第94話 ラッフルズをなめるな
アリス嬢は、自宅で父親に甘えていた。
目に入れても痛くない自慢の娘である。
小さい頃から、おっとりしていて愛らしく、素直で優しい。
容貌は自分の黒髪を見事に受け継いでしまったが、父の髪とは違って、ふさふさと優しく柔らかく渦を巻いている。たいそうな美人だ。
「お父様」
「なにかな? アリス」
世間では、年頃の娘は父親を毛嫌いするケースもあるという。
ザビエル型頭髪スタイルの父は、そこらへんも考慮して優しく答えた。
「お友達のことで、お願いがあるの」
「キャロライン嬢かな?」
「ううん。リオよ」
ええっ? 男かッ!
ついに恐れていた瞬間が?
どう言って、止めさせよう。
ダメだとか言って、駆け落ちされても困るし、男親の説得なんて聞いてもらえる気がしない。妻はなんていうだろう。いや、娘の側に回る可能性もある。だが、彼女は審査が甘い。男は中身だ。顔じゃないっていつも言ってるのに。
いや、待て。リオって確かハーマン侯爵家の養子に入ったどっかのウマの骨だな。だが、ものすごいイケメンで騎士学校はトップ成績だと聞いた。
これは、買いなのか、見送りなのか、とにかくリオ本人に会って意向を確認しないと始まらないかも。
この間、三秒。
「会ってもいいが……」
渋々振ってみたが、娘からは意外な返事が返ってきた。
「ううん。会わなくてもいいの」
えっ? 親の了承なしで、進行案件なの? ダメ、絶対!
「リオに爵位継承関係に強い人を紹介してあげたいの」
「……何のために?」
リオは確か侯爵家を継ぐことで決定のはずだ。その証拠に、アッシュフォード子爵をすでに名乗っている。
「リオのためじゃないの。シエナのためなの」
じゃ、なんでシエナに紹介しないのか?
「リオが婚約者のシエナのために、代わりに手を回しているの」
……違うのか。リオはすでに売約済みか。
違うと思うと、リオがちょっと優良物件に思えてきた。
「シエナのお父様が、勝手に婚約者を決めないように、どんな悪辣な手段を使っても、隠居させる手続きを進める人がいいの」
悪辣な? ま、他家のことだ。娘のご機嫌の方が大事だな。
「なるほど。じゃ、そうだね、スミスさんを紹介するよ」
娘の成長を実感したと同時に、関係ないとわかってホッとしたダーマス侯爵は、太っ腹な気分になって、付け加えた。
「スミスさんに、私の名前で紹介状を書いてあげよう」
「お父様、大好き」
よかった。今日も無事だ。幸せいっぱいなダーマス侯爵だった。
「スミスです。よろしくお願いします」
リオが差し向けた弁護士は、エドワードが紹介してよこした腕利きだった。しかし、借金問題に関しては鬼畜でも、貴族の継承問題は、専門外。
「よろしくお願いします、スミスさん」
そんなわけでスミスさんの出番となったのだった。
「こう言った問題を扱える方が少なくて……」
ラッフルズ家側の弁護士はいかにも腕利きといった男で、ラッフルズに厚遇されるだけあって、上等の服を着込んでいた。
だが、スミスさんは……
スミスさんはザンバラ髪の中肉中背の中年女性だった。
法曹界の重鎮ダーマス侯爵によれば、すごい腕利きらしい。
だが、そういった貴族がらみの仕事をする人間は、相手が相手なだけにたいてい身なりはピシッと決めている人が多い。
スミスさんは女性だというのに、着飾るでもなく、最低限必要な身なりだけだった。
だが、書類をざっと調べ、顔を上げた時、スミスさんの顔色が変わっていることに、パトリックと弁護士は気がついた。
なんだろう?
「リオ様のご依頼だったのですね」
キラリと黒縁メガネが光った。
リオ様? アッシュフォード子爵ではなく?
「え? まあ、支払いはリオがすると言ってきかなかったんですが……」
実は自分の依頼だけど……
パトリックはたじろいだ。ついでに弁護士もたじろいだ。
何があるの?
スミスさんは、持参した大きなカバンから、ごそごそ何かを取り出し始めた。それから急にしなを作って、何やら光るカードを差し出した。
「会員番号 25」
なに、これ?
「うふふふ……リオ様ファンクラブの会員番号ですの」
話の流れが読めなくて、パトリックと弁護士はまじまじとスミスさんの顔を見つめた。
「名誉の二桁ですの」
名誉の二桁……なんのことだかさっぱりわからなかった男二人だったが、スミス嬢?夫人は、全く見当がつかないらしい二人に、とうとうとファンクラブの仕組みや、最近のリオ様の行動や情勢、シエナ嬢の状況などを、聞いてもいないのに語り始めた。
最後にスミスさんはきっぱりと言い切った。
「お任せください、この案件。本日中にも、リーズ伯爵のすべての権利をご嫡男パトリック様に移しますわ」
いくら何でも、本日中は無理だと思うけど。
でも、よくわからないままに固い決意は伝わってきた。リオ様のためには何でも致しますわと(そこまで頼んだ訳ではないのだが)とにかく任せていいらしい。
「では、急ぎますので」
黒縁メガネはそそくさと出て行った。
男二人は茫然とその後姿を見送ったが、やがて我に帰って、弁護士の方が言った。
「私は、レイノルズ侯爵の線を追っている。そちらの手続きが済み次第、パトリック殿のお名前で、王都の屋敷や田舎の屋敷を差し押さえ、父の伯爵には妻の実家に行ってもらうつもりだ。邪魔者は退場してもらおう」
「歓迎されないと思うが」
パトリックが言った。母方の祖父母のことは知っている。体面を大切にする人たちだ。
「知らないな。その間に、レイノルズ侯爵からの脅迫文や請求書など証拠を集めて、訴訟を起こす」
「レイノルズ家は裕福だ。リオの財産くらいむしり取れるだろう」
ハーマン侯爵家の客間で不穏な会話が交わされている時、エドワードの来訪が告げられた。
「レイノルズ侯爵が失踪しました。借財管理収容所に入れられる予定だったんですが」
エドワードは顔を紅潮させていた。
弁護士も、パトリックも驚いて、振り向いた。
借財管理収容所と言うのは、貧乏人が収容される場所である。借金を返さない人間が逃亡することを防ぎ、金がないなら労働で返済させる悪名高い施設だった。
貧乏人、少なくとも平民が対象で、侯爵位があるような人間が、収容されるなど考えられなかった。
なぜなら、侯爵家には必ず領地がある。逃げられる心配はない。むしろ、逃げて欲しいくらいだ。逃げてくれれば、裁判の結果を待たなくても、土地や建物が簡単に手に入る。
それに、収容には申し立てが必要だ。大抵の貴族には親族がいるし、一族からそんな不名誉は出したくないから、申立人は、貴族である大勢の親族から恨まれて、面倒くさいことになる可能性があった。
「誰が申請したんだね?」
パトリックが聞いた。
「ちょこまかした、取るに足りない貧乏人や小商売人どもですよ。あんな連中でも、寄れば怖いですね。大勢でわあわあ押しかけて、カネを返せと騒いでいます。追っ払ってくれと、町の警備兵に頼んでも、事情を聞けば侯爵が悪い」
そこで、エドワードはニヤリと笑った。
「貧乏人達、全員が訴状を持っています。法的にはぐうの音も出ません。それにレイノルズ家の親族に恨まれても、人数も多いし、仕返しする方法をいちいち考えるのは大変ですよ」
普通、貧乏人は訴訟事務など出来ない。よく知らないし、そもそも字が書けない者が多い。ましてや借財管理収容所への収容の申請手続きなんか、絶対、知っているはずがない。
「誰だか知らないが、親切な人物がいて、それは気の毒にと、代わりに訴状を書いて、裁判所の利用の仕方を教えてやったそうです」
「費用は?」
「立て替えてやったらしいですよ? これで、どんなに騒いでも、誰にも文句は言われない」
普通、逃亡はない。理由は争いに負けたことを意味するからだ。
「逃亡って、どれくらい経ったら逃亡になるんだ?」
弁護士はニヤリとした。
「そうですね。それぞれの訴訟人の返事の期限までに応答がなく、本人の居場所がはっきりしなければ逃亡ですね」
「じゃあ、リーズ伯爵の訴訟が一番最初に権利が確定するわけだな?」
エドワードが食い気味に言った。
「そうです。うまいことやりましたね、パトリック様」
弁護士がニヤリとした。
「かなりの金額を取り戻せますよ。伯爵が知ったら、さぞ悔しがるでしょうね」
「でも、何も知らない。そのうえ、今はスミスさんが動いてくれています。全部、手遅れですよ」
エドワードがそうい言うと、パトリックもさすがにニヤリと笑った。
「少なくとも、借財なんかはない伯爵家の誕生だ」
「なにしろ、前の当主は節約に節約を重ねてくれたからな。シエナの食費までケチったのだから」
エドワードが真面目な顔に戻って言った。
「スミスさんの手続きが済み次第、領地の差配人にうちの者を差し向けましょう。リーズ家はやり方が悪かっただけです。少なくとも隣のゴア家の数十倍の利益が上がるはずですよ。ラッフルズが付いた以上、リーズ伯爵家は、もう安泰です。レイノルズ侯爵に関していえば、逃亡して終わりにはならないでしょうけどね」




