第76話 レイノルズ侯を追い詰める
レイノルズ侯爵家は、苦境に立たされていた。
息子のボリスは不敬罪の本人なので勾留されたままだが、侯爵自身は息子を庇って虚偽の発言をしただけだったので、解放された。
「虚偽って、嘘ではないわい。リーズ伯爵が間違ったことを言っただけなんだから。ボリスとリーズ家の娘のシエナは婚約している。証書は伯爵家が持っているが、出さなかっただけじゃろう。理由はわからんが」
昔からリーズ伯爵は気が弱かった。そのくせ、わがままで他人の気持ちに疎いので、使用人にも過酷で、何かあるとすぐに使用人に責任転嫁していた。これでは誰も長続きしない。
だから、良い助言をしてくれる執事などいるはずもなく、レイノルズ侯爵が訪問すると、相談相手のいない伯爵は怯えて大抵のことは侯爵の言う通りになったのだ。
「わざわざ出向くのも面倒くさいが、しっかり言わねばなるまい。そして、婚約証書を手に入れなくては。あのバカ者が」
だが、今日は違った。
伯爵の代わりに、ベイリーというまだ若い男が執事だと名乗って出てきたのである。
「執事だと?」
執事などいるはずがない。
「お前などに用はないが? 伯爵はどうした?」
「お会いになりたくないそうです」
「なんだと? わしの言うことが聞けんのか。借金が増えるだけだぞ?」
「そのことですが、レイノルズ侯爵」
極めて慇懃にベイリーが言い出した。
「証書の方を確認させていただきましたところ、利率が頻繁に変更されているようでして」
「それがどうした。本人同士の合意ならなんの問題もなかろう。署名もきちんとしてあるだろう?」
「ですが、さすがに利率が高過ぎまして、暴利ではないかと」
侯爵はベイリーとか言う若造を睨みつけた。
「お前、使用人ごときが契約にケチをつけるとはどういうつもりだ」
「誤解なさらないでください。今のは伯爵様のご意見でして、私の意見ではございません。それで伯爵は提訴されました」
「え?」
あの、脅しつければノミの心臓ほどの度胸もない伯爵が?
「なにを言っているのだ。本人が署名しているのだぞ?」
「そう言ったことは、裁判所の方にお任せしてもいいのではないかと考えられたようです」
「なにを馬鹿なことを!」
話が思うようにいかないので、レイノルズ侯爵は、青筋を立てて怒鳴りつけた。
常軌を逸した激怒で、態度のいきなりの豹変っぷりは、異常性を感じさせられる。
しかし、ベイリーという若造は、侯爵の圧をまるで気にしていない様子だった。
「本日のご用件を伺ってもよろしいでしょうか?」
レイノルズ侯爵はカッとなったが、とにかく息子の罪を軽くするために婚約契約書が必要だった。
「息子のボリスとシエナ嬢の婚約契約書をもらいに来たのだ」
侯爵自らが足を運んだのだから、当然、伯爵が応対すべきところをこんな若造を代わりに出しおって。
「そのようなものはこちらにはございません」
涼しい顔でベイリーは言った。
「なんだと?」
「先日、憲兵の方々が来られまして、証拠品として没収されました」
「没収?」
「ええ」
「ここにはないと?」
「憲兵の方にお尋ねになられてはいかがでしょうか。私どもの方には、没収された際、受け取りを置いていかれました」
丁寧な憲兵である。
とはいえ、没収されてしまったというなら、絶対に返してもらえないだろう。
「伯爵は署名されたあとなんだろうな?」
「いいえ?」
ベイリーは答えた。
「する前に持っていかれてしまったとおっしゃっていました」
「ああ、でも、それなら……」
証書など作ればいいだけだ。
「でも、日付が新しいものだったら、ボリス様の罪の軽減の役には立ちませんよ?」
「馬鹿者。そんなもの、前の日付で書くだけだ」
ベイリーは困った顔になった。
「憲兵は前の文書を持っています。伯爵の署名はなくても、日付は書いてあると思います。余計、疑われると思いますがね?」
「伯爵と口裏を合わせれば、誰も問題にするまいが」
日付けを合わせるのは、当然だろうと侯爵は大声を出した。ベイリーは頭をかいた。
「でも、そもそも伯爵は署名なさらないと思いますよ?」
侯爵は、ヒヤリとした。
伯爵が裏切ったのだ。
ベイリーが淡々と説明した。
「ボリス様は現在勾留中です。おそらくなんらかの処分は受けるでしょう。大事な娘をどうしてそんな男に縁付けなければならないのですか?」
レイノルズ侯爵は、ベイリーという男の顔を睨みつけた。
舐めきって、金蔓扱いしてきた弱い人間に反抗されたのだ。
「なんだと? 伯爵を出せ!」
「来ませんよ。それから、この家で大声を出さないでください。あなたと伯爵は現在争い中なんですから。ご自宅には帰られましたか?」
「自宅? なぜ、そんなことを聞く?」
「ご自宅には、リーズ伯爵家からの公式文書が届いていると思います。提訴しましたからね。そちらを、まずは、よくご確認ください。伯爵も婚約などは考えられないでしょう」
「元はと言えば、この家の娘が悪いのだぞ? わしの息子と婚約していたものを他の男と逃げおって。侯爵家の名に泥を塗ったのだ。それが全ての原因だ。不貞のアバズレ娘を産んだ家が、よくも迷惑をかけた当家に謝罪もせず、娘を代わりに寄越すことすら拒むのだ」
レイノルズ侯爵は大声で怒鳴った。
「どけ! たかだか執事の分際で俺に口答えするとは何事だ。伯爵から首を切られるぞ」
相手はたかが執事。リーズ伯爵は気が弱い。大声で威圧すれば、すぐにおびえて、いいなりだった。
だが、ベイリーは目をキラリと光らせた。
「あなたの話を聞いていると、人間がまるで奴隷のようですがね。でも、聞くところによると、あなたの息子のボリス様は、娼館に出入りされていたそうで」
「それがどうした。娼館に出入りする男なんか、いくらでもいるだろう」
「問題は、娼館かよいじゃありません。そこで買った女に暴行を働いていた点ですよ。街で噂になっています。女に乱暴を働く男なんて、いくら婚約者でも、命の危険を感じたのかもしれませんね。良い娘なら、親の言うことを聞くべきかもしれませんが、暴行されるとなると、さすがに怖いでしょう。逃げるかもしれません」
レイノルズ侯爵は黙った。ベイリーは本当だったのですかと言う顔になった。
「そんな……そんな証拠もなにもない話……」
「それがね。まさかと思ったのですが、本当らしいですよ」
ベイリーが言った。侯爵は初めて、まずいことが起きていることを感じ取った。
「なんでもね、王都にある娼館から売り物の女がケガを負わされた件で損害賠償が起こされているらしいですよ」
これまでなら、娼館は侯爵家をはばかって泣き寝入りだった。だが、今は違う。ボリスは不敬罪で捕まった。もっとも相手にしてはいけない人物を相手にして。
「私どもは娼館なんかと関係ないですから何も知りませんが、一度、ご自宅に戻られてはいかがですか? 街の噂ですから、ほんとかどうか知りません。でも、リーズ家以外からの訴訟の報せも届いていると思います」
もっとつまらない、納めた商品への支払いが滞っている件についても請求書が届いているはずだった。
ベイリーが一歩前に進んだ。侯爵はあとじさりした。
「この家に来るのも、今回を最後にお願いいたします。リーズ伯爵は、今後は、あなたさまにはお会いにならないとおっしゃっています」
「なんだと?」
「ボリス様の拘留をお聞きになられ、考えを変えたとおっしゃっておいでです」
「何を。会わないだなんて、借金を払わない気か」
ベイリーが冷たく笑った。
「その件に関しましては、もちろん法廷でお会いできますとも。これまでの支払いが妥当だったかどうか、弁護士に相談しています。実際に会うのは、代理人になると思いますが」




