三
「櫻子さん。今日、何かありましたか?」
思い切り顔に出ていたらしい。
夕食時。
鯵の煮付けに、今日習ってきた副菜――オクラの和え物、そら豆の炒め物――を添えた食卓の向こうで、気遣わしげに肇はこちらを覗き込んできた。
「やっぱり、先週のあれは感じが悪かったですか」
「あ、いや」
彼が言っているのは、傘を持って迎えに来てくれた日のことだ。
肇は、千枝が自分たちとは別の方向に帰るのだと思って傘を渡したが、実際にはそうではない。その場では千枝も気を遣ってくれたのだけど、あまりバスの本数もないから結局は同じ便に乗ることになって、そのときになって彼は「すみません、引き剥がすようなことをしてしまって」と詫びること頻りだった。
「それは全然。そうだ、千枝さんも改めて傘のことはお礼を伝えてほしいと。ありがとうございました」
「いえいえ。……本当に気まずくなったりはしていませんか? つい気軽に寄ってしまったんですが、ああいうところにずかずか乗り込んでいくのは良くなかったですね」
それは本当に別に、と思う。
迎えに来てくれたのは、ちゃんと嬉しかったのだ。それに、そのくらいのことで関係が悪くなるほど、あの料理教室で微妙な立ち位置にいるわけでもない。
でも、心に気にかかることは二つあって、
「実は、今日――……」
櫻子は、そのうちの一つを口にしてみることにした。
話を聞き終えた肇は、予想していなかったのだろう。しばらく安堵したような、一方で奇妙がるような、微妙な表情を浮かべて、
「それは、」
ちょっと笑った。
「鰻の掴み取りでもしていたんじゃありませんか?」
櫻子が話したのは、教室の後、厨房から聞こえてきた真鍋の声の方だ。
「鰻、ですか」
「鰻に限りませんが。料理人が使う『暴れるな』は、私だったらそういう活きの良い食材相手を想像しますね。特に魚は、生け簀から取り出してその場で捌くこともあるでしょうし」
真鍋には申し訳ないが、こっちの方がずっと話に出しやすかった。それに肇はさらりと、穏当な推測で心を解してくれる。
「あ、確かに。この間、使う食材の関係で呼び出されていたりしていましたし、それかもしれません」
「お店より公民館の厨房の方が大きいでしょうし、広々とした場所を使って、普段はやらないような料理をしていたんじゃないでしょうか。うちでもやってみますか」
「えっ。鰻ですか?」
「登川で釣れるんですよ。冬眠前が旬だから、もう少し先の話にはなりますけど。ちなみに、櫻子さんは捌けますか」
「いえ、流石にやったことは。肇さんは?」
「子どもの頃に食わせてもらったことはあるんですけどね。帰ってきてからは釣りなんかとんとしなくなったので、自分では」
そうなんですね、と櫻子は頷いた。
「肇さんは器用なのでできてしまいそうですけど……教室で、機会があれば教わっておきますね」
「いやいや。そのときは素人同士、仲良くわたわたしましょうよ」
「なんでですか。両方素人だと、収拾が付かなくなっちゃいますよ」
いいじゃないですかたまには、と肇が言う。
何がたまにはなんですか、と返すと、
「櫻子さんはただでさえ料理上手なのに、物珍しいものまで覚えられてしまったら、私が出せる料理がなくなっちゃうじゃないですか」
一瞬、櫻子は箸を止めた。
それから、
「それでいいんです」
「えぇっ」
自分の口から出たとも思えない強気な発言に、二人して笑う。
穏やかに箸は進んでいく。
冬まで一緒にいてくれるんだ、と思った。
❀
我ながら単純なものだと思うけれど、それだけで気が楽になってしまった。
心配事は次々現れていたけれど、次々に解されてはなくなっていく。きっとその心配の種は自分で勝手に蒔いているものだから、いつまでも尽きることはないだろう。
しかし、それでも日々は進んでいく。
だから、また次の水曜日が来る。
雨はもう三日も姿を見せないで、すっかり梅雨明けの風情だった。
前回は教室の開始時刻ぎりぎりを狙ったけれど、今日は余裕を持って最見屋を出た。バスを降りて、真っ直ぐに公民館に向かう。
「あ、」
中に入ると、玄関広間で一人の少女がこちらを見て立ち上がった。
「春河先生」
「千枝さん。こんにちは」
松波千枝だった。
「一本前のバス……じゃないや。学校の帰りだよね」
「はい。あ、あの……」
もじもじと、千枝は髪の先を指でなぞる。
それから意を決したように、ぱっとこちらに向き直ると、彼女は頭を下げた。
「この間は、すみませんでしたっ」
驚いて、櫻子は目を丸くする。
千枝はすぐにその頭を上げて、
「あれ、あの後自分で考えて。みんなに言い触らしちゃったんですけど、春河先生、ああいうの嫌だったかもって。ごめんなさい。私、口が軽くて」
「う、ううん」
もしかして、待っていたのだろうか。
よく見れば、少し千枝は額に汗もかいている。ひょっとして自分とこうして話をするために、学校が終わってから駆け足で、ここまで急いで来たのか。
そう思えば櫻子は、より一層胸が落ち着いてくる。
その気持ちを、千枝にも分けてあげたくなった。
「大丈夫。気にかけてくれてありがとう。私、あんまりお友達がいなかったから、ああいう風に囲まれてびっくりしちゃっただけなの」
「そう言ってもらえると……」
「本当のことだから、大丈夫。それより、あの日かえって気を遣わせちゃってごめんね。私たちに見えないようにこっそりバスに乗ろうとしてくれたでしょう。あれ、私も気になってて」
「えっ、全然全然」
いいんですそんな、と言って千枝もまた、肩から力が抜けていく。
よかった、と思うと同時に櫻子は、そうして謝ることにどれだけの勇気が必要だっただろうかと、この年下の少女に秘かに尊敬の念を抱く。
きっと千枝は、自分のことを大人の人として見ているけれど、そんなことはない。
相手が年下の子だって、そんな風に見上げてしまうことばっかりだ。
「ちょっと早いけど、教室に行っちゃおうか。今、鍵を借りてきちゃうね」
「あ、はい!」
言えば、千枝は元気な小鹿のようについてくる。
こういうところは子どもっぽいと微笑ましく思っていると、しかし訪ねた先の窓口で、老年の係員は「おや」と眉を上げた。
「鍵ならさっき、真鍋さんが取っていきましたよ。もう開いてるんじゃないかな」
そうですか、ありがとうございます。
礼を言って離れるけれど、櫻子は千枝と不思議に思って顔を見合わせる。
「珍しいですね。真鍋先生、いつも時間ぎりぎりに来るのに」
「ね。どうしたんだろう。何か用事かな」
ここで話していても始まらない。そういうことならと二人は歩いて、厨房へと向かう。
扉の前。
同じ光景を前に先週のことを思い出して、櫻子がほんの少し開けるのを戸惑っていると、
「――うわっ!」
真鍋の声。
遅れて、何かがひっくり返るような音。
もう一度、櫻子は千枝と顔を見合わせた。
「何ですか、今の」
「な、なんだろう……」
本当にわからないし、若干嫌な予感もしている。
が、ここで千枝の背中に隠れるわけにもいかない。自分が行かなければ。確固たる決意を持って、櫻子は扉に指の背を当てる。頼む、と思う。
鰻の掴み取りであってくれ!
「あ、春河さん?」
思いのほかあっさりと、扉は開いた。
中から出てきた真鍋は、どうも疲弊の色がある。前髪が汗で額に張り付いているのは、果たして初夏の陽気の先取りによるものか。どことなく息も荒い。彼女は細く開けた扉の隙間から、廊下に立つ二人を見ると、
「と、千枝か。早いね」
「はい。千枝さんとはちょうどそこで」
「二人だけ?」
「はい。あ、もし何か取り込み中でしたら、どこかで二人で暇を潰してきますが」
うんうん、と千枝も頷いている。
が、真鍋は、
「いや。二人ならちょうどいいや。ちょっと手伝ってもらえないかな?」
きぃ、と大きく扉を開けて、二人を招き入れた。
一見すれば何の変哲もない、いつもの教室が始まる前と大差ない、平常通りの調理室に見える。しかし一ヶ所だけ、櫻子と千枝の目に留まるものがある。
鍋から、湯気が立っていた。
「何か作ってたんですか?」
千枝が訊ねれば、うん、と真鍋は頷いた。
「ちょっと試作品をね。こっちの方が厨房が広いからやりやすくて。で、二人に頼みたいのは試食なんだけど。今時間とか、お腹の調子とか大丈夫?」
「大丈夫です! 早く来て得した~!」
「はい。私も大丈夫です」
ほっと櫻子は、内心で胸を撫で下ろしていた。
実を言うと、肇からあの鰻の掴み取りの話を聞くまでは、事件の可能性も少しだけ考慮に入れていたのだ。そういうことをする人ではないと思ってはいるが、どうしても「暴れるな」という言葉には、かえって暴力的な印象が湧いてしまう。
でも、違った。
本当に肇の言うとおり、真鍋はただ料理をしているだけだった。話を聞いただけでこうと真相を見抜ける力はすごいと櫻子は思う。普段の仕事でもそうだけれど、最近は海外の探偵小説の翻訳もしているというのも、ひょっとしたら無関係ではないのかもしれない。
大人しく席に着く。
生け簀なんかどこにも見当たらないということに、今更気付いた。
「肉料理でね。専門外の洋食なんだけど」
真鍋はおたまを手に取って、鍋の中身をくるくるとかき混ぜる。
香ばしい匂いが、ふわりと厨房の中に広がった。
「食べたことある? ビーフシチューって」
「あ、私あります! 前に家族で!」
「私はありません。あまり外食しない家で……」
「そっか。でも春河さんは結構色々食べられるみたいだから、大丈夫そうかな」
慣れた手つきで真鍋は料理を皿によそう。
とろみのある、茶色いシチューだ。大きめに切ったじゃがいもと人参、そして四角く切られた肉が入っている。
皿が、二人の前に置かれる。
「ま、ちょっと食べてみて。そのビーフシチューみたいなものだから」
「はい!」
「……みたいなもの?」
千枝は元気に返事をする。
一方で櫻子は真鍋の言葉に手を止めて、よくよくその皿を眺めてみる。
牛肉。
ではないような、気がしないでもない。
しかし千枝は気にしない。お行儀よく「いただきますっ」と言ってから、早速スプーンを差し入れて――、
どん、と音がした。
千枝の手が止まる。もっと前から手を止めている櫻子は、もうその音のした方を見ている。
調理台の陰だ。
どんどん、がん――何かの音が、ずっと響いている。
「何の音ですか?」
千枝が訊いた。
「…………」
真鍋はにっこり笑ったまま、答えなかった。
「え? 何――春河先生?」
千枝が助けを求めるように、こっちを見てくる。
助けを求められても、この場面で颯爽と彼女を助けられるだけの力は、残念ながら持ち合わせていない。
しばし、櫻子は考えた。
暴れるな、という彼女の言葉。鰻ではなかった。生け簀がないから、他の水産物でもないらしい。目の前にはビーフシチュー『みたいなもの』。いまだに物陰で鳴り響く音。じっ、と料理を見れば、一つの疑問が思い浮かぶ。
これは、何の肉だろう?
すくっと櫻子は立ち上がった。
「…………あの、」
「何も気にしない方が気持ち良く食べられるよ」
急に真鍋が、流暢に言う。
あまりの怪しさに、その一言で決定的に櫻子の気持ちは固まった。
「春河先生、」
千枝が呼ぶ声にも負けずに、歩いた。
止められるかと思ったら、止められなかった。
真鍋はにっこり笑った顔のままで、櫻子を素通しにする。だから辿り着いてしまう。調理台の物陰。
ガタガタと揺れる木箱が、そこにあった。
かなり年季の入った様子だった。最見屋でこういうものを見慣れているからわかる。十年そこらというものでもあるまい。自分が生まれるよりももっと前。あるいはひょっとすると、この国の港が海の向こうに開くよりも前のものかもしれない。
血液のような染みが、ところどころに付いている。
両手でそれを掴んで、調理台の上に置いた。
「ひっ! な、何ですか、それ!」
ガタガタガタガタッ、と。それこそ釣り上げられた魚のように箱は震えている。それはすなわち、その中で何かが暴れているということである。
櫻子は、けれど。
深く息を吸って吐くと、意を決してその蓋を開ける。
そして、閉めた。
驚いた顔をしている。
それは櫻子ではない。千枝と、それから真鍋も。真鍋は「どうしてそんなにすぐに閉めたのだろう」という顔をしているし、一方で千枝は、表情から読み取らずとも声に出して今の気持ちを伝えてくれる。
「な、何が入ってたんですか」
櫻子は蓋に体重を掛けて、箱の中に入っているものをぎゅうっと押し込めながら、
「あの、真鍋先生」
「え? うん」
「多分、なんですが」
一応、箱の形も確かめてから。
ある程度の確信を持って、真鍋に言う。
「これ、うちの道具屋が扱っていた商品だと思います。何か、お困りごとがありますか」