第115話 告白
そのあと数週間、シエナは、ブライトン公爵夫妻やコーンウォール卿夫人やカーライル夫人と一緒になって、はらはらしていたが、何がどうなっているのかよくわからなかった。
「大丈夫よ」
アリス嬢は平然としていた。
「キャロライン様が、自分がやりたくないことや、相手が嫌がることを強行するわけないわ」
なんだか目が覚めたような気がした。
「本当にそうね」
それができるだなんて、えらいと思う。
「人の顔色ばかりを窺っている私には無理だわ」
思わずシエナがつぶやくと、アリス嬢が変な顔をした。
「確か第一騎士団から、ノボリを取り上げたのってシエナよね?」
「え? ええ。まあ」
「それから、第一騎士団の騎士様を怒鳴りつけて、叱りつけたって聞いたけど。めちゃくちゃ迫力があって、とても逆らえませんでしたって、騎士様たちがしょんぼりしていたそうだけど」
それはさておき、あのリーズ伯爵を仕留めたのが、失礼、射止めたのがブライトン公爵令嬢だと言う噂が広まると、さすがのジェーン・ブッシュ嬢さえ黙り込んだ。
たまに夜会などで鉢合わせすることがあるが、キャロライン嬢が美しくなっていて、シエナは驚いた。
そして、兄のパトリックに微笑む。笑顔がまぶしいようだ。
兄の方はどう見てもはにかんでいる。
でもでも、内心うれしいらしい。シエナにはわかる。
「喝を入れたい。自分に正直になれ」
思わずシエナはつぶやいた。
もっと喜べ。キャロライン嬢は値打ちがある。兄にはもったいないくらいだ。
「よかったじゃないか」
リオは言った。
「キャロライン嬢は一筋縄ではいかない。赤公爵は確かに権力者だが、娘にはめっぽう弱いって言うしな」
リオは、コーンウォール夫人の、公爵はたった一人手元に残った娘を手放したくなかったのかもしれないと言った言葉に、納得していた。
「そうかもしれない。ブライトン公爵家の一番上の兄上は、キャロライン嬢とは十歳以上離れている。奥方は王弟一家の長女だ。立派にやっているそうだが、孫に会うのも一苦労だ。姉上も隣国に嫁がれた。公爵夫人も寂しいだろう」
高位貴族の常ではあるけれどと、リオは付け加えた。
「俺がシエナと結婚するのも苦労した。形を整えるために、パトリック殿を好きな辺境での仕事から引きはがして爵位を無理やり継がせた。彼は責任という言葉に弱いからな。今度は、思いがけなく高位の結婚相手を引き当てて、このまま結婚することになりそうだな」
「でも、貧乏リーズ伯爵家では、釣り合いが取れませんわ」
シエナの言葉に、リオは半目になった。
シエナには詳しくは知らされていなかったが、貧乏リーズ伯爵家という言葉は、もう存在しない。
キャロライン嬢の持参金は大変な額になるだろう。
それから、もちろんラッフルズがいる。
リリアスとの縁により、思いがけない幸運を手にした平民の大富豪だ。
決して、表には出ないが、事実は事実。ついには公爵家とのご縁までできたのだ。
エドワードは、リーズ家を絶対に貧乏させないだろう。
どこにも公表しないから、誰も知らないが、ラッフルズは資産の額から言えば、ブライトン公爵家をも凌ぐ。
ラッフルズは平民なのに、巨万の富を蓄えている。
だが、それは危険だった。彼らがどれほどの富を持っているか、王権や、それを取り巻く貴族たちに知られれば、うらやましがられ、ねたまれ、やがて何かの理由をつけて没収されてしまうかもしれなかった。
子どもを貴族の学校に入れるのには、ちゃんとした理由があった。貴族の友人を増やすためだ。友人なら助けてくれるだろう。少なくとも、敵にはならないでいてくれるかもしれない。
もっといいのは、貴族との結婚だ。親戚になれば、ラッフルズの富が自分の富になるのだから。
しかし、エドワード・ラッフルズの結婚は違う。誰にも祝福されなかった。婚約者がいるのに駆け落ちなんて、逆に排斥されたり非難されるのがオチだ。
しかし、今は彼らを非難するレイノルズ侯爵は行方不明になっている。
リーズ伯爵は代替わりした。
リリアスはリーズ家の令嬢だと認識され始めている。そして、その駆け落ちも、あのボリスとの結婚ではやむなしと認められるだろう。
もう一声のところだ。
そう。
どうして、キャロライン嬢とパトリックが夜を過ごしたとか、父の公爵が二人の恋に反対しているとかいう噂が消えないのかというと、その噂を巻き散らかしている連中がいるからなのだ。
ラッフルズが裏で手を回していた。イライザ嬢が主催しているお芝居との相乗効果で、世評は二人の結婚を後押ししてくれている。
あともう一歩だ。貴族階級にも芝居を流行らせなくては。
「それから、これ。イライザ嬢からのプレゼント。彼女がプロデュースした初めてのお芝居のチケットだ。観に来て欲しいって」
リオがシエナにチケットを渡した。
「まあ、イライザ嬢、頑張ったのね」
シエナは無邪気に目を輝かせた。リオは目を伏せた。
芝居の内容を知ったらなんというだろうか。
それは、リーズ前伯爵と、レイノルズ侯爵、そして特にボリスを悪役に据え、リリアスとエドワードの純愛を讃える物語なのだ。
実の父が、欲まみれで娘を売るように嫁がせる悪人に描かれている。
シエナとリオ、パトリックとキャロラインは一緒に芝居を観に出かけた。
キラキラした劇場はステキだった。
バルコニー席に陣取って、芝居を見る。
絶対に別れたくない人がいるのに、他の男と結婚しなくてはいけない。
家の利益になるからだ。父も母も話を聞いてくれない。
しかも反吐が出そうなくらい婚約者は嫌な男。
「ボリスそっくり……」
シエナは思わずつぶやいた。
「パトリックそっくり……」
恋人役をみて、キャロライン嬢がつぶやいた。
ん? 確かに似てるわ?
駆け落ちした場面は本当にドキドキした。
実は、相手は隣国の公爵で……ここらはちょっと違うかな? ヒロインはシンデレラ街道を駆け上がっていく物語だった。
芝居は大喝采のうちに幕を閉じた。
ただの恋愛物語ではなかった。多くのご婦人たちが、カーライル夫人のような女性たちが、自分の運命を切り開こうとする女主人公を応援した。
しかし、リオだけは、観客が立ち上がって「ブラヴォー!」と叫び夢中になって拍手しているときも、妙に冷めていた。
パトリックみたいに男前な俳優が「必ず君を助ける。どんな汚い手を使っても、君だけを守り抜く」と言った時、エドワードがやってのけた様々な汚い手を思い出して複雑な気持ちになった。
今だってそうだ。
娘の意に染まぬ結婚と言えば、現在進行形で、ブライトン公爵は、娘のキャロライン嬢がパトリックとの結婚を阻止していると言われている。
芝居というのは二日や三日ではできない。
だから、キャロライン嬢とパトリックの話が起きた時期を考え合わせると、多分偶然なのだろうけど、それにしてもタイムリー。
ブライトン公爵は針の筵かもしれない。なんだか気の毒。
「パトリック様、今日のお芝居いかがでした?」
キャロライン嬢は劇場近くのお店で芝居の後、パトリックと甘いものを食べながら聞いた。
ただし、カーライル夫人の監視付きだ。
パトリックも、前回のような事件には発展させたくなかった。証人歓迎である。
だが、別に二人の話を聞く必要はないので、カーラいつ夫人はかなり離れた席に座っていた。
「なんだかあなたのお父様が気の毒になってきた。非難されそうで」
「あの噂よね。私たちのこと、父が反対しているっていう話」
「そうだね」
「事実は違うのよね。あなたが反対しているのに」
ふと見ると、キャロライン嬢の目は涙でいっぱいだった。
パトリックはものすごく焦った。
反対なんてしていない。ただ、畏れ多いだけで……
「でも、その説明は私を傷つけるだけよ」
「キャロライン嬢?」
そんなつもりはなかったパトリックの声は、つい大きくなった。カーライル夫人が遠くからこっちを向いた。地獄耳。
「畏れ多いとかいうけれど、私のことを見ているわけではないのよね? そういって、全面的にお断りしているのよね」
パトリックはうまく言えなかった。彼は、ずっと自分に向かって言ったのだ。畏れ多いと。この花を手に取ろうと思ったりしてはダメだと。
「私とあなたはどうやって別れたらいいのかしら。あなたが私を好きにならないことはよくわかったわ。私はあなたといて、とても楽しかった。あなたも楽しそうだった。だけど、結婚したいわけじゃない。でも別れたら、父がかわいそうだわ。父のせいだと思われるわ」
そこは人でいっぱいの賑やかなレストランだったけれど、カーライル夫人も給仕もほかの客もみんな一瞬にして消え失せた。パトリックは、キャロライン嬢だけしか見ていなかった。
「私はあなたが好きだ」
うまく言えないパトリックが言った。
涙をポロポロこぼしていたキャロライン嬢が顔を上げた。
「私はあなたが好きだ。その思い切った口の利き方も、頭の回転が速いところも、何もかも好きだ。私は愚鈍だから」
「愚鈍なんかじゃない」
「私はあなたみたいな新しい考え方ができない。好きなこともできることも限られている。軍事だけだ。だから、一緒にいてもきっとつまらない」
キャロライン嬢は黙っていた。
「それに、私は金持ちでもないし、名家の出身でもない。あなたには、もっとふさわしい方がいるだろうと、もっとあなたを幸せにしてくれる人がいるだろうと思うのだ。だからあきらめなくてはと思っていた」
「私の気持ちは?」
お金がなかったら不幸せ。でも、財力や価格が釣り合っていることが理由の結婚が必ず幸せをもたらすわけではないだろう。
突然、パトリックはテオドール・クレイブンという名前の青二才を思い出した。
シエナの説明によると、国内でも一、二を争う名門の子弟で、資産家の嫡子。キャロライン嬢に付きまとっているという。シエナは人の悪口は言わないので、性格の良い方だとほめていた。
だが、一度、ダンスパーティか何かの折にキャロライン嬢に話しかけているところを見かけたことがあるが、まだ子どもで、しかも顔がまずい。
パトリックは自分の顔が標準なので、その一件でテオドールが憎くなった。確かに家格だけにこだわると、あのマズい顔を我慢しなくてはならなくなるのだ。まるで化け物に捧げられた人身御供だ。
「私はパトリック様が好きよ」
「……初めて女性から好きだと言われた……」
そんなことがあるはずがないわよねと、キャロライン嬢がおでこにしわを寄せて言った。
「……キャロライン嬢に好きだと言われたのが初めてだから」
ほかの女性にいくら同じ言葉を言われても、心に響かない。
「私でいいって言ってくれるの?」
これだけイケメンなくせに、何聞いているんだろう。
「あなたが好きよ」
パトリックは幸せで頭がぼおっとした。これまで、辺境の地をさまよったり、王宮で任務に着いたり、満足して暮らしていたが、何かが足りないことも感じていた。
それが何なのか、彼にはずっとわからないでいたのだが、王都なんかで見つけたのだ。陰謀や悪意に満ちた噂が渦巻く場所で、世界で一番大切な、可憐で純真なものを。
「一生かけてお守りします」
パトリックは思わず宣言した。クスッとキャロライン嬢は笑った。




