第68話 バッチリ取り込まれる
もう夜遅かったので、侯爵家に着いてもシエナは控えめな感じの侍女一人にしか出会わなかった。彼女は手際よくシエナの身の回りの世話をしてくれ、なんだか格式ばった客室へ案内してくれた。
侍女はまるで消えるようにいなくなり、立派な客室だったが、シエナは居心地の悪い晩を過ごした。
「今日は強引にここに連れてこられてしまったけれど、明日になったら、キャロライン様のところに謝りに行こう」
絶対にそうしよう。シエナは固くそう決意するとようやく少し気持ちが落ち着いた。
そしてやっと眠りに落ちることが出来た。
「おはよう」
さわやかに現れたのは、騎士学校に行っているはずのリオだった。
その後ろからはビクトリアとダイアナが顔をのぞかせていた。
「お嬢様!」
彼女達は、むしろ泣きそうな顔でシエナに向かって叫んだ。
「ようやくお目にかかれて嬉しゅうございます!」
「予定よりずっと遅くなってしまいましたが、やっとこの家にお迎えすることが出来ました!」
予定よりと言う一言に引っかかったが、リオが手短に朝食の間に下りてくるよう侍女たちに言いつけた。
「コーンウォール夫人が待っている」
聞いた途端に、シエナは顔色青ざめた。
コーンウォール夫人とは、お茶会に何回か誘われ、ベイリーの熱心なすすめもあって参加し面識がある。
さすが、社交界でもその才覚と才能が重視されているだけあって、気の利いた洒脱な会話をされる方だったが、残念ながらシエナは演劇や最先端のドレスや、流行の東渡りの陶磁器などに詳しくなかったので、余りしゃべれなかった。
印象が良くなかったのではあるまいか。
大人しくて朝らしい、簡単なドレスを着せ付けてもらって、朝の食堂に向かうシエナは、試験を受けに行くような気分だった。
しかし、案に相違して、コーンウォール夫人は、シエナに向かって気軽に微笑んでくれた。
「よく来たわね、シエナ。このままでは、リオの根性なしに呆れ果てて、私が代わりにリーズ家に申し込みに行かなくてはいけないかと思っていました」
「コーンウォール夫人!」
リオが抗議の声を上げた。
「リオは臆病で、自分がアッシュフォード子爵だとばれたら、きっとあなたが気持ち悪がるだろうと心配していたのよ」
夫人は銀の光沢がある濃い紫色のドレスを着ていた。袖口からこぼれるアイボリーの凝ったレースは、その衣装が非常に高価な物だということを示していた。
「新居の用意に匹敵するくらいの金を出すだなんて……もちろん、侯爵家の結婚ともなれば、もっとずっとお金がかかるし、どうせ家具も衣装も結婚すれば無駄にはならないとリオが主張するものだから、許しましたけれど」
シエナはゾッとした。
つまり、最初からハーマン家ではシエナのことを婚約者と思ってお金を出し続けてきたのだ。
「その代わり、出された条件は全部クリアしました。今学期の成績は武芸、学科とも一番での通過です」
リオは淡々と言った。
「本当にあなたはハーマン侯爵を説得するのが上手いこと。侯爵は今はもうベッドに寝た切りになってしまっているけれど、リオの活躍だけが楽しみなのよ。シエナ、後でハーマン侯爵を見舞ってちょうだい」
シエナはぎくりとした。
つまり、それはリオの婚約者としてお目見えせよということだろうか。
これでは、ブライトン公爵家に戻れなくなってしまう。
「僕が大変お世話になった方だ。ハーマン侯爵の奥方は、実は先代のブライトン家の長女だ。今のご当主から見たら、伯母上に当たる。侯爵は僕と全く同じように、若い頃騎士学校に入って頭角を現したのだ」
「当家はまんざらブライトン公爵家と縁がないわけではないの。もっともリオは養子だから、血縁関係はないのだけれど」
すらすらと交わされる会話に、口をはさむ余地はない。
シエナは猛烈に焦って来た。
「そうそう。実はアラン殿下から今朝手紙をもらってね」
大したことでもないかのように、リオが言葉を継いだ。
「え?」
思わずシエナは小さく呟いてしまった。殿下がリオに向かって手紙を書くだなんてあり得ないと思う。
「もちろん、直筆ではない。ブルーノ伯爵による代筆だ」
それはそうだろう。
「あのパーティの晩に、殿下に無礼を働いたボリス・レイノルズと父親のレイノルズ侯爵は不敬罪で拘束されているらしい」
「まあ」
ゆったりと紅茶のカップを手にしていたコーンウォール夫人が、ものすごく落ち着いた様子で感想を述べた。
「何を仕出かしたのかしら」
「それから、取り調べの最中でわかったことだが、リーズ伯爵は、娘は誰とも婚約していないと公言したそうだ」
シエナには訳が分からなかった。あんなに結婚しろと迫っていた父なのに?
「大方、不敬罪なんかになってしまったレイノルズ家と縁を結びたくなくなかったのでしょう」
悠然とコーンウォール夫人が言った。
「まあ、おそらくはそうでしょう」
リオは手紙をたたみながら言った。
「シエナ、読むかい?」
シエナは震えながらうなずいた。
彼女をリーズ伯爵家から追い出すことになった原因が、こうもあっさりと消えてなくなるとは。
「アラン殿下はなかなかの策士だな」
リオは笑いながら言った。
「あなたの忠義に答えてくれた。それから、ブルーノ伯爵はハーマン侯爵の病状を聞いて、なんでもセドナではあの病気の治療法があるらしい。医師を遣わしてくれるらしい」
「聞いたことがあります。ありがたいわ」
コーンウォール卿夫人が言った。
リオは食事を終えてシエナのそばに回り込んだ。
「僕は、リーズ伯爵を訴えている」
「え?」
どんな理由で?
「僕はもう成年だ。僕の両親から預かった資産を返してもらいたいのだ」
そおっとコーンウォール夫人の方を窺うと、夫人は澄ましていた。
「マーク・リーズは当時商会を経営していたわ」
彼女は言った。
「奥様は一人娘でマークより十歳も年下だった。でも、二人は愛し合っていて、マークは貴族の身分を捨てて、商会で働き始めた。私は会ったことがあるけれど、はつらつとした好青年だった。お兄様の伯爵は、自分と比べて少し劣等感を持っていたのではないかしら。憶測ですけどね」
シエナは石のようになって、彼女の話に耳を傾けた。
「相当な財産を持っていた筈よ。それは全部リオのものだと思うの。成年に達したから、返して欲しいというのは当然でしょう」
「だぶん、でも、まったくお金が無いのでは……」
自分の父親のことをそう言うのは嫌だったが、シエナはもぞもぞと言いだした。
「リーズ伯爵のところには弁護士を派遣したよ」
リオは全く動じた様子はなかった。
「レイノルズ侯爵から、相当金を搾り取られていたはずだ。一方的な婚約破棄は確かに賠償請求の対象になると思うが、余程悪意的でなければ、そこまで大きな金額にはならないはずだ。例えば、シエナとジョージの婚約解消にはお金は動かなかっただろ?」
「だって、ジョージの浮気が原因ですもの。私と結婚したくないというのが理由でしたから」
「そうだね。ジョージが悪い。ゴア家にも賠償請求を掛けてみよう」
「え?」
あのゴア家が賠償に応じるかしら?
「一方的な婚約破棄には違いないだろう。たいした金額にはならないと思うけど、今、ちょっとやってみたい気がするな」
なぜかリオはニヤリと笑った。それから、真顔に戻って言った。
「レイノルズ家と言うのはあくどいことで有名なんだ。きっとリーズ家もあれこれ理屈をつけられて、多過ぎる慰謝料を支払わされていた気がする。伯爵は腰抜けだからね。今なら、チャンスだ。何しろ、レイノルズ侯爵と出来の悪い息子は、拘留されている。賠償金だなんだで、もめだしても嘘や偽りの証拠を出すことは難しいと思う。不敬罪の方に影響するからね」
着々と何かが進んでいる。
食事がすむと、ダイアナとビクトリアがお召し替えをと迫って来た。
夕べは客室に泊められたのだが、今日は別の部屋だという。
「あの……」
「さあ、こちらですわ」
公爵邸の中はよくわからない。奥の方に入っていき、二人が嬉しそうに開けたドアの中の部屋は、すっかり……すっかり仕度が整えられていた。
全部見覚えがあるものだった。
そう、シエナが住んでいたリーズ伯爵家の家具一式が全部運び込まれていた。
そのほか、高価そうな鏡や、花が活けられた花瓶などは新顔だったけれど。
「浴室と……バルコニー」
「まずはお召し替えを。ハーマン侯爵がお待ちですわ」




