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再び空き教室に入ると、作業をしている坂口に近づいた。
「失礼します」
「どうした、副会長? 見学ならすまないが完成まで――」
振り向いた坂口が、ピタリと動きを止めた。
「姫咲怜凪……」
滑るような素早い動きで脚立からおりてきた。
「こんにちは、坂口くん。すごい作品だね」
「いつ見てもマーベラス……ッ!」
しとやかに微笑む姫咲に向かって、坂口は両手の指で額縁の形をつくった。
「神が生み出した最高傑作の造形! 絶妙な彫りの深さ! くっきりと刻まれた二重まぶたに鮮やかな目の虹彩! 溝引きしたかのような直線の鼻筋! 陶磁器に勝る滑らかな肌! なによりも美しいのは、各パーツの黄・金・比・率! やはりきみは芸術だ!」
「……キモいぃぃぃ」
誰にも聞き取れないほど小さくつぶやいて、姫咲が隣にいる宮城の制服をつかむ。坂口からは見えない絶妙な角度だった。
宮城はちらりと姫咲の様子をうかがった。表情は笑顔のままだが、制服を引っ張る力が尋常ではなかった。
「事情は宮城くんから聞いたよ。気持ちはわかるけど、この教室での活動は自粛してくれないかな」
「む、デッサンのモデルになってくれるのではないのか」
「その話は前にも断ったよね。今は、生徒会として来たから」
「ああ、会長だったな。許してはくれないのかね」
「場所の問題なら、あとで、ちょうどいい場所を正式に手配する。誰にも邪魔されないで作業できるよ」
「しかし、完成が遅れるのは……」
「ゲーテは生涯をかけてファウストを完成させたんだよね? 時間に余裕を持つことで傑作が生まれるんじゃないかな」
「ううむ……」
「坂口くんの協力が必要なの――どうかお願いします」
「ま、待て」
かしこまって姫咲が頭を下げようとすると、坂口が慌てて止めた。
「わかった。きみの言う通りにしよう。ただ、作品を保管する場所がないんだ。作業場所が決まるまでの間はこの教室に置かせてくれないか?」
「もちろん。本当にありがとう」
「認めた芸術には敬意を払う。わたしの負けだ」
宮城の時とは打って変わって、すんなり説得できた。
そう。出てくるだけでいい。
姫咲は高校の頂点に君臨する人気者だ。宮城とは発言の影響力が違う。同性ならまだしも、男子でなびかない人間はほぼいないと言っていい。変人相手でも通用するかは未知数だったが、効果はてきめんだった。
仮に坂口が態度を変えなかったとしても、姫咲ならうまくやれただろう。
昼休みの放送だって、いつも原稿を用意していない。必要な情報は暗記し、あとはアドリブで乗り切っている。
成績が一位なのも、スポーツ万能なのも、所作を繕えるのも、すべて彼女の実力。メンタルの弱さが足を引っ張っているだけだ。
生徒会長の名は伊達ではない。
クセモノ代表。猫かぶりぽんこつプリンセス。
姫咲怜凪は〝やればできる子〟なのである。
「作業場所が決まったら改めて――痛っ」
前に出た姫咲が横にかたむく。足元に散らばる木材の破片を踏んでバランスを崩したらしい。
「とっとと」
横にあった机を押した。
不安定に積まれた段の隅っこを。
ぐらり。
ずれた部分はごくわずかだったが、不安定な台座のバランスを崩すには十分だった。
頂上に置かれた木像が落ちてきた。
「え?」
姫咲が天井を見上げる。事態が追いついていないのか、呆然と立ち尽くしていた。
「――ッ!」
宮城は瞬時に移動し、姫咲を押し退けるようにして横に立った。
両足を踏みしめる。左拳を下段、右拳を脇に引く構えをとる。息を吐いた。
丹田に力を込める。
精神統一。
「ハァ――ッ!」
気合いと同時に頭上へ向け、渾身の正拳を突き上げた。
落下した像に拳が激突する。衝撃によって一迅の風が吹いた。像の中心から瞬く間にヒビが入ると、真っ二つに割れて吹き飛んだ。
「えええええええ!?」
姫咲の悲鳴が響き渡る中、宮城は冷静に拳をおろした。
「大きな展示物が倒れると、事故に繋がりかねません」
制服に木片がついたまま頭を下げた。
「大切な作品を壊してしまってすみません。姫咲先輩を怪我させないために必死だったんです。美術部の活動を守るためにも、ご協力をお願いします」
「完成だ……!」
見ると、坂口は怒るどころかむしろ喜んでいた。
……作品を壊す方法で迷っていたようだが、まさか今のでよかったのか?
良心を刺激するために姫咲が怪我する恐れを強調したが、いらぬ弁解だったらしい。
隣を見下ろすと、姫咲が膝をついたままじっとしていた。熱のこもった目で宮城を見つめている。
いや、化物を見るような目をしていた。半開きの口から声が漏れた。
「こっわあ」
「……泣かなくてもいいじゃないですか」
臆病な生徒会長には刺激の強い場面だったらしい。ほんの少しだけ傷ついた。
トラブルによって作品がなくなったことで、今回の問題は終わりになった。坂口は大層満足したのか、「インスピレーションがおりてきたぞ!」と小躍りしながらどこかに出かけていった。
宮城は腰の抜けた姫咲を運ぶハメになった。お姫様抱っこである。生徒に見られれば妙なうわさが立ちそうな姿だったが、幸い放課後だったおかげで目撃者は最小限におさえられそうだった。
人気のない廊下を進む。当然ながら、お姫様抱っこしながら校舎を歩くのははじめての経験だった。
「……痛くない?」
声がして視線を落とすと、姫咲と目が合った。彼女が顔を横に向ける。
姫咲の肩を抱く宮城の右手はうっすらと赤くなっていた。
「平気ですよ」
中学時代は瓦や木板を割る鍛錬は序の口で、丸太や鉄板まで叩かされていた。試合には一切生かされなかったが、意外な時に役立つものだ。
「…………なにしてるんです?」
奇妙な感覚がして目をやると、姫咲が宮城の右手を包むように、手を重ねていた。
「べつにー。あたためてあげよっかなって」
「炎症は冷やすんですよ」
「――~~っ! 知ってます~! 嫌がらせだし!」
顔を真っ赤にして、すぐに手を放した。
窓の外はすっかり夕焼けになっていた。昼間の曇りは薄れ、黄昏時の光に照らされた廊下に二人分の声だけが通った。
「ねえ、拓也」
「なんですか」
「わたし、頑張ったよね」
「そうですね」
「なんか適当ー。ちゃんと褒めて」
「ASMRがあるじゃないですか」
「ちぇー。いいじゃんかよー」
口をとがらせて、姫咲がそっぽを向いた。
宮城は一瞬だけ肩を抱き上げる力を強めて、彼女の耳元に口を寄せた。
「――頑張りましたね」
「ふぇ?」
姫咲が目を見開いた。宮城はもう、元の体勢に戻っていた。
「もう一回! 聞こえなかった!」
「なにも言ってません」
「言ったー! 絶対言った! もう一回! 同じシチュで!」
「重いです」
「クソメガネ! 脳みそ揺らしてやる!」
暴れ出した姫咲を落とさないように気をつけながら、宮城は歩き続けた。変化の少ない冷静な表情で。
あるいは微笑んでいるように見えたかもしれない。