第8話 遅きに失す
モスクワへ入った元治は、ある男を探していた。
5年前に別れたきりの石之助である。
「あいつは間違いなく生きている。そう簡単に死ぬ男ではない。それに、あれだけの剣の使い手だ、ロシア軍の兵士にもその名が知られているはずだ。」
ボロジノでとらえたロシア兵の捕虜にも尋ねてみたが、手がかりはなかった。
ならば、モスクワ市内で何か分かるかもと思ったのだが、驚くことにモスクワはもぬけの殻であった。
ほとんどの市民が姿を消しており、残っているのは身動きの取れない老人や病人、こそ泥、売春婦ぐらいだ。
その時、モスクワ市内の各所から火の手が上がった。
ロシア軍自らの手でモスクワを焼き払ったのだ。わざわざこの街を無人の街にしてまで、ナポレオンに何も渡さないために。
ロシアという国は明らかに文明国ではない、まるで原始の時から何も変わらない未開の野蛮人の国家のようだ。
灰となったモスクワで寝床や食料にも事欠く中、アレクサンドル1世が和平に応じることを期待して、フランス軍は無為に居座り続けた。
しかし、和平などあろうはずもなく、とうとう雪が降り始め、本格的な冬がそこまで迫ってきた。
ここに至って、ナポレオンは、モスクワから撤退することを決断した。
あまりに遅きに失した決断であった。
10月とはいえロシアではすでに冬が始まっている。地面は白く凍てつき、吹雪が容赦なく兵士たちを襲う。
兵士たちは持てるだけの食糧を持ち、身体中にありったけの布を巻き付け、もはや威風堂々《いふうどうどう》たる軍隊ではなく、乞食の集団のようになって西に向かって退却した。
数少ない馬車には、怪我や病気で動けない者たちが山と積まれている。
しかし、御者はわざと荒々しく馬車を操った。その度に馬車は大きく揺れ、傷ついた兵士が一人また一人と振り落とされたが、決して馬車が止まることはなく、馬車に積まれた荷物たちは、地獄へ落とされまいと必死にしがみついた。
馬が倒れると、たちどころに兵士たちが群がり、生きたままナイフで切り裂かれ肉を食われた。火もとおさず生肉を食らう者までいる。
そして、兵士が倒れると、先ほどまでともに歩いていた戦友により、軍服どころか下着にいたるまで剥がされ、裸のむくろとなって捨てられた。
助けを求める声が聞こえたとしても、決して振り向く者などいない。
亡者たちの群を見ながら、元治は心の中でつぶやいた。
「ナポレオンよ、あんたはロシアを甘く見すぎたんじゃないのか。俺は、ロシア人と暮らし、あいつらがどういう人間かも知っているし、シベリアの冬も経験している。あんたら西洋の紳士の常識が通用する相手じゃないんだよ、ロシアという国は。」
「それにな、お天道様は、どうやったっていつかは沈んでしまうんだよ。こればっかりは、どうしようもないんだよ。」
しかし、撤退するフランス軍をロシア軍が黙って見ているはずもなかった。ロシア軍の兵士だけではない、家や畑を失い怒り狂った農民までもが、鍬や鎌を振りかざして落ち武者たちに襲いかかった。
馬が倒れたため大砲は捨てられ、撃つべき弾が尽きた銃は役に立たず、フランス軍にはもはや槍や刀しか武器と呼べるようなものはなく、それすらも捨ててしまった兵士もおり、最後には杖にした棒を振り回し、石や氷の塊を投げつけてでも戦うしかなかった。
もはや戦争と呼べるようなものではない。まるで、飢えた狼が羊の群に襲い掛かるがごとくだ。そして、羊には走って逃げる力すら残されていない。
フランス軍の崩壊を防ぐため、猛将ネイ元帥が殿を務めたのだが、彼が率いる一団の中に元治もいた。
襲いかかるロシア軍兵士や農民を相手に、元治はあらん限りの力で日本刀を振るった。自分が生きるための戦いではない、一人でも多くの者を故郷に帰すための戦いだ。
異国の地に取り残され、帰国の道を閉ざされた元治だからこそ分かる苦しみであった。
「我こそは日出づる国の金剛元治だ!」
そう叫ぶや、ロシア兵たちのまっただ中へと斬り込んだ。鬼神がのりうつった元治、いや、まさしく鬼と化した元治により屍の山が築かれ、これを見たロシア兵たちは恐れをなした。
元治の活躍もあって追撃の手が緩み窮地を脱したフランス軍は、西へ向かう最後の障害であるベレジナ川に到達した。
その頃、ロシア軍本営が置かれた小屋では、総司令官であるクトゥーゾフ将軍を中心に作戦会議が開かれていた。
「フランス軍がベレジナ川を渡る時が絶好の機会だ。橋をかけたとしても、渡りきるには時間がかかる。この時に一気に叩くべきだ。」
「しかし、フランス軍には悪魔の化身がいるらしい。我が軍の兵士たちの間にそのような噂が流れ、動揺が広がっている。」
「相当な剣の使い手である東洋人のことだな。」
腕を組んで黙って聞いていたクトゥーゾフに向かって、一人の幕僚が口を開いた。
「私にお任せいただけないでしょうか。毒を以て毒を制すのです。」
「何か策でもあるのか。」
クトゥーゾフの問いに対する答えとして、幕僚は小屋の外にいる男を呼びつけた。
「入れ!」
「誰だ、この男は。」
「パーヴェル・イシノスキー。私が知る限り一番の剣の使い手であります。」
そこには、鋭い眼光を放ち異様な格好をした男が立っていた。ロシア軍の軍服を身にまといながらも、腰に日本刀を刺した一人の男が。