第42話 新たな婚約
ベイリーが走り去った後、シエナはダイアナにポツリと言った。
「私、アッシュフォード子爵もお目にかかったことがないのよ」
ダイアナは、鬼瓦のような顔の中の大きな目をさらに一層見開いた。
「アッシュフォード子爵はどうお考えになるかしら」
シエナはポツリポツリと言葉をこぼした。
「私が誰かを好きになったとしても、どうやったらそれを通せるのかわからないわね」
ダンスパーティの衣装はアラン様とアッシュフォード子爵が贈ってくれた。
生活費はアッシュフォード子爵に見てもらっている。
自分の稼ぎでは、食べていくのがやっとだ。
「シエナ様。誰かを頼ることも大事でございますよ」
ダイアナが言った。
「でも、このレイノルズ様と言う方は、侯爵家の跡取り息子だと聞いたわ。そんな方とトラブルになったら、頼られた側が迷惑だわ」
「ハーマン侯爵家は筆頭侯爵家でございます。こんな評判の悪い侯爵家とは訳が違いますわ」
「でもね、ダイアナ」
シエナはついに涙をポロポロとこぼし始めた。
「お父様は、私を売ったのよ。お姉様を売ったのと同じように。結婚と言っているけれど、侯爵夫人だなどと言っているけれど、きっとお姉様も嫌だったのだろうと思うわ。生涯その人に縛り付けられるのよ」
レイノルズ家は評判が悪かった。父は強欲で息子は節操がないと言われ、リリアスに婚約を破棄されても、あまり同情はされなかった。
レイノルズ家の息子の方は、もう三十歳をだいぶん超えているはずだった。
リリアスに婚約破棄された後、リーズ家を徹底的に非難して、多額の賠償金を請求したことは誰もが知っている。おかげでリーズ家がすっかり傾いてしまったことも。
確かに顔に泥を塗られたと感じたのだろうが、まだ若い社交界に出たばかりの美しい娘と、放蕩者と評判の人相の悪い男の結婚は、娘に嫌がられても無理はなかった。
だが一方で、婚約話だけを聞いた連中は、リリアスのことをお金に目が眩んで、どんな男でも構わない女だと陰口を叩く者もいた。
それがやっぱり望んだ結婚ではなかったのだと、シエナたちにわかったのは、彼女が駆け落ちした後だ。
リーズ家のリリアスは無分別だと非難されたが、それきり姿を見た者はいない。
これまで大切に育てられてきた深窓の姫君が、経済的裏付けもなく、突然家から出て暮らしていける筈がない。今ごろはもう死んでいるかも知れない。
度が過ぎるほどの厳しい取り立ては、とても貴族間のやりとりとは思えなかった。
むしろ押しつけたような無理のある結婚話の末に起きた悲劇だった。
しかし、それを理由にした厳しい取り立ては、まるで高利貸しのようだった。伯爵はいずれ破産し、その領地や爵位は、レイノルズ家のものになるのだろう。
むしろ、それが狙いだったのでは?
話を聞いたどの貴族も、みんな疑惑を抱いて、レイノルズ家を遠巻きにした。
娘を嫁に出そうという家はなかった。何をされるかわからない。
プライドが高いレイノルズ家は、相手にされないのは自分達が悪いからだと認めなかった。特に父の侯爵はうまく立ち回ったと得意に思っていた。
だが、息子の縁談がまとまらないのには苛立っていて、評判が悪いからだということも薄々気がついていた。
「まったく世の中には勝手なことを言う輩が多いものだ」
だから、逆にリーズ家の末娘との婚約は、うまい話に思えた。
「寛大な家だと評価されるだろう。婚約破棄をされたのだ。大変な恥だ。こちら側は何も悪くないのに。それをチャンスを与えることになる。リーズ伯爵は感謝するだろう」
「騎士学校の恒例のダンスパーティで見かけたのですよ。兄と踊っていました」
「ああ、パトリックか。落ちぶれて辺境で働いていると聞いたが、戻ってきていたのか」
「リリアスと同じ、とてもきれいな娘でした」
「お前好みだったわけだ」
侯爵はクツクツと笑った。息子の放蕩には正直賛成しかねたので、嫁ができて落ち着いてくれることを期待した。
「リーズ家は必ずわしのいうことを聞く。お前もいい年だ。結婚式は早めにあげる方がいいと思うぞ」
一方で、レイノルズ侯爵夫人は反対だった。
「どうして、そんなケチのついた家の娘を迎えるのですか。もっと評判の良い家の娘がいくらでもいるではありませんか」
「しかし、母上」
息子の方はわからずやの母に困惑した。母は、父以上にプライドが高く、頑固だ。現実を見ない傾向がある。
「若くて美しい令嬢です」
「そんな娘はいくらでもいるでしょう。持参金のある娘の方がいいと思いますよ、ボリス」
「私のいうことならなんでも聞くのですよ。父もそう言っていました」
「まあ、はしたない娘だねえ。侯爵家に媚びる気かえ」
それからしばらく黙っていたが、ついにお許しが出た。
「仕方がない。娘の方から惚れ込まれたんでは、袖にもできないだろう。お前もいい歳だから、結婚は急いだほうがいい。ここへ寄越しなさい。侯爵家にふさわしくきちんとしつけなければならないから」
どうも、母に預けるとろくなことにならない気がしたが、早めに迎えに行って、預けないと母のことだ。気が変わるかも知れなかった。
それに、この話が流れたら、息子がモテると妙に自信をつけた母が、どこぞの妙齢の評判の良い令嬢を妻にするよう圧力をかけてくるかも知れなかった。
ボリスは、自分が適齢期を過ぎてしまったことはわかっていたし、モテるはずがないということもわかっていた。
リーズ家の娘ならチャンスだ。借金漬けにしているのだ。気の弱い伯爵は、一言脅せば……例えば、利率が変わったと言い出して借金を増やしたところで、訴え出たりしないだろう。
レイノルズ侯爵の一人息子、ボリスはニヤリとした。
あんな美しい娘を手に入れられるのだ。
あのダンスパーティでみた姿を思い出すと笑いが止まらなかった。
「騎士候補生の連中も、さぞ、羨むだろうて」
思い出したのは、小僧と呼びかけられて、じろりとこちらを睨んだ男だった。
何者も恐れぬ目をした若造だった。
「世の中を知らんな。まあ、お前の手には入らん。世の中はそういう仕組みになっているんだ。身の程を知る良い機会だろう」




