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昼休み。
「ひい……ひ……」
荒い息遣いがした。
空は朝の陽気が陰り、灰色の雲が増えつつあった。じめっとした不快な風が吹く。
望陵高校では屋上を解放しているが、利用者はごくわずかだった。最上階まで階段をのぼるのはめんどうで、来訪者を楽しませる物はなにもなかった。
唯一あるのは、安全のために設置された、周囲をぐるりと囲むフェンスくらいだ。このフェンスは非常に頑丈なつくりで、生徒から「熊が突進してもへこまない」とうわさされるほどだった。網目は細かく、よじ登るのも困難である。
「ひぃ……なん……っ」
フェンスに背中を預ける形で、一人の女子が尻餅をついていた。見るからに追い詰められていて、乱れた呼吸を整える余裕もなく震えていた。
「見つけましたよ、姫咲先輩」
女子の目の前には、背の高い男子が立っていた。学年ごとに違う色の上履きは一年生だと示している。が、下級生だとは思えない貫禄があった。顔立ちは整っているが、ノンフレームの眼鏡の奥にある目つきが鋭いせいで冷たい印象を与えていた。
生徒会副会長。
宮城拓也。
「逃げるのはやめてくれませんか」
宮城は冷静に姫咲を見下ろした。予想していたとはいえ、やはり疲れる。
返事はなかった。おおげさな呼吸でまともに声が出ないのだろう。
時間はないものの、強制したところで事態は悪化するだけだった。辛抱強く待った。
一秒、二秒……。
やがて、姫咲の桜色の唇が動いた。
「だって~~~! 怖いんだもん!」
迫真のさけびである。
半泣きの顔は幼児のようで、朝の上品な姿が皆無だ。彼女を慕う生徒が見れば、「誰だアレ」と混乱するだろう。
「なんで、拓也が来るの!?」
「探すように頼まれたんですよ。毎回じゃないですか」
月曜日の昼休みに姫咲が逃亡するのはお決まりのパターンになっていた。
週に一回、生徒会長が一週間の行事やトピックを紹介する校内放送がある。生徒たちからは大好評で、特に男子は楽しみにしている者が多い。憂鬱な週明けの癒しとして親しまれていた。
ところが、当の本人といえば。
「むりぃぃぃ……吐きそ……」
げっそりと青ざめている。今にも倒れそうだ。
他の生徒なら心配して救急車でも呼びそうだが、宮城はいっさい揺れなかった。
「たった五分ですよ。そろそろ慣れてください」
「わかってない! 五分の放送がどれだけ長く感じるか! 回数が増えるとプレッシャーが大きくなるの! 慣れるのが当たり前みたいな悪しき風潮は断固反対! 古い思想が日本をダメにする! 多様性を認めるべきだと思います!」
なにやらまくしたてているが知ったことじゃない。
「そもそも、放送の話を受けたのは姫咲先輩ですよね」
人気者の姫咲に協力してもらい、校内放送を盛り上げたい。放送委員からの相談を彼女は二つ返事で引き受けた。当初は一回だけの予定だったが、予想を超える反響があったために継続している。
「頼られたら応えてあげたいし、みんな褒めてくれるからぁ……」
「なら、仕事をしてください」
手を引いて立ち上がらせる。と、姫咲の片耳からワイヤレスのイヤホンがこぼれ落ちた。とっさに腕を伸ばし、キャッチする。大音量で聴いていたのだろう。イヤホンから音が漏れていた。
『いつも頑張ってるね。すごいね。おいで。よしよししてあげる』
「キモ……」
「おい、聞こえたぞ。カズくんバカにするとかぶち殺だかんな!」
「姫咲先輩が気持ち悪いんですよ」
「やめて! ドン引きしなくてもいいじゃん!」
男の美声が、手のひらの上で甘くささやいていた。
ASMR(オートノマス・センサリー・メリディアン・レスポンス)。
音声や動画によって安らぎや刺激を感じさせる娯楽ジャンルである。定義は幅広いが、主に音声を扱った作品が分類される。
例をあげると、水のせせらぎや食べ物の咀嚼音など。特定のシチュエーションを音声だけで語るものもある。ヒーリングミュージックやボイスドラマに近い。
今、流れているのは、架空の美青年キャラクターである『十六夜カズキ』の甘やかしシリーズ第一弾『イケメン王子と二人で勉強会~ぼくだけのプリンセス~』だ。魅惑のウィスパーボイスがリスナーの乙女心をわしづかみにして中毒の沼に堕とす(姫咲談)。ちなみにシリーズは第四弾まで発売。第五弾の予約がはじまっている。
宮城は無心でイヤホンから漏れる音声を聞き流した。大音量で聴いていたのによく会話が成立していたな、と妙に感心した。
「返して! カズくんを返してよ!」
「音声はスマホからですよね」
「ちっちっち。素人と同じにしてもらっては困るなあ。ハイレゾ対応の最新ウォークマンだし。カズくんの美声はフルスペックで聴かないとね。イヤホンもハイグレード。ワイヤレスだからといって音質の悪さを決めつけるのは時代が古いのだよ。もちろん、ヘッドホンの時はポータブルアンプを――」
心底どうでもいい。イヤホンを返すと、姫咲は耳につけ直して、でへへ~、とだらしない顔になった。
「カズくんだけが辛すぎる世界のオアシス……わたし、今日も生きていて偉いなあ」
「さっさと行きますよ」
「いやあああああ! やだーーー!」
駄々をこねる腕を引っ張り、今週も放送室まで連れていった。