な“処置”を受ける権利があると正式に発表した。


 言うまでもなく、本人の遺志や家族の同意など、幾つかの条件はクリアする必要がある。しかし条件さえ満たせば、そのまま安らかに眠るという選択肢も選べるようになったのだ。


 アメリカの発表を追うようにして、日本政府も同様の声明を出した。無論、他の国も続いた。

 ただし日本では、それだけに留まらなかった。政府は克死の発生を未然に防ぐ“処置”を行う部署を、警察組織の中に発足したのだ。これはすぐに警察組織から独立し、『葬送院』と名称を改められた。


 葬送院に務める者は『葬送員』、または広く『葬送屋』と呼ばれ、分類としては国家公務員に該当する。


 現在では専門の教育機関で然るべき教育を最長二年受け、更に試験に合格しなければ葬送屋にはなれない。



 何故ぼくが克死や克死にまつわる事柄にここまで詳しいのか。それはたったの一言で説明できる。


 ぼくが、葬送屋だからだ。


 死者を葬り、黄泉の国へと送り届ける者──それが葬送屋の仕事。


 十歳の時に両親と祖父母を亡くしたぼくは、紆余曲折あって葬送屋になることを決意したのだ。いや、決意したというには些かぐらついた意志ではあったけれど。ともかく、ぼくは葬送屋になったのだ。


 「排斥派」の象徴みたいな組織に属しているが、克死者が生前の彼/彼女と同一人物であるかどうかという問題について、ぼくは未だ結論を出せずにいる。


 何度考えても、最後は「わからない」に辿り着くのだ。



「……不毛だよなあ」


「何がだ?」


「何でもないよ」


 ぼくの独り言に応えたのは、継代叶さん。十歳で天涯孤独となったぼくを引き取り、十年間育ててくれた(というか現在進行形でお世話になっている)恩人だ。


 継代さんは警視庁から葬送院に転属となった人で、言わば『葬送屋』の一期生でもある。肩まで伸びた黒髪が顔の左半分を覆っているけれど、もう半分からは今年で三十三歳とは思えない若々しい顔が伺える。


「ちょっと考え事してただけ」


「なんだい。気になるじゃないか」


「気にしなくていいよ。そんなことよりほら、机の上に溜まった書類を片付けないといけないんじゃないの?」


「おいおい、そんな風に誤魔化されたら余計に──」


 ジリリリリと。

 継代さんの声を打ち消すように、机の上に置いてあった黒電話の音が鳴り響く。


 ほっと胸をなでおろすぼくをジト目で一睨みしてから、継代さんは受話器を手に取った。


「はい、継代です。えぇ、はい……ご愁傷様です」


 ご愁傷様です──継代さんの一言が耳に届いた瞬間、心臓の鼓動が僅かに速まる。どこかで誰かが亡くなったのだ。そして事務所に電話がかかってきたとなれば、用件は確定したも同然である。


「はい、わかりました。あれば葬送の同意が確認できる書類と、死亡診断書か死亡検案書を用意しておいてください。すぐに向かわせますので。はい、ええ……では失礼します」


 受話器を置いた継代さんと目が合う。次に彼女が何を言うのかは、もうわかりきっている。


「怜、仕事だよ」


 こうして、ぼくの仕事が始まった。


 夏の、蝉時雨がうるさい真昼間だった。



 心の準備をとうの昔に済ませていたぼくは、頭を仕事モードに切り替える。


「場所は?」


「あー……ほら、畠中商店の向かいにある橋口さんのお宅だよ。知ってるだろ?」


「うん」


「それと、亡くなったのはとし子さんの方だ」


 継代さんの声が、ワントーン落ちる。


「……そうなんだ」


 とし子さん。彼女はぼくなんかよりもずっとハツラツとしていて、八十歳を過ぎても畑作業を続けられるようなタフな方だった。数ヶ月前に話した時も元気そうだったのに……。


 ダメだ、感傷的になってはいけない。余計な感情は腕を鈍らせる。


 確かとし子さんの家は、この事務所からそう遠くない所にあった筈だ。徒歩で十五分といったところだろう。


「暑いだろうけど、ちゃんと喪服に着替えて行くんだよ」


「わかってるよ」


 業務内容を考慮して、葬送屋の服装は喪服と指定されている。今は夏の真っ盛りだけれど、さすがに文句は言えない。それに、葬送屋の喪服はそこら辺の工夫も一応してある。一応。


「あ、ポン刀と桐箱、帯刀許可証も忘れるんじゃないよ。特に帯刀許可証を忘れたら、最悪銃刀法違反でしょっぴかれるからね」


「わかってるって。……あと、日本刀のことをポン刀って呼ばないでよ」


「なんで? その方が可愛いじゃないか」


 日本刀に可愛いも何もないだろう……。

 継代さんのセンスは十年一緒にいてもわからない。


 ソファーを立ってロッカーのある更衣室に向かい、保管していた日本刀を取り出して刀身を確認する。銀色の刀身が露わになり、ぼくの顔が映る。


 ……うん、刃毀れ一つない。まあ、常日頃から手入れは怠っていないから当たり前だ。


 日本では刀を用いて“葬送”を執り行うため、業務中に限り特別に帯刀が許可されている。帯刀許可が下りた直後は、ワイドショーで連日のように喧々諤々の議論が交わされていた。海外メディアは「日本に本物のサムライが復活した」とかなんとか、違った方向で盛り上がっていたっけ。


「これでよし、と」


 腰に下げた刀は、実際よりも重く感じる。


 この重さに、ぼくは未だ慣れることができない。



「やっぱり似合ってるよ、怜」


 更衣室から出てきたぼくを見て、継代さんが言う。


「それ、喜んでいいの?」


「何言ってんだい。様になってないよりかはマシだろうが」


「そりゃそうだけどさ……まあいいや。じゃあ、行ってくるよ」


「おう。行ってきな」


 パチンと両頬を叩いて気合を入れて、ぼくは事務所を後にした。


──── 


 事務所を出発して五分後。


「何が『一応工夫はしてある』だよ……気休めにもなりゃしない……」


 うだるような暑さの中、坂道を下っていたぼくは早くも弱音を吐いていた。


 一体どこにどんな工夫が施されているのかは知らないけれど、この炎天下の前では焼け石に水もいいところだった。汗が滝の如く流れ出てくる。肌にシャツが張り付いてハチャメチャに不快だし、桐箱が汗で汚れないようにするのも面倒臭い。


「刀も邪魔くさい……」


 歩く度にカチャカチャと音を鳴らす日本刀は、重いしうるさいしでたまったものじゃない。とはいえ刀が無いと仕事にならないので、投げ捨てることも叶わない。


 忌々しげに刀を睨んでいたぼくは、ふと足が止まる。


 ……これで、人の首を切り落とすんだよな。

 改めて言葉にすると、なんと恐ろしい仕事だろうかと思う。


 克死を防ぐ処置──通称“葬送”とは、要するに斬首のことを指す。何の罪も犯していない人の首を切り落とすなんてとんでもない話ではあるけれど、それ以外に克死を防ぐ手立てが無い以上、やるしかないのだ。もちろん、依頼主も“葬送”の意味を理解した上で承諾している。


 ぼくは諸事情で十五歳の頃から葬送屋になるための訓練を積んでいるし、実際の葬送だって何度も経験しているから、問題無く刀を振るえる。気はこれっぽっちも進まないけれど。



「……赤か」


 坂道を下りきり、横断歩道の前で歩みを止める。とし子さんの家には、ここを渡って十分ほど右に直進すれば辿り着く。


 ぼーっと信号が変わるのを待っていたぼくの横合いから、


「ねえねえ、これなにー?」


 と子どもの声がした。


「ん?」


 見ると、五歳くらいの男の子が腰に下げられた刀を指差して、物珍しそうに眺めていた。ぼくと目を合わせて、答えが返ってくるのを今か今かと待っている。


「こら! 指差しちゃだめでしょ……すみません」


「いえ、お気になさらず」


 ぼくが短く返したタイミングで、信号が青に変わる。

母親は軽く会釈をして、未だ刀を気にする子どもの手を引っ張るように、足早に去っていった。


 ──厳密に言えば、葬送屋が帯刀を許されているのは葬送を執り行うことが決定している時に限られる。そういった事情のために、世間一般では、帯刀している葬送屋は不吉の象徴とされているらしい。だからああいった態度を取られるのは仕方のないことだと、割り切っているつもりだ。あくまでも、つもりだ。


「……っと」


 点滅していた信号が赤に変わる前に、ぼくは小走りで横断歩道を渡った。



「すみません。葬送院の松本です」


 玄関先で声を上げると、奥の方から人の動く気配がした。

 ややあって、カラカラと引き戸の玄関が開けられる。


「あぁ、聞き覚えのある声だと思ったら。怜君じゃないか」


「お久しぶりです、義男さん」


 数ヶ月振りに会った義男さんは目の下に隈ができていて、小柄な体は更に小さくなっているように見えた。


「この度は、ご愁傷様です」


「うん……暑かったろう。さあ上がって、お茶を出そう」


「ありがとうございます。お邪魔します」


 玄関で靴を脱ぎ揃え、ぼくは義男さんの後に続いた。


 居間に通されたぼくは桐箱を傍らに置いて、差し出された座布団の上に座った。

 台所に向かった義男さんは、少しして氷と麦茶の入ったコップを持って居間に戻ってきた。


「まだぬるいかもしれないけど」


「いただきます」


 麦茶に口をつけ、半分ほど飲んでテーブルの上に置く。

 カランと、小気味良い音が鳴った。


「この襖の向こうが仏間になっていて、今は妻が眠っているんだ」


「……そうなんですね」


 こういう時に何と言えば良いのか、未だにわからない。平時でさえ、ぼくは会話が苦手なのだ。気まずい沈黙を誤魔化すために、もう一度麦茶に口をつける。


「今回葬送を頼んだのは、妻の遺言に従ってのことでね。『十中八九寿命だとは思うが、もしものことがあっちゃ死にきれないからね』と。……あいつらしいと思わないかい?」


「ええ、とし子さんらしいですね」


 寿命で亡くなったかどうかは傍目では判断が付かないので、克死を望まない多くの高齢者は、万が一を想定して葬送を希望する傾向にある。


 ばあちゃんも、「人生は一度っきりだから良いのさ。じゃなきゃ、命が軽くなっちまう」と言って、葬送を希望していた。


 ……結局、その願いが叶えられることはなかったけれど。


「あぁそうだ。これを渡しておかないとね。葬送の同意書と、死亡検案書」


「はい、確かに受け取りました」


 葬送屋は医師免許を持っているわけではないが、四十七時間という短い時間制限の都合上、緊急時には仮の死亡診断を下せることになっている。無論、診断に必要な諸々の知識は叩き込まれるし、病院での現場研修もある。今回は死亡検案書があるので、ぼくが改めて確認する必要は無い。

 

 

 義男さんが立ち上がってゆっくりと襖を開くと、線香の匂いが居間に流れ込んできた。仏間には布団が敷かれていて、そこにとし子さんが横たえられていた。


 ──まるで眠っているかのような、穏やかな顔をしている。


 ぼくは立ち上がり、義男さんに続いて仏間に足を踏み入れた。


「とし子さんが息を引き取られたのは、何時ごろですか?」


「昨日の朝五時時ごろだから、既に三十時間は経っているよ」


 なら、大丈夫か。

 死亡直後は血液が凝固していないため、原則として死後三十時間未満は葬送を行えない決まりがある。


「それで、その……もう、大丈夫ですか?」


 ぼくの下手くそな問いかけに、義男さんは俯いてとし子さんを見つめたまま、呟くように答えた。


「そうだね……ちょっとだけ、昔話に付き合ってくれるかい?」


「ええ、もちろんです」


 そう応えると、義男さんは静かに語り始めた。



「妻と出会ったのは、六十年も前のことなんだ。お見合いでね。今となっては珍しいだろうけど、当時はよくある話だったんだ」


「ということは、出会ってすぐに結婚されたんですか?」


 ぼくが尋ねると、義男さんは照れるようにはにかんだ。


「いやあ、うん、結果的にはね。本当は二年くらいお付き合いして、二人の相性を確かめてから結婚したいと私は思っていたんだけど、妻──とし子は違ったんだ。あいつは昔から何でもかんでも思い切りがよくてね。色々と言葉を尽くして結婚を先延ばしにし続けた私に、業を煮やしたあいつがこう言ったんだ。『大丈夫、あんたくらいの肝の大きさなら、アタシが一生幸せにしてやれる』ってね。笑っちゃうだろ?」


「カッコいいですね」


「うん。逆だよねぇ、普通。その時に、私は腹を決めたんだ。この人となら一緒に人生を歩んでもいいかもなって、思わせてくれたんだ。だったら、首を縦に振るしかないだろう? まあ、三歳も年下の子にあんなことを言わせてしまったのは、我ながら情けなかったよ」


 ここではない、どこか遠くを見つめる義男さんの瞳には、在りし日のとし子さんが映っているようだった。


「あいつと結婚してからの六十年、私はずっと幸せだった。でもとし子の方は……そうだね、少なくとも最初の五年くらいは、辛かったと思うよ」


「どうしてですか?」


「……子どもがね、できなかったんだ。あいつはずっと欲しがっていたし、私もとし子との子どもなら命に代えてでも幸せにしてみせるぞって気合を入れていたんだがね。……子宮に、どうやら難があったらしい。結婚して二年後に、病院で検査してわかったんだ。誰が悪いとかじゃない。強いて言えば、ありきたりな言い回しになるけど、運が悪かったんだ。……なのに、あいつはそうは思わなかった」


 とし子さんの寝顔をそっと撫でながら、義男さんは声を落とした。


「自分のせいだって。ごめんなさいって。何度も謝るんだ。あの頃は今以上に、こういった事情に理解のある世の中じゃなかったからね。肩身もかなり狭かったんだと思うよ。私なりに一生懸命に支えていたつもりだったけど、力不足だった。……あいつがあんなに弱々しい姿を見せたのは、後にも先にも、あの時だけだった」


 何度も何度も、慈しむような手つきで、義男さんは撫でていた。


「しばらくして、あいつは一人で立ち直った。それでも、あんたのおかげで折れずに済んだって、私に言ってくれたよ。……あの日の泣き笑いの顔が忘れられなくてね。この人と絶対に幸せになろうって、改めて決意したもんさ」


「お強い方だったんですね。とし子さんは」


「はっはっは。そうだね。うん、その通りだと思うよ。ただ、この十年くらいは、こう考えるようになったんだ。案外、あいつは強がるのが上手いだけだったのかもしれない、ってね」


「どうして、そう思うんですか?」


「不思議かい? でもね、半世紀以上も一緒にいると、私みたいに鈍い男でも、相手が何を考えているのかが大体わかるようになるんだ。それこそ、手に取るようにね。ああ、今は辛いんだなとか。今はこれをしてほしいんだなとか。言葉にしなくても、顔を見ればわかるんだよ。……あいつは人の世話を焼くのが本当に上手で、人に甘えるのが本当に下手だった。だから、最期の十年は、うんと甘やかしてやったんだ。うんとね」


 義男さんの声色はどこまでも優しくて、包み込むような響きがあった。


「最初は恥ずかしがって中々わがままを言ってくれなかったけど、やっぱり思い切りの良さが私とは違ってね。すぐに甘えてくれるようになったよ。私は、それが何より嬉しくてね。今まで支えてくれた彼女と、初めて支え合えている実感が湧いたんだ」


「素敵な関係ですね」


 ぼくは、心からそう思った。


「ありがとう。怜君も、いつかそんな関係を築ける人と出会えるといいね。……いや、もういたりするのかな?」


「いえ、まだ、その……残念ながら」


「あはは。ここいらは怜君ぐらいの歳の子は少ないからね。変な事言わせちゃってごめんよ。……焦らなくていい。一人で立つのが得意な人もいれば、誰かを支えるのが得意な人もいる。支え合うのが得意な人もいる。自分がどういう人かは、自分が一番わかっているだろうからね。さっきの言葉は忘れてくれて構わないよ」


「いえ、覚えておきます」


 ぼくは、義男さんの言葉を忘れたくないと、強く思った。


「ありがとね。……ああ、実はあいつ、こんな物も遺していたんだよ。見てくれるかい?」


 そう言って義男さんが取り出したのは、一冊の大学ノートだった。表紙には綺麗な字で「義男へ」と書かれている。


「このノートにはね、色んな事が書かれてあるんだ。美味しいご飯の炊き方とか、効率の良い掃除の手順とか。畑に植えている野菜の世話の仕方まで書いてあってね。私も一緒にやっていたから、全部知っているのに。まったく、世話焼きにも程があるよね……参っちゃうよ」


 ペラペラとめくられるノートには所々に付箋紙が貼ってあって、はた目から見ても、わかりやすくまとめられているのがわかった。


「嬉しい置き土産じゃないですか」


「うん。……そうだ。このノートに書いてあったレシピ通りに豚汁を作ってみたんだよ。これが会心の出来でね。飲んでみるかい?」


「はい、是非」


「ありがとう。すぐに温めて持ってくるよ」


 義男さんが台所で豚汁を温め直している間、ぼくはとし子さんの顔を見ていた。


 掛け時計の時を刻む音がハッキリと聞こえる。そんな静謐さを湛えた空間の中で、ふと目を離した隙に起き上がってきそうな顔をして、とし子さんは永い眠りに就いていた。


 何の心残りも感じさせない、安らかな寝顔だった。



「はい、お待ちどうさま」


「ありがとうございます。いただきます」


 仏間から居間に戻ったぼくは湯気の立ち昇るお椀を受け取ると、早速一口啜った。


 豚肉、にんじん、ごぼう、里芋、玉ねぎ、長ネギ。様々な具材の香りがなだれ込むように口内を満たす。ほんの少し加えられている一味がピリリと効いていて、一口ごとに身体が芯から温められていく。


「……美味しいです」


「だろう? あいつの作る豚汁はご飯が進むんだ」


「具沢山ですもんね。ゴロゴロとしていて、おかずも要らないくらいです」


「そうなんだよ。だけど、あいつが作るときはいつもおかずと副菜まで用意してくれてね。毎回食べきれないんじゃないかって思っても、結局全部胃袋に収まっちゃうんだ」


 ぽんぽんと、義男さんはお腹を叩いてみせた。


 豚汁を食べている間、義男さんは、とし子さんの作る煮物が美味かったとか、カレーが絶品だったとか、沢山の思い出を話してくれた。


 その話を聞きながら、ぼくは最後の一口まで、義男さんの作った豚汁を味わった。



「ごちそうさまでした」


「お粗末様。……ありがとうね、私の時間稼ぎに最後まで付き合ってくれて」


「いえ、そんなことは……」


 言葉に詰まったぼくを、義男さんがやんわりと手で制す。


「どうしても名残惜しくてね。こんなところをとし子に見られたら、きっと私は怒られてしまう。『いつまで怜君とアタシを待たせるつもりなんだ』ってね。だから、もうここら辺で止めておくよ」


「……わかりました」


「……じゃあ、お願いしてもいいかな?」


 無理矢理作った義男さんの笑顔を真っ直ぐに見据えて、ぼくは黙って頷いた。



 義男さんに続いて仏間に足を踏み入れたぼくは、とし子さんの枕元に正座した。持ってきた桐箱を脇に置いて、居住まいを正す。


 ガチャリと、畳に触れた刀が重々しい音を立てた。刀の柄が水平より微妙に上に傾く程度に鯉口を左手で押し下げ、抜刀の構えを取る。


「……では、これより葬送を執り行います」


 ぼくが宣言すると、傍らに立つ義男さんの方から、ごくりと生唾を呑む音が聞こえた。

 彼の緊張が、そのままぼくに伝わってくる。


「ふーーーっ」


 まとわりつく緊張感を振り払うために、ゆっくりと時間をかけて、肺の中にあった空気を吐き出す。継代さんだったら一息も吐かずに抜刀するのだろうが、今の自分にそこまでの技量と度胸は無い。失敗すればいたずらにご遺体を傷つけることになる。そんな失態は万が一にも許されない以上、慎重すぎるくらいで丁度良いと、継代さんは言っていた。


 肺を満たしていた空気を吐き切る直前で息を止めると、指の先の先まで、神経が研ぎ澄まされていく気がする。


 雑念を完全に捨て去るために、次は頭の中を徐々に真空にしていく。


 傍らに立つ義男さんを視界から追い出す。鼻腔を優しく刺激する線香の匂いを追い出す。口の中に残るほのかに甘い豚汁の味を追い出す。耳朶を打つ掛け時計が時を刻む音を追い出す。


 ──今この瞬間、世界に在るのは、ぼくと、刀と、とし子さんのご遺体だけ。


 柄に右手を添えて、狙いを見据える。


 そして──


「しっ!」


 肺に残っていた最後の空気を鋭く吐き出し、瞬間的に抜刀する。

 刀が首のど真ん中を通過したのを確信したら、手首を返して刹那の間に納刀する。


 キンと、甲高い音が静かな空間に響いた。

 納刀が終わった途端に、視覚が、嗅覚が、味覚が、聴覚が戻ってくる。


 とし子さんの首は微塵も動いていないし、畳にも、下に敷かれている布団にも、刀は掠りさえしていなかった。


 葬送は、無事に成功したらしい。ぼくは、思い出したかのように大きく息を吸う。


「終わりました」


 そう告げると、義男さんは大きく息を吐いた。


「……凄いね。私にはまったく見えなかったよ」


「いえ、ぼくなんてまだまだですよ」


 自分の大切な人の首が斬られる瞬間なんて、見えない方が良いに決まっているのだけれど、残酷なことに、様々なトラブルを未然に防ぐため、葬送の執行には関係者の立ち合いが義務付けられている。故に、葬送屋には限りなく短い時間で執行を済ませる圧倒的な技量が求められるのだ。


 継代さんには「仕事を任せられる最低ラインだ」と言われていたし、実際そうだと思う。でも、どうにか滞りなく終えられて良かった。


「これで、とし子が甦ることは絶対にないんだね?」


「……はい」


 縋るような問いかけに、ぼくは短く答えた。


「そうかい。あいつの遺言を守れて良かったよ。……うん。良かったんだ、これで」


 言い聞かせるように呟く義男さんに、ぼくは気の利いた言葉の一つもかけられなかった。


 現状では、克死を望まない人は死者全体の三割を僅かに上回る程度しかいないらしい。


 義男さんは七割の方だったのだろう。

 少なくとも、とし子さんには可能な限り生きていてほしかったに違いない。


「立会いが必要な葬送はこれにて終了となりますが、まだ“前準備”が残っておりますので……」


「……なら、私は居間の方で待っていようかな」


「ありがとうございます……あ」


「ん?」


 大事なことを忘れていた。


「すみません……こちら、葬送の完了証明書になります。ご確認の上、サインをお願いしてもよろしいでしょうか」


「ああ……これで大丈夫かな?」


「ありがとうございます」


 正座のまま頭を下げると、義男さんは「じゃあ、よろしくね」と言って、居間へと戻って行った。


 ぼくは彼の背中を見送り、襖が閉じられたのを見届けると、


「……っふぅー」


 誰の耳にも届かないように、小さく息を吐いた。


 思い出したかのように緊張で手が震え、頭の片隅に押し込んでいた疑問が鎌首をもたげる。


 ……本当に、これで良かったのだろうか。


 ほぼ確実に、とし子さんは老衰で逝去した筈だ。であれば、わざわざ葬送を執り行わずとも──ご遺体を無為に傷つけずとも、火葬をして、平穏無事に終わらせることもできたのだ。


 ぼくがやったことは、果たして必要な、意味のある行いだったのだろうか。


 今更考えてもどうしようもないことが、頭の中でとぐろを巻く。


「ぼくが考えていいことじゃ、ないよな」


 現実から目を逸らすための言葉を口の中で嚙み殺して、ぼくは前準備に取り掛かった。



 前準備とは、葬送屋から葬儀屋に引き継ぐ前に行われる、ご遺体に施す最後の処置を指す。葬送を執行してすぐに「はいどうぞ」では葬儀屋の方も色々と困ってしまうだろうし、何より、ご遺体には最大限の敬意を払わねばならない。


 そういうわけで、国が考えた“最大限の敬意”がこの「前準備」なのだ。とはいえやっていることと言えば、生首が衆目に晒されぬように高級な桐箱で隠して、誰も見たくない“断面”に清潔な白布で蓋をするだけだ。


 何もしないよりはマシ、程度の処置を手早く済ませ、ぼくはとし子さんに向かって手を合わせる。


 ──安らかに眠れますように。


 これで、葬送屋の仕事はすべて終わった。達成感なんてものは、欠片も感じられない。残ったのは、微かな罪悪感だけ。


 そんな居心地の悪さから逃げるようにして、ぼくは仏間を離れた。



 義男さんは、居間の窓際に立って空を眺めていた。彼の顔を直視できないぼくは、これ幸いと後ろから声をかける。


「すべての処置が完了しましたので、ぼくは失礼します。ご存知かとは思いますが、役所や葬儀屋への手続きがまだであれば──」


「大丈夫だよ。継代さんによろしくね」


「……わかりました、伝えておきます」


「怜君」


 足早に玄関へと向かうぼくを、義男さんが呼び止めた。振り返り、二人の視線が合う。


「はい」


「あいつはね。遺言の最後に、こう書いていたんだ。『あたしを見送る時は、笑顔で見送ってくれ』ってね」


 大きく息を吸い、義男さんは歪な笑顔を作って言う。


「──怜君、私は今、上手く笑えているかい?」


 ぼくは、


「ええ、もちろんです」


 と、わかり切った嘘を吐いた。


「なら、良かった。あいつの、最期のわがままだからね」


「ささやかなわがままですね」


「私もそう思うよ……ああ、引き止めてしまってごめんね」


「いえ……それでは、これで」


「うん、お疲れ様」


 こうして、ぼくの仕事は終わった。


 外に出てカラカラと戸を閉じた後、家の奥から鼻を啜る音が聞こえてきたけれど、聞こえないふりをした。


 葬送屋の仕事をしていて、「お疲れ様」と言われることはあっても、「ありがとうございました」と礼を言われることはまずない。そういう仕事なのだ。


 それでも、ぼくはぼくのぐらぐらの信念に従って、この仕事を続けていくつもりだ。


 見上げると、太陽は真上に昇っていた。

 一層暑くなっていた帰り道で、ぼくは一言も弱音を吐かなかった。

よろしければいいね、感想、評価をよろしくお願いいたします。


他にも『定食屋を継ぎたかった勇者』という長編を書いています。是非ご一読ください。


第一話URL:https://ncode.syosetu.com/n7408jd/1

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